恵比寿〜代官山の歴史散歩|猿楽塚古墳・目黒新富士・旧朝倉家住宅を巡る

代官山の猿楽塚古墳

恵比寿から代官山へ歩くと、現在の洗練された街並みの中に、約2千年前の住居跡、6〜7世紀の古墳、江戸時代の富士塚、大正期の邸宅、昭和の集合住宅の記憶が重なっています。坂を上り下りしながら時代をたどれる、東京でも珍しい歴史散歩コースです。

恵比寿から代官山へ、古代から現代を歩く

恵比寿駅周辺から目黒川側へ下り、目黒新富士跡を経て代官山の高台へ向かいます。旧朝倉家住宅、猿楽塚古墳、ヒルサイドテラス、代官山T-SITE、旧同潤会代官山アパート跡、猿楽古代住居跡を結ぶと、古代から現代までの街の変化が一本の道になります。

代官山は買い物や建築の街として知られていますが、歴史の層は深く、古墳と弥生時代の住居跡が現代建築や商業施設と隣り合います。江戸の信仰と行楽、大正の邸宅文化、震災後の集合住宅、戦後の都市計画までを歩いてつなげられることが、この地域の大きな魅力です。

散歩ルート

  1. 恵比寿公園
  2. 目黒新富士石碑
  3. 旧朝倉家住宅
  4. 猿楽神社・猿楽塚古墳
  5. ヒルサイドテラス
  6. 代官山T-SITE
  7. 旧代官山同潤会アパート フォトメモリアル
  8. 猿楽古代住居跡

旧朝倉家住宅を見学する場合は、開館日と最終入館時刻を公式サイトで確認しておくと歩きやすくなります。坂道が多いため、史跡をじっくり見るなら時間に余裕を持ったコースが向いています。

目黒新富士跡|江戸の富士信仰と近藤重蔵

目黒新富士は、文政2年(1819)に幕臣の近藤重蔵こんどう じゅうぞうが三田村鎗ヶ崎の別邸内に築いた富士塚です。「東富士」「近藤富士」とも呼ばれ、昭和34年(1959)まで残っていました。現在は新富士を伝える石碑が別所坂児童遊園に保存されています。

江戸では富士山への信仰が広まり、市中や近郊に富士塚が築かれました。目黒では文化9年(1812)に富士講の人々が築いた「元富士」が先にあり、新富士はその7年後に登場します。目黒区の資料では、新富士は信仰だけでなく眺望や行楽の場としても親しまれたことが紹介されています。

近藤重蔵は蝦夷地・択捉島の調査で知られる人物です。別邸には三田用水を引き入れ、滝を設けていました。坂の上から富士山を望めた土地に人工の富士山を築いたことから、江戸の郊外文化とこの地域の地形が重なって見えてきます。

旧朝倉家住宅|大正の邸宅と崖線の庭

旧朝倉家住宅は、大正8年(1919)に朝倉虎治郎あさくら とらじろうが建てた和風住宅です。朝倉虎治郎は東京府会議長や渋谷区会議長を務めた人物で、主屋と土蔵は国の重要文化財に指定されています。関東大震災以前に建てられた大正期の大型和風住宅として、都心に残る貴重な例です。

代官山の旧朝倉家住宅に残る附属屋
旧朝倉家住宅の附属屋。大正期の邸宅文化を伝える重要文化財の敷地に残ります。撮影:Suikotei(CC BY-SA 4.0)

建物の背後には斜面を利用した回遊式庭園が広がります。平らな街路から庭へ入ると高低差がはっきり現れ、代官山が目黒川と渋谷川の谷に挟まれた台地の一角にあることを体感できます。朝倉家は地域の開発にも関わり、三田用水を利用した水車・精米業で発展しました。

関東大震災では土蔵の外壁などが被害を受け、その後修復されました。住宅、庭園、土蔵を一体で見ると、大正から昭和初期へ移る東京の邸宅文化が具体的に残っています。開館時間や休館日は渋谷区の旧朝倉家住宅公式案内で確認できます。

猿楽塚古墳|猿楽町の名につながる古墳

ヒルサイドテラスの一角には、猿楽町さるがくちょうの地名に結びつく猿楽塚古墳が残っています。渋谷区によると、この場所には大小2基の築山があり、いずれも6〜7世紀の円墳とされています。大きい方は高さ約5メートルで、猿楽塚と呼ばれています。

代官山の猿楽塚古墳
猿楽塚古墳。6〜7世紀の円墳とされ、猿楽町の地名にも結びつく史跡です。

周囲にはショップ、住宅、ギャラリーが並びます。その中に古墳時代の墳墓が残っているため、代官山では古代と現代の距離が驚くほど近く感じられます。町名の由来までたどれる点でも、この散歩の中心となる史跡です。

