《茗荷谷》運動がてら新規開拓。普段いかない街、歩かない道を歩きます

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茗荷谷

このあたりは昭和41年4月1日の新住居表示の施行によって小日向(こひなた)の一部となるまでは「茗荷谷町」といっていた。茗荷谷の名の由来については、このあたり古くから茗荷の産地で、多くの畠で茗荷が栽培されていたことから里俗(りぞく)に呼ばれるようになったものだと言われている。江戸のころにはこの近くに切支丹屋敷や七間屋敷(切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷)があった。「御府内備考(1829年、江戸幕府の地誌編纂事業によって編纂(へんさん)された江戸に関する官選地誌)」にも「茗荷谷は七間屋敷の北の谷なり、むかしこの所へ多く茗荷を作りしゆへの名なり、今もそのなごりのめうが畠すこしのこれり、此辺にはことに広く、その唱へも名高き所なり」とある。

蛙坂

「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、 或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」 (改撰江戸志)『御府内備考』 には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に池があって、 ここにも蛙がいた。 むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので里俗(りぞく)に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、 切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、 この坂道は切支丹坂へ通じている。

切支丹屋敷跡

キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。

※シドッティは目黒区の「サレジオ会碑文谷教会」のイベントのときに登場

庚申坂

徳川慶喜終焉の地

徳川幕府最後の将軍慶喜は、 水戸藩主徳川斉昭の七男として、 天保8年(1837) 小石川の上屋敷 (現小石川後楽園一帯)で生まれた。その後、 御三卿の一橋家を相続した。 ついで、幕末の動乱のさなか、 長州攻めの陣中で没した第14代将軍徳川家茂のあとを継ぎ、 慶応2年(1866) 第15代将軍となった。翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、 駿府 (静岡県静岡市) に隠棲した。 明治 30 年 (1897) 東京の巣鴨、 さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。慶喜は、のちに公爵、 勲一等旭日大綬章を授けられ、 朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。 大正2年(1913) 11月22日、 急性肺炎のためこの地で没す。 享年76歳。 寛永寺墓地に葬られた。

神田上水路

日本最初の上水といわれる 「神田上水」は、江戸時代の初期、 徳川家康の命をうけて、 大久保藤五郎忠行 (主水)が開いた。 井之頭池を水源として、目白台下の現在の大滝橋あたりに堰を設け、 川の水位をあげて上水として流し、余った水は、 神田川 (江戸川) に流した。上水は、水戸屋敷 (現在の小石川後楽園の地) を通し、 現在の水道橋東側で、 神田川を懸樋でわたし、 神田 日本橋方面に給水した。 この上水は、江戸時代から長い間、 江戸東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。 1901年 (明治34) 6月、 飲用水としての給水を停止し、 その使命をおえた。この前の道路は、 神田上水の流路で、 開渠であったものを、 明治の初めに暗渠として道路としたものである。この道を、 通称 ” 水道通り” といい、 旧町名に、 水道町、 水道端の名を残している。

旧・土の段坂

処静院跡の石柱

浪士隊結成の処静院跡の石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修業と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織、浪士隊の結成大会が処院で行なわれた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久3年2月8日、京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことであった。

 幕末の傑僧(けっそう)と称せられている瑞は幼時 谷房とし 天保元年10月出羽の国(山形県)に生まれた。幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内処静院住職福田行誠のもとに学んだ。その才は見る見る内外に評価され30有歳にして士々の間においても認められる所となり 高橋泥舟、山岡鉄舟のよき理解者であった。彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取りつけ大いに政治的動きをなした。しかしながらこれは誤解を生む原因ともなり、慶応3年10月18日深夜、彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬、松岡丙九郎なる人物に三百坂で創殺された。時に38歳と記されている。

善光寺坂

 坂の途中に善光寺があるので、 寺の名をとって坂名とした。 善光寺は慶長7年(1602) の創建と伝えられ、 伝通院 (徳川将軍家の菩提寺) の塔頭で、縁受院(えんっじゅいん)と称した。 明治17年 (1884) に善光寺と改称し、 信州の善光寺の分院となった。 したがって明治時代の新しい坂名である。 坂上の歩道のまん中に椋(むく)の老木がある。 古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。 なお、 坂上の慈眼院(じげんいん)の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。

「ひとしぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川」 はせを (芭蕉)

 また、この界隈には幸田露伴 (こうだろはん、1867~1947) 徳田秋声 (とくだ しゅうせい、1871~1943) や島木赤彦 (しまき あかひこ、1876~1926)、古泉千樫 (こいずみち かし、1886~1927) ら文人、歌人が住み活躍した。

三浦梧楼将軍終焉の地

三浦梧楼(みうら ごろう、1847-1926)将軍は長州(現山口県)に生れ、文久3年19歳のとき、高杉晋作の率いる奇兵隊に参加し大活躍した。明治維新後は陸軍省に入り陸軍中将に昇進した。退官後は貴族院議員、学習院々長、枢密院顧問官などを歴任、子爵に列せられ、政界軍部に於ける御意見番として陰然たる勢力があった。嘗て本町会の設立にあたって非常にを貸して下さり、町会長に推たいした事もあったと伝えられている。大正15年当地でなくなられたので、ここに生前尽された将軍の偉徳を偲んで碑を建立した。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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