木場~古石場~牡丹町の街歩き。富岡八幡宮も立ち寄る予定です♪

木場~富岡 イベント

洲﨑神社と玉の輿たまちゃん

洲﨑神社の由来
元禄十三年(1700年)護持院隆光大僧正のご尽力により、江戸城中紅葉山に五代将軍綱吉公の御生母桂昌院の守本尊(まもりほんぞん=自分を守ってくれるものとして、いつも心から信仰している仏)である弁財天(弘法大師作)と稲荷社を祀り洲﨑弁天社と称した。以来当社は江戸の観光名所として栄え、明治の神仏分離の際、洲﨑神社と改める。

玉の輿の起源
洲崎神社は「玉の輿」の神社としても知られています。桂昌院は京都の八百屋仁左衛門の次女でした。このお玉は後に大奥に入り、春日局に見出されて3代将軍家光の側室となって綱吉を出産し、お玉の方と呼ばれていました。お玉の方は家光の死後に出家して桂昌院となりました。このお玉さんが八百屋の娘から大出世したことから「玉の輿」という言葉ができたそうです。

深川ギャザリア ガーデンコート

株式会社フジクラは光ファイバー、電線、ワイヤーハーネス等を製造する非鉄金属メーカー。日経平均株価の構成銘柄の一つ。電線御三家(住友電工・古河電工・フジクラ)の一角。 光ケーブルの接続で必要な「光ファイバ融着接続機」で世界首位。携帯電話・デジタルカメラ等に使われる「フレキシブルプリント基板」で世界3位。光ファイバーでは世界10位(国内首位)。オフィスビルを中心とした複合施設である深川ギャザリアも運営している。

古石場川親水公園(東側)

地名が示すように古くは江戸幕府の石置場であった。埋立てが進み、周辺に深川海辺新田(しんでん)飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場と呼ばれる地ができ、明治24年に統合して深川古石場が新設された。太田道潅が江戸城を築く時、伊豆方面から右を舟で運搬してこの地におろし、加工して再び舟で運搬して築城したと伝えられている。

牡丹町公園

江戸時代は、海岸を埋め立てた土地であった。昔、このあたりに牡丹を栽培する農家が多かったので、牡丹町と名付けられた。また現錦糸町あたりの牡丹園の職人が多く住んでいたので、この名が起こったともいう。隅田川河口にできた寄り洲だった。江戸初期の一時期、播州姫路の領主榊原越中守(えっちゅうのかみ)の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。

古石場川親水公園(西側)

富岡八幡宮

昭和6年、従来の富岡門前町と数矢町などいくつかの町を合わせてできた(数矢町は江戸時代浅草の三十三間堂がこの地に移り、遠矢の数を競い合ったところからその名がある)。富岡の名は、現在の横浜市富岡町にある富岡八幡宮の分霊により、深川富岡八幡宮が建立されたことに由来し、この地が名付けられたと言われている。

深川不動堂 (成田山東京別院)

慶長の初期(1596~1614)、江戸がまだ町づくりをはじめたばかりのころ、深川八郎右衛門という人が、摂津国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名としたが、これがこの地一帯をよぶ名称となった。深川区の名はこれをうけたものである。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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