虎ノ門と新橋の史跡巡り

14:30〜虎ノ門

虎ノ門金刀比羅宮

万治3年(1660年)、讃岐丸亀藩の藩主・京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請。
延宝7年(1679年)、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座。
昭和40年(1965年)、虎門琴平会館ビル建設。
平成13年(2001年)11月28日、東京都選定歴史的建造物に選定される。
平成16年(2004年)11月30日、虎門琴平会館ビルを建て替え、虎ノ門琴平タワーが竣工。

虎ノ門琴平タワーは社務所や神楽殿といった施設と一体化している。

新聞創刊の地

明治7年(1874)11月2日、洋学者・子安峻(こやすたかし)らが、虎ノ門外琴平町(ことひらちょう)1番地の旧武家長屋で、我が国初の本格的大衆紙読売新聞創刊しました。漢字にはふりがながつけられたので、市民から非常に喜ばれました。

江藤新平君遭難遺址碑

江藤新平(1834〜1874)、江戸時代後期の佐賀藩士、明治時代の政治家、官吏、教育者。立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に「四民平等」を説き浸透させた。、1873年、征韓論争に敗れて辞職。翌年に民撰議院設立建白書に署名する。帰郷後は佐賀の乱の指導者に推され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。功績を基に、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」としても列せられる。

溜池櫓台跡

溜池櫓台跡は、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓(※)のうちの1つです。江戸城隅櫓はいずれも主要な道に面した場所につくられていました。残る2つの隅櫓は、筋違門と浅草門に所在していましたが、どちらも取り壊されており、唯一この石垣だけが現存しています。ただしこの櫓台も、以前は東側に溜池落口の櫓がもう1つあり、一対だったようです。

※隅櫓とは、日本の城の敷地内において、曲輪(くるわ)の石塁や土塁の隅角に建てられる櫓のこと。櫓とは、敵の監視などを意味する物見と収蔵、防備の役割をかね備えた構造物。

 一対の溜池櫓台は、1636年(寛永13年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築されたという記録が残っています。かつて、この地点は近世初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域でした。地形の上でも、この地点は東側に広がっていた溜池一帯を見下ろすことができる位置にありました。溜池及び周辺の堀は明治時代に埋められましたが、近隣の文部科学省構内には3か所の石垣が残っており、かつての外堀の姿をしのぶことができます。

工部大学校阯碑

工部大学校は、明治時代初期に工部省工学寮が創設した技術者養成機関で、日本初の工学教育機関。今日の日本の工業技術の礎を築き、工業発展に多大な役割を果たした。現在の東京大学工学部の前身の一つである。1873年(明治6年)開設の工学寮工学校を1877年(明治10年)に改称したもので、1886年(明治19年)に帝国大学に合併。校舎は、現在の千代田区霞が関三丁目、文部科学省および金融庁のある一帯(霞が関コモンゲート、江戸時代の日向内藤家上屋敷跡地)にあった。

国立教育会館跡

本館は1964年(昭和39)6月に教育研修施設の設置が必要を目的に設置され、同年千代田区霞が関に竣工。同施設には虎ノ門ホールが存在していた。法人としては2001年3月に解散。解散後も施設は文部科学省の分館として使用していたが、霞が関コモンゲートの再開発により2004年3月に閉鎖・解体した。

霞が関ビルディング

1968年竣工、高さ147m日本初の超高層ビルで、1970年(昭和45年)3月に世界貿易センタービルディングが竣工するまで2年弱、日本最高度の建築物であった。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡 地下展示室

もともとは高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在するのみです。ここでは長さ20m、高さ7.4mの石垣を保存したうえで一部を埋め戻して虎ノ門駅の文部科学省連絡通路内で展示されています。説明板には当時の石積工法や工事について記されています。この石垣は、1636(寛永13)年、佐賀藩主鍋島勝茂らによって江戸城の総仕上げとしてつくられたもので、石垣表面には石を割った矢穴や担当した大名家の刻印が見られます。

16:30〜新橋

町名の新橋は、汐留川(新橋川)に架かっていた「新橋」に由来する。

1710年、ここに芝口御門が造られた事により新橋が芝口御門橋と改称された。
1724年、芝口御門が焼失。以後も門が再建されなかったため、芝口御門橋は再び新橋の名に戻った。
1872年、日本初の鉄道が新橋駅に開通。江戸時代には主に銀座よりが新橋だったが、駅が設けられて後は港区側が新橋と呼ばれるようになった。
1878年、芝区成立に伴い、東京府芝区の所属となった。
1882年、新橋駅前から日本橋まで、日本初の馬車鉄道が開通した。
1909年、烏森駅(現在の新橋駅)が開業。
1914年、新橋駅が汐留駅に、烏森駅が新橋駅に改称された。
1923年、大正関東地震関東大震災)により、新橋地区はほとんど焦土と化した。
1932年、12月1日 震災復興において大規模な町名整理が行われ、新橋地区の数多くの町が消滅し、新たに新橋一丁目から新橋七丁目が成立した。町名として「新橋」が登場するのはこのときが最初である。
1945年、終戦後しばらくの間、都内最大規模の闇市が新橋に開かれた。

闇市(ヤミ市)

戦後の日本では、都市人口が増加し、政府の統制物資が底を突き、配給制度は麻痺状態に陥っていた。上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。食糧管理制度の下では、配給以外に食料を入手することは違法行為だった。

