中島飛行機武蔵製作所の戦争遺跡と引込み線跡|下野谷遺跡・田無を歩く

中島飛行機武蔵製作所の戦争遺跡と下野谷遺跡を巡る歴史散歩のアイキャッチ

武蔵境駅から北へ延びる緑道をたどると、かつて巨大な航空機工場へ物資を運んだ鉄道の跡に重なります。その先にある武蔵野中央公園一帯は、中島飛行機武蔵製作所の跡地です。1944年11月24日、東京を狙ったB29による本格的な空襲はこの工場への攻撃から始まり、その後の設備疎開では八王子・高尾の浅川地下壕も地下工場として使われました。

さらに西へ進むと、石神井川沿いには約5000~4000年前の大集落・下野谷遺跡があり、田無では青梅街道の宿場町として栄えた町並みの記憶に出会えます。武蔵境から田無までの道には、縄文、江戸、戦争、戦後復興という異なる時代の土地利用が折り重なっています。

中島飛行機武蔵製作所とは

中島飛行機は戦前の日本を代表する航空機メーカーの一つでした。武蔵野市では1938年4月、陸軍の要請を受けて武蔵野製作所が開設されます。1941年11月には隣接地に海軍向けの多摩製作所が開かれ、零式艦上戦闘機などに用いられる航空機エンジンを生産しました。1943年10月、両工場は統合されて「武蔵製作所」となります。

工場は現在の武蔵野中央公園周辺に広がり、陸海軍向け航空機エンジンを生産する国内有数の軍需工場でした。中央線と結ぶ引込線、工場施設、運動場、防空施設などを備えた大規模な生産拠点で、周辺地域の人口や都市化にも大きな影響を与えました。

1944年11月24日から始まった武蔵野空襲

1944年11月24日、サイパン・テニアン島を発進したB29爆撃機111機が東京方面へ飛来し、そのうち24機が武蔵製作所を攻撃しました。武蔵野市の資料では、この日の工場内の被害は死者57人、負傷者75人とされています。日本本土へのB29による本格的な攻撃の初期段階で、航空機用エンジンを生産する武蔵製作所は重要な目標でした。

12月3日の第2回空襲では、工場で働いていた勤労動員の学生にも犠牲が出ました。その後も12月27日、1945年1月9日、2月17日、4月2日、4月7日、4月12日、8月8日と攻撃が続き、武蔵製作所は大きな損害を受けます。武蔵野市は最初の空襲があった11月24日を「武蔵野市平和の日」としています。

工場だけでなく周辺の住宅地も被害を受けました。4月12日の空襲では田無駅周辺でも多数の死者が出ています。武蔵製作所の戦争遺跡を歩くことは、工場の歴史と同時に、武蔵野・田無一帯が経験した本土空襲をたどることでもあります。

武蔵境から中島飛行機の引込線跡をたどる

武蔵製作所には中央線側から工場へ入る鉄道の引込線がありました。武蔵野市によると、武蔵境駅から玉川上水までは境浄水場の引込線を利用し、そこから武蔵製作所へ線路が延びていました。大量の資材や製品を扱う軍需工場を、この鉄道輸送が支えました。

中島飛行機武蔵製作所の引込線跡に整備されたグリーンパーク遊歩道
中島飛行機武蔵製作所への引込線跡を利用したグリーンパーク遊歩道。撮影:ITA-ATU/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)
中島飛行機武蔵製作所専用線跡の道路景観
中島飛行機武蔵製作所専用線跡、2010年。撮影:Japanese Railroad Cr…/Wikimedia Commons/CC BY 3.0。

現在のグリーンパーク遊歩道は、この引込線跡を利用した細長い緑道です。線路は1959年に廃止されましたが、道路や遊歩道の線形に鉄道の痕跡が残っています。工場引込み線橋台跡ではコンクリートの橋台が残され、2012年の道路整備でその上に「ぎんなん橋」が架けられました。

武蔵境から歩くと、現在の住宅地や緑道が工場と中央線を結ぶ物流路だったことが実感できます。鉄道遺構だけを点で見るより、駅から線路の方向を追っていくことで、工場が地域の交通網と一体だったことがわかります。

武蔵製作所跡に残る戦争遺跡

武蔵野市は旧武蔵製作所周辺に平和案内説明板を設置し、工場跡と空襲の記憶を伝えています。散歩で確認しやすいのは、工場引込み線跡、工場引込み線橋台跡、関前高射砲陣地跡、旧運動場周辺などです。

  • 工場引込み線跡:現在のグリーンパーク遊歩道に線路のルートが残ります。
  • 工場引込み線橋台跡:空襲を受けた引込線の構造物で、廃線後もコンクリート橋台が残されました。
  • 関前高射砲陣地跡:関前付近には高射砲6門が半円状に配置されていました。
  • 運動場跡:現在の武蔵野陸上競技場周辺。土手には防空壕が設けられ、高射砲も置かれていました。
  • 武蔵製作所跡地:現在の武蔵野中央公園やNTT武蔵野研究開発センタ周辺に工場が広がっていました。

