演奏会「アメリカ時代のラフマニノフ」に備えて

演奏会概要

  • 開催場所:紀尾井町サロンホール
  • 開催日:2025/12/19(金)
  • 開場: 18:30
  • 開始: 19:00
  • 終了: 20:45

プログラム

  • J. S. バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
     ホ長調 BWV1006 より抜粋(原曲およびラフマニノフ編曲)
  • F. クライスラー《3つのウィーン古典舞曲集》より〈愛の悲しみ〉
     (原曲およびラフマニノフ編曲)
  • P. チャイコフスキー《6つのロマンス》Op. 16より〈子守歌〉
     (原曲およびラフマニノフ編曲)
  • S. ラフマニノフ《12のロマンス》Op. 21より〈リラの花〉
     (原曲および作曲者によるピアノ編曲) ほか

出演者

  • 竹内 伶奈(Sop.)
  • 井戸 遼太郎(Ten.)
  • 関口 太偲(Vn.)
  • 中原 豪志(Pf.)

セルゲイ・ラフマニノフ

セルゲイ・ラフマニノフ(1873年 – 1943年)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者です。後期ロマン派音楽の最後を飾る巨匠の一人として、今なお絶大な人気を誇っています。

1. ラフマニノフの生涯:3つの時代

ラフマニノフの人生は、大きく3つのフェーズに分けられます。

ロシア時代(1873–1917):輝かしい成功と挫折 

貴族の家に生まれますが、家計の没落によりモスクワ音楽院で猛特訓を受けます。卒業制作のオペラ『アレコ』で金メダルを受賞。しかし、 交響曲第1番の歴史的失敗 で深い鬱に陥りました。その後、後述する精神療法を経て復活し、『ピアノ協奏曲第2番』で世界的な名声を得ます。

亡命時代(1918–1939):ピアニストとしての再出発 

ロシア革命を逃れ、アメリカへ移住。生活のために多忙なピアニストとして世界を回り、作曲の時間は大幅に削られました。「自分から故郷(ロシア)を奪ったことは、自分から音楽を奪ったことと同じだ」と嘆き、創作活動は停滞気味になります。

晩年(1939–1943):アメリカでの最期 

第二次世界大戦を避けるためカリフォルニアに移住。癌に侵されながらも最期まで演奏活動を続け、1943年にビバリーヒルズでこの世を去りました。

2. 主要な関係人物

ラフマニノフの人生を語る上で欠かせない人々です。

ニコライ・ズヴェーレフ・・・恩師。厳格な寄宿生活を通じてラフマニノフにプロとしての基礎を叩き込んだ。

ピョートル・チャイコフスキー・・・憧れの存在。若きラフマニノフの才能を高く評価し、彼の死はラフマニノフに大きな衝撃を与えた。|

ニコライ・ダール博士・・・精神科医。交響曲第1番の失敗で自信を失った彼に暗示療法を行い、復活させた立役者。

ウラジーミル・ホロヴィッツ・・・親友であり、ライバル。ラフマニノフは彼の超絶技巧を認め、自身の曲の演奏を託した。

3. 主な功績と音楽的特徴

「大きな手」による超絶技巧 :身長190cmを超え、手も非常に大きく、13度の音程(ドから1オクターブ上のラまで)を片手で届かせたと言われます。

哀愁漂う旋律 :ロシアの正教会の鐘の音や聖歌の影響を受けた、重厚でロマンティックなメロディ。

代表作

1.  ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 :クラシック史上最も有名な協奏曲の一つ。

2.  パガニーニの主題による狂詩曲 :第18変奏の美しい旋律が有名。

3.  前奏曲 嬰ハ短調『鐘』 :彼を象徴するピアノ独奏曲。

4.  交響曲第2番 ホ短調 :第3楽章のクラリネットの旋律は、ポピュラー音楽にも引用される名曲。

ラフマニノフは非常に無愛想で「6フィートのしかめ面」と評されることもありましたが、実際は非常に情に厚く、亡命後もソ連に残った友人たちに匿名で多額の援助を送り続けていました。

演奏会の曲目解説

ラフマニノフ自身の作品だけでなく、彼が編曲した作品も並ぶ非常に興味深いプログラムです。ラフマニノフの「編曲」は、単なる書き換えではなく、原曲の魅力を活かしつつ自身の華麗なピアノ語法を盛り込んだ、もはや「再構築」に近い芸術性の高さが特徴です。この演奏会の見どころは、 「原曲が持つ異なる魅力(ヴァイオリン、歌)」が、ラフマニノフの手によって「ピアノの芸術」へどう変貌するか を聴き比べる点にあります。

J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番(ラフマニノフ編)

バッハのヴァイオリン独奏のための清廉な名曲が、ラフマニノフの手にかかると豪華なピアノ曲に生まれ変わります。特に有名な「プレリュード」は、原曲の疾走感を保ちつつ、ピアノならではの豊かな和音と対旋律が加えられています。バロックの厳格さと、ロシア的な色彩感が同居する不思議な魅力があります。