終戦翌日の昭和20年(1945年)8月16日に神戸の三ノ宮駅付近や京都市内でヤミ市が開かれている。東京では8月20日、新宿駅東口に開店した露天市がヤミ市の第1号となった。その後雨後のタケノコのように各地にヤミ市が誕生。東京都北区を例にすると、赤羽・十条・王子など強制疎開で空地になっていた駅前広場にヤミ市が立った。これらはすべて不法占拠であり、国内国外の暴力団も多数おり治安悪化となった。GHQの統制により、当時銃器を持たなかった警官隊は武装した外国人暴力団に対し無力であった。

1948年頃から食事情は落ち着きを取り戻し始めた。1949年4月野菜の統制撤廃、6月飲食店再開、1950年水産物の統制撤廃、1951年10月麦の統制撤廃を経て、東京からヤミ市は消えた。ちなみに米は特殊で段階的に緩和されていき、自由に販売できるようになったのは1994年に食糧管理法が廃止されてからである。

闇市の面影

新宿思い出横丁、新宿ゴールデン街、中野サンモール、上野アメヤ横丁、吉祥寺ハモニカ横丁、横浜野毛ハーモニカ横丁、大阪の鶴橋商店街、神戸の元町高架通商店街など。かつては、秋葉原、新橋、池袋、溝口、船橋など、鉄道駅を中心に大規模な闇市があった。秋葉原電気街、ニュー新橋ビル新橋駅前ビルなど、一部は形を変えて今にもつながっている。漫画「はだしのゲン」では横浜の闇市が「哲也-雀聖と呼ばれた男」では新宿の闇市が登場している。他にも多数描かれている。

十仁病院

日本最古の美容整形の医療機関。1938年(昭和13年)、新橋駅銀座口前に「十仁病院」が開設。初代院長・梅澤文雄が漢方を用いた抗老化医学(アンチエイジング)を施す回春堂医院を1931年に御徒町で開いたのが始まり。現、十仁美容整形

アマンド

滝原健之(1919-1990)は引揚兵として1946年に中国から帰還し、同年、新橋の闇市で甘味処「甘人」を開店。銀座界隈を中心に人気を集め、滝原が水商売の経営者らを支援したことから、銀座のクラブやバーがアマンドのケーキや喫茶店を客への土産やホステスの待ち合わせ場所として積極的に利用し、クリスマス時期などには各店から百個単位でケーキの注文を受けるほどとなり、滝原も人気芸能人を連れて銀座を飲み歩いた。芸能・文化方面のタニマチとしても知られ、宝塚歌劇団、三島由紀夫の浪曼劇場などを支援した。最盛期には最大約30店舗まで拡大した。現在の店舗は六本木店のみ。本社は西新橋3丁目19番12号。

新橋花柳界の歴史

新橋花柳界の歴史

安政4年(1857年) 、当時の金春新道(こんぱるじんみち、現在の銀座八丁目)で常磐津指南をしていた人気の女師匠が、しばしば付近の料理茶屋や船宿の宴席に呼ばれるようになり、幕府に御墨付をいただきます。

幕末期(1853~58年頃) 各藩の御留守居役(おるすいやく、外交官のこと)達の公儀や他の藩との折衝、社交の場として新橋花街が多用される。

特筆すべきは、後に明治政府を樹立する薩長土肥の志士達の多くが新橋の馴染であったことです。当時まだ若く、西国出で無粋と見られていた彼らは、江戸文化の粋と呼ばれた柳ばしの花街では歓迎されなかった為、新興の新橋での宴席を好んだそうです。

今回いくところ

新橋跡の親柱

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

国鉄時代の連絡口案内板

狸広の像

港区立桜田小学校跡地は現在は桜田公園となっている。港区立桜田小学校は1877年(明治10年)開校。1991年、鞆絵小学校桜田小学校桜小学校が統合され、現在の御成門小学校となる。鞆絵小学校は1870年(明治3年)に東京府で初めて設置された東京最古の公立小学校6校のうちの第一校。第二校は番町学校(千代田区立番町小学校)、第三校は吉井学校(新宿区立愛日小学校)、第四校は湯島学校(文京区立湯島小学校)、第五校は育英学校(台東区立台東育英小学校)、第六校は深川学校(江東区立深川小学校)である。

烏森駅開業時の柱

乙女と盲導犬の像

ニュー新橋ビル

テキ屋だった関東松田組は第二次世界大戦後に荒廃した新橋一帯の青空市場(闇市)を仕切る構成員3000人の暴力団に成長。1946年に組長・松田義一が殺害されると、妻・芳子(よしこ、横浜出身、1917-1956)が2代目組長として松田組を引き継いだ。新橋闇市は不法占拠の露店が大半を占めたが、関東松田組らにより日本最大規模となる新生マーケットが設立された。その間も第三国人(華僑武装集団)、警察、暴力団らの武力抗争が続き、新生マーケットも焼失、1947年に関東松田組は解散した。その後の都市計画事業により、1971年にニュー新橋ビルおやじビル)が竣工した。

桜田公園

港区立桜田小学校跡地は現在は桜田公園となっている。港区立桜田小学校は1877年(明治10年)開校。1991年、鞆絵小学校桜田小学校桜小学校が統合され、現在の御成門小学校となる。鞆絵小学校は1870年(明治3年)に東京府で初めて設置された東京最古の公立小学校6校のうちの第一校。第二校は番町学校(千代田区立番町小学校)、第三校は吉井学校(新宿区立愛日小学校)、第四校は湯島学校(文京区立湯島小学校)、第五校は育英学校(台東区立台東育英小学校)、第六校は深川学校(江東区立深川小学校)である。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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