現地に巨大工場の建物群は残っていません。線路跡、橋台、説明板、公園の地形といった断片をつなぐと、工場が占めていた広がりと周辺施設の配置をたどれます。

軍需工場から公園へ―武蔵製作所跡の戦後史

敗戦後、中島飛行機武蔵製作所は閉鎖され、跡地の利用は大きく変わりました。一部は電気通信省を経て現在のNTT武蔵野研究開発センタにつながり、別の区画には東京スタジアム・グリーンパーク野球場が造られました。米軍宿舎として使われた区域もあり、市民による返還運動ののち1973年に返還されます。

三鷹跨線橋から見た武蔵野競技場線跡
三鷹跨線橋から見た武蔵野競技場線跡。旧中島飛行機引込線のルートは戦後の競技場線にも利用されました。撮影:交通アキ 杉並3駅/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

返還地はその後、武蔵野中央公園などへ姿を変えました。軍需工場、空襲、戦後の米軍施設、野球場や住宅、公園という土地利用の変化を知ると、現在の広い緑地が戦前から戦後へ続く都市史の上に成立していることがわかります。

国史跡・下野谷遺跡へ

武蔵製作所跡から西東京市へ進むと、石神井川の南岸に国史跡の下野谷遺跡したのやいせきがあります。縄文時代中期、今から約5000~4000年前に営まれた大規模な集落で、南関東でも傑出した規模と内容を持ちます。

国史跡下野谷遺跡公園
国史跡・下野谷遺跡公園。撮影:妖精書士/Wikimedia Commons(CC0)

集落の中心には土坑墓群を伴う広場があり、その周囲に竪穴建物や倉庫などと考えられる掘立柱建物が並びます。文化庁は直径約150メートルに及ぶ大規模な環状集落として評価しています。2015年3月10日に国史跡となり、2026年2月17日には追加指定が行われ、指定面積は14,721.79平方メートルとなりました。

石神井川が育んだ環状集落と広域ネットワーク

下野谷遺跡したのやいせきは、日当たりのよい台地から石神井川沿いの低地へ下る場所に広がります。川の北側には昭和初期まで湿地が残り、水と森林の資源を利用しやすい環境でした。同じ場所で集落が長く営まれ、竪穴建物や多数の土坑が重なって見つかっています。

石神井川と下野谷遺跡の位置関係を示す立地模型
下野谷遺跡の立地模型。石神井川沿いの地形と集落の位置関係がわかります。撮影:下里の王子さま/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

特徴的なのが、谷を挟んで複数の環状集落が存在する「双環状集落」です。西東京市は、下野谷遺跡を石神井川流域の拠点的な集落と位置づけています。出土品には甲信越や南東北系統の土器があり、黒曜石には神津島や和田峠など遠隔地に由来するものがあります。縄文時代の人々が広い地域との交流網を持っていたことを伝える資料です。

「したのや縄文の里」で見られるもの

史跡の一部は「したのや縄文の里」として整備され、復元された竪穴建物、墓と考えられる穴、土器の廃棄状況などが地上で表現されています。竪穴建物の内部は原則毎週日曜日に一般公開され、現地の解説板や立体模型から集落全体の姿をつかめます。

下野谷遺跡公園に復元された縄文時代の竪穴建物
下野谷遺跡公園に復元された竪穴建物。撮影:下里の王子さま/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

出土した石器・土器を詳しく見るなら、西東京市郷土資料室も有力です。下野谷遺跡を扱う展示室があり、現地の復元景観と発掘資料を行き来すると、約1000年にわたって営まれた集落の変化を追いやすくなります。

田無―青梅街道の宿場町から近代都市へ

田無たなしの古い集落は、水に恵まれた谷戸周辺に成立したと考えられています。「田無」の地名は戦国期の『小田原衆所領役帳』にも現れ、後北条氏の支配下にあったことがわかります。

江戸時代に町の性格を変えたのが青梅街道おうめかいどうです。幕府は17世紀初頭、江戸城の建築などに使う石灰を青梅方面から江戸へ運ぶ道を整えました。田無には宿駅が置かれ、旅人や荷物を継ぐ宿場町として発展します。江戸後期には北多摩の商業拠点となり、街道沿いに町場が連なりました。

西東京市田無町の青梅街道と田無神社
青梅街道と田無神社。撮影:Mikagekawase/Wikimedia Commons(CC BY 4.0)
西東京市田無町にある田無神社の入口
田無神社入口、2014年。撮影:Kentin/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

田無神社、總持寺、旧家や街道の痕跡は、宿場町として栄えた田無の歴史を現在に伝えます。明治以降は鉄道と近代工業の影響が強まり、昭和10年代には大日本時計、中島航空金属、三共、豊和重工などの工場や社宅が進出して人口が増加しました。戦後の住宅化を経て、2001年には田無市と保谷市が合併し、西東京市が成立しています。