ヒルサイドテラス|代官山の街並みをつくった建築

猿楽塚の周囲に広がるヒルサイドテラスは、建築家・槇文彦が設計した建築群です。槇アソシエイツによると、第1期から第6期まで1969年から1992年にかけて整備され、店舗、ギャラリー、住宅、オフィス、ホールなどが組み込まれました。

代官山のヒルサイドテラスA・B棟
ヒルサイドテラスA・B棟。槇文彦の設計で、代官山の街並みを形づくった建築群です。撮影:Wiiii(CC BY-SA 3.0)

一度に巨大な再開発を行うのではなく、長い年月をかけて段階的に建物を加えたことが特徴です。旧朝倉家住宅の緑や猿楽塚を抱えながら現代建築が連なる景観は、現在の「代官山らしさ」がどのように形づくられたかをよく伝えています。

代官山T-SITE|武家地の記憶から現代の文化拠点へ

代官山T-SITEの公式サイトは、この敷地を水戸徳川家の屋敷跡と紹介しています。江戸時代の武家地の記憶を持つ場所が、現在は書店を中心とする文化施設になっています。

代官山T-SITE
代官山T-SITE。水戸徳川家ゆかりの土地に建つ、現在の代官山を代表する文化施設です。撮影:Dick Thomas Johnson(CC BY 2.0)

T-SITEは周辺の街づくりについて、朝倉家と槇文彦によるヒルサイドテラスが代官山の文化や雰囲気を育てたと紹介しています。武家地、大正の邸宅、戦後の建築、現代の文化施設という土地利用の変化を、短い距離の中で追える場所です。

同潤会代官山アパート跡|近代住宅から代官山アドレスへ

現在の代官山アドレス一帯には、かつて同潤会代官山アパートがありました。研究資料によると、1925年から1930年にかけて段階的に建設され、337戸の住宅に加えて店舗、浴場、管理事務所、食堂、娯楽室、児童遊園などを備えていました。

同潤会は関東大震災後の住宅供給を担った組織で、代官山アパートは新しい都市生活を支える集合住宅でした。建物は再開発によって姿を消し、2000年に代官山アドレスが完成しました。日本設計によると、北側外壁には旧アパートのファサードを想起させる意匠が取り入れられています。

現地のフォトメモリアルと現在の街並みを見比べると、代官山が古い住宅地を土台に再開発されたことが分かります。ヒルサイドテラスとは異なる都市更新の方法を近距離で比較できるのも、この散歩の見どころです。

猿楽古代住居跡|約2千年前の暮らし

猿楽古代住居跡は、1976年の公園造成工事で土器が見つかったことをきっかけに調査されました。翌1977年の発掘調査で住居跡が確認され、出土した土器などから弥生時代後期、約2千年前の集落跡と考えられています。

猿楽古代住居跡公園
猿楽古代住居跡公園。弥生時代後期の住居跡が保存されています。

1978年には復元家屋が建てられましたが、その後焼失し、現在は遺構を覆って保存しています。渋谷区の資料では、発見された住居の中に比較的大型のものが含まれていたことも紹介されています。

散歩の終盤でこの遺跡に立つと、猿楽塚よりさらに古い時代へ戻ります。商業地として発展した代官山の地下に、人々が暮らした古代の痕跡が残っていることが、この地域の時間の厚みを実感させます。

高低差を歩くと、代官山の歴史がつながる

このコースでは、坂や崖線が何度も現れます。目黒新富士は眺望のよい高台に築かれ、旧朝倉家住宅の庭は斜面を利用し、猿楽塚と古代住居跡も現在の猿楽町の中に残りました。地図だけでは分かりにくい高低差を歩くと、史跡が同じ地形の上に重なっていることが分かります。

古代の生活と墳墓、江戸の富士文化、大正の邸宅、昭和の集合住宅、戦後から現代へ続く建築と商業。代官山の街並みは、それぞれの時代の土地利用を消し去るのではなく、一部を残しながら更新されてきました。

関連記事

恵比寿から目黒方面へ歴史散歩を続けるなら、防衛装備庁、隧道跡、三田用水跡など恵比寿〜目黒の史跡を巡るナイトウォークで、目黒新富士や三田用水周辺を別の方向からたどれます。

代官山から南平台・鉢山町側へ足を延ばすなら、大橋・鉢山町・猿楽町・鶯谷町ナイトウォークもあわせて読めます。

参考資料