クライスラー:愛の悲しみ(ラフマニノフ編)

親友であったヴァイオリニスト、クライスラーの名曲を編曲したものです。原曲はウィーンの優雅で少し物悲しいワルツですが、ラフマニノフはここに非常に複雑な装飾音や内声(メロディの裏で鳴る旋律)を詰め込みました。退廃的で、宝石箱をひっくり返したような華やかさが加わっています。

チャイコフスキー:子守歌(ラフマニノフ編)

敬愛する師、チャイコフスキーの歌曲を編曲したものです。原曲は静かに子供を寝かしつける歌ですが、ピアノ編曲版では、夢の中を漂うような幻想的な響きが強調されています。ラフマニノフがチャイコフスキーに捧げた敬意と愛情を感じさせる、繊細な小品です。

ラフマニノフ:リラの花(作曲者自身によるピアノ編)

もともとはラフマニノフが作曲した歌曲(歌とピアノ)で、それを彼自身がピアノ独奏用に編曲しました。「リラ(ライラック)」はロシアの春の象徴。初恋のような初々しさと、春の光に溢れた幸福感に満ちています。細かく震えるような音型が、風に揺れる花びらを連想させます。

鑑賞のアドバイス

ラフマニノフの編曲作品は、 「左手の動き」 に注目してみてください。彼は手が大きかったため、左手で非常に幅の広いアルペジオや、メロディを支える力強い低音を奏でさせます。原曲を知っていると、「あ、ここでこんなに音が厚くなるんだ!」という驚きを楽しめるはずです。

他の亡命ロシア人

ロシア革命(1917年)はロシアの知識層や芸術家に壊滅的な打撃を与え、ラフマニノフ以外にも数多くの才能が国外へ逃れました。彼らは「白系ロシア人(亡命ロシア人)」と呼ばれ、移住先のパリ、ベルリン、ニューヨークなどで新たな文化を花開かせました。代表的な有名人と、そのドラマチックなエピソードを紹介します。

イゴール・ストラヴィンスキー(作曲家)・・・ラフマニノフと並び称される20世紀音楽の巨匠です。革命前からパリで活動していましたが、革命によってロシアの資産をすべて没収され、帰国不能となりました。亡命生活で資金難に陥っていた際、ファッションデザイナーの ココ・シャネル が彼の一家を自身の別荘に住まわせ、資金援助をしたと言われています。二人の間にはロマンスがあったという説もあり、映画(『シャネル&ストラヴィンスキー』)の題材にもなりました。故郷を失った寂しさからか、初期のロシア色の強い作風から、より理性的で冷徹な「新古典主義」へとスタイルを劇的に変貌させました。

ウラジーミル・ナボコフ(作家)・・・小説『ロリータ』で世界的に有名な作家です。もともとサンクトペテルブルクの超エリート貴族の家に生まれましたが、革命で一晩にしてすべてを失いました。1919年、クリミア半島から亡命する際、 ボリシェヴィキの機関銃の乱射を受けながら 船に乗って脱出したという壮絶な経験を持っています。亡命先のドイツやフランスでロシア語の傑作を書き、アメリカ移住後は英語で執筆。母国語を捨ててなお世界の頂点に立った稀有な作家です。

セルゲイ・プロコフィエフ(作曲家)・・・『ロミオとジュリエット』や『ピーターと狼』で知られる作曲家です。1918年にアメリカへ亡命しました。他の亡命者が二度と故郷の土を踏まなかったのに対し、彼は1930年代に ソ連へ帰国 するという異例の選択をしました。ソ連政府の熱烈な勧誘と「やはりロシアの土の上でないとインスピレーションが湧かない」という芸術的欲求が理由でしたが、帰国後はスターリン政権下の厳しい検閲に苦しむことになります。

ワシリー・カンディンスキー(画家)・・・「抽象絵画の父」と呼ばれる画家です。革命直後は新政府の文化政策に関わりましたが、芸術への政治介入が強まると亡命を決意しました。ドイツへ渡り、伝説的なデザイン学校「バウハウス」で教授を務めました。しかし、その後ドイツでナチスが台頭し、彼の絵は「退廃芸術」として弾圧されます。ロシア革命とナチズム、 二つの独裁政権から逃げ続けた 波乱の人生でした。

日本に来た亡命ロシア人たち

実は日本も、多くの亡命ロシア人を受け入れた国の一つです。

ヴィクトル・スタルヒン・・・プロ野球創成期の大投手。家族で革命を逃れ旭川へ。

メーチニコフ(ロマノフ家ゆかりの菓子職人)・・・モロゾフやゴンチャロフなど、現代の日本の洋菓子文化の基礎を築いたのは、神戸などに逃れてきた亡命ロシア人たちでした。

亡命者たちの共通点

彼らは皆、「昨日までの富も名声も、紙切れ一枚(パスポートや身分証)で無価値になる」という恐怖を味わいました。ラフマニノフが「自分は幽霊のような存在だ」と語ったように、彼らの作品には共通して 「失われた故郷への強烈なノスタルジー」 が刻まれています。

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