武蔵境から田無までの歴史散歩ルート

  1. 武蔵境駅―中央線と旧引込線の接点から出発します。
  2. グリーンパーク遊歩道―旧工場引込線の線形を北へたどります。
  3. 工場引込み線橋台跡・関前高射砲陣地跡―鉄道と防空施設の痕跡を確認します。
  4. 武蔵野中央公園―武蔵製作所跡地と戦後の土地利用を重ねて見ます。
  5. 下野谷遺跡―石神井川沿いの縄文集落へ時代をさかのぼります。
  6. 田無神社・總持寺・青梅街道―江戸時代の田無宿の中心部を歩き、田無駅へ向かいます。

同じ武蔵野台地でも、道の役割は時代ごとに変わりました。縄文の集落は川と台地の資源に支えられ、江戸の田無は街道交通で栄え、近代には鉄道と軍需工場が地域を組み替えました。現在の公園や緑道は、その変化を歩いて読み取れる場所になっています。

2025年6月1日の見学レポート

2025年6月1日10時から、6人で武蔵境駅周辺から中島飛行機武蔵製作所の引込み線跡、関前高射砲陣地跡、下野谷遺跡まで歩きました。境浄水場専用線跡や玉川上水沿いの道、グリーンパーク遊歩道をたどると、現在の緑道や住宅地の中に鉄道と軍需工場の痕跡が残っていることがわかります。

境浄水場専用線跡から玉川上水へ

出発後は、本村公園周辺の境浄水場専用線跡を確認し、玉川上水の大橋へ向かいました。木陰の多い道を歩くと、専用線跡と水路、後の工場引込み線の位置関係を現地で追いやすくなります。

本村公園の境浄水場専用線跡を歩く参加者
本村公園(境浄水場専用線跡)を歩く様子。2025年6月1日撮影。
玉川上水に架かる大橋の親柱と緑に囲まれた橋上の道
玉川上水の大橋。2025年6月1日撮影。
玉川上水沿いの緑道を歩く参加者
玉川上水沿いを歩く様子。2025年6月1日撮影。

ぎんなん橋とグリーンパーク遊歩道

ぎんなん橋では、工場引込み線橋台跡を利用した橋の形を確認しました。そこからグリーンパーク遊歩道へ進むと、旧線路の細長い敷地が現在の歩行空間に転用されていることを実感できます。

中島飛行機武蔵製作所引込み線跡に架かるぎんなん橋
工場引込み線橋台跡を利用して整備された、ぎんなん橋。2025年6月1日撮影。
グリーンパーク遊歩道を歩く参加者と中島飛行機武蔵製作所引込み線跡の緑道
グリーンパーク遊歩道(中島飛行機武蔵製作所工場引込み線跡)を歩く様子。2025年6月1日撮影。

関前高射砲陣地跡と地下道跡

関前高射砲陣地跡では、説明板から中島飛行機武蔵製作所を守るために置かれた防空施設の位置を確認しました。近くの地下道跡の展示では、工場地下に設けられた施設の一部を通じて、地上に見えにくい軍需工場の構造を知ることができます。

関前高射砲陣地跡の説明板を読む参加者
関前高射砲陣地跡の説明板を確認する様子。2025年6月1日撮影。
関前高射砲陣地跡の説明板に記された武蔵野の戦争の記憶
関前高射砲陣地跡の説明板。2025年6月1日撮影。
中島飛行機武蔵製作所地下道跡のコンクリート床面展示
中島飛行機武蔵製作所「地下道」跡の展示。2025年6月1日撮影。
中島飛行機武蔵製作所地下道について説明する現地案内板
中島飛行機武蔵製作所「地下道」についての現地案内板。2025年6月1日撮影。

下野谷遺跡の竪穴住居を見学

後半は西東京市の下野谷遺跡へ向かいました。当日は復元竪穴住居の内部公開日で、住居内部の炉跡や空間の広さを実際に見ることができました。戦争遺跡から縄文時代の集落へ移動することで、武蔵野台地の土地利用が時代によって大きく変わってきたことを体感できる行程になりました。

国史跡下野谷遺跡の入口看板と下野谷遺跡公園
国史跡・下野谷遺跡の入口。2025年6月1日撮影。
国史跡下野谷遺跡の解説板に示された遺跡の範囲と歴史
下野谷遺跡の解説板。2025年6月1日撮影。
下野谷遺跡公園の復元竪穴住居を見学する参加者
下野谷遺跡の復元竪穴住居。内部公開日に見学しました。2025年6月1日撮影。
下野谷遺跡の復元竪穴住居内部と炉跡
下野谷遺跡の復元竪穴住居内部。2025年6月1日撮影。
下野谷遺跡に復元された縄文時代の住居跡
下野谷遺跡に復元された住居跡。2025年6月1日撮影。

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参考資料