北区豊島の歴史散歩|豊島氏・清光寺・紀州神社から隅田川の治水と工業化まで

東京都北区豊島にある紀州神社の社殿

東京都北区豊島は、隅田川沿いの低地に、中世武士の豊島氏、熊野信仰、近代工業、大規模団地、治水施設の歴史が重なる地域です。清光寺や紀州神社をたどると豊島氏と王子周辺の中世史が見え、豊島五丁目団地やトンボ鉛筆、隅田川沿いへ進むと、工業都市から住宅地へ変わった20世紀の歩みが続きます。

散策の主な見どころは、大坊橋跡、産業考古学探索路、豊島馬場遺跡公園、清光寺、紀州神社、トンボ鉛筆本社、豊島五丁目団地、隅田川の旧防潮堤です。豊島馬場遺跡公園は中世の豊島氏館跡ではなく、古墳時代前期の集落遺跡として知られる場所です。時代の異なる遺構を一つの道筋でたどれることが、北区豊島の歴史散歩の特徴です。

北区豊島はどんな場所か

北区豊島は王子の東側、隅田川右岸に広がります。古代の武蔵国には豊島郡が置かれ、『延喜式』にも武蔵国の郡の一つとして「豊島」が見えます。北区の歴史資料では、11世紀ごろに秩父氏の一族である豊島氏が豊島郡を支配したと整理されています。

地域の歴史は中世だけに限られません。隅田川沿いの低地では水運と農業が営まれ、近代になると王子周辺に製紙・化学・機械などの工場が集積しました。北区観光協会の「王子・豊島コース」も、この一帯をかつて「東洋一の工業地」と歌われた地域として紹介しています。現在の住宅街の中に、寺社、工場の記憶、河川施設が点在する理由は、この長い土地利用の変化にあります。

豊島氏と豊島郡――北区の中世史をたどる

豊島清光としまきよみつは、治承4年(1180)の源頼朝挙兵に参加し、文治5年(1189)の奥州征伐にも加わった人物として北区の歴史年表に登場します。豊島氏はその後も南武蔵で勢力を広げ、元亨年間(1321~1324)には豊島・足立・多摩・児玉・新座の各郡へ支配権を及ぼしたとされています。

15世紀後半には扇谷上杉氏の家宰・太田道灌おおたどうかんと対立し、文明9年(1477)の江古田・沼袋の合戦を経て勢力を失いました。北区内では上中里の平塚神社周辺に豊島氏の居城・平塚城があったと伝わり、中世の溝跡や地下式坑、板碑などが確認されています。豊島氏の歴史を北区豊島だけで完結させず、王子・上中里・練馬方面まで広い地域史として見ると位置づけが明確になります。

豊島氏と王子周辺のつながりをさらにたどるなら、豊島氏発祥の地や豊島清光館跡、宮城氏館跡を巡った中世史散歩王子神社・王子稲荷・飛鳥山を歩く歴史散歩もあわせて読むと、豊島氏から王子の地名、熊野信仰までがつながります。

清光寺――豊島清光を伝える寺

豊島七丁目の清光寺は、北区観光協会の案内で、豊島清光としまきよみつ(清元)が娘の冥福を祈って建立したと伝えられる寺院です。境内には豊島氏ゆかりの伝承が残り、北区指定有形文化財の「木造豊島清光坐像」が伝わっています。本堂の見学は予約が必要と案内されているため、建物内部まで見学したい場合は寺院への事前確認が適しています。

清光寺で注目したいのは、現在の町名「豊島」と中世の豊島氏を結ぶ具体的な文化財が残っている点です。氏族名だけを追うより、像や寺院、周辺の地名を一緒に見ることで、中世領主の記憶が地域にどう残されたかをたどれます。

紀州神社――熊野・紀伊とのつながり

豊島七丁目の紀州神社は、鎌倉時代後期、紀州熊野から来た鈴木重尚が豊島氏とともに伊太祁曽神社を王子村へ勧請したのが始まりと伝えられます。北区では豊島氏と熊野信仰の結びつきが王子神社にも残り、中世の信仰が現在の「王子」という地名の由来へつながっています。

東京都北区豊島にある紀州神社の社殿
北区豊島の紀州神社。撮影:あばさー/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

熊野信仰と王子の歴史は、東京に残る和歌山・熊野ゆかりの歴史でも詳しく紹介しています。紀州神社と王子神社を続けて見ると、中世の領主が紀伊の信仰をこの地域へ移した流れが分かります。

豊島馬場遺跡公園――豊島氏より古い、古墳時代の集落

豊島八丁目の豊島馬場遺跡公園は、名称から中世武士の馬場を想像しやすい場所ですが、北区の公式資料では古墳時代前期の低地集落として位置づけられています。発掘では多量の土器や木製品、ガラス小玉をつくるための鋳型などが出土し、「豊島馬場遺跡出土ガラス小玉鋳型」は北区指定文化財です。

この遺跡は、隅田川沿いの低地に人びとの生活が中世よりはるか前からあったことを伝えます。豊島氏の館跡として見るのではなく、古墳時代の集落と中世の寺社が同じ地域に重なる点に注目すると、豊島の歴史の厚みが分かります。

大坊橋跡と豊島川――道路の下に残る水路の記憶

豊島の街中には、かつて農業用水や排水を担った水路の痕跡が残ります。大坊橋跡は、暗渠化された豊島川に架かっていた橋の名を伝える場所です。現在の道路だけを見ると水辺の町という印象は薄いものの、旧水路の線形や橋名を追うと、隅田川低地で水とともに暮らした土地の輪郭が浮かびます。

近代工業の豊島――トンボ鉛筆と王子周辺の工場地帯

王子・豊島周辺は、明治以降の東京北部を代表する工業地帯へ変わりました。石神井川や千川用水の水、隅田川の舟運、広い低地が工場立地を支え、製紙、化学、金属、機械などの産業が集まりました。現在も豊島六丁目に本社を置くトンボ鉛筆は1913年創立で、1968年に本店を現在の北区豊島へ移しています。

東京都北区豊島にあるトンボ鉛筆本社の外観
トンボ鉛筆本社。撮影:あばさー/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。
1938年に発行されたトンボ鉛筆の広告
トンボ鉛筆の広告、1938年7月6日発行。『アサヒグラフ』第31巻第1号/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

王子周辺の水利用と近代産業の関係は、滝野川反射炉・王子分水・近代工業をたどる記事でも詳しく扱っています。豊島の工業化は単独で起きたのではなく、王子・滝野川・堀船へ連なる産業地帯の一部として見ると理解しやすくなります。

豊島五丁目団地――工場跡地から約5,000戸の住宅地へ

豊島五丁目団地は、日産化学工場の跡地に1972年に開設された大規模団地です。北区の資料では12棟4,959戸。工場跡地に短期間で大きな住宅地が生まれたため、1972年に豊島西小学校、1973年に豊島東小学校と豊島北中学校が開校しました。

ここでは「工業の町」から「暮らしの町」への転換を、建物の規模そのものから読み取れます。豊島の近現代史を歩くなら、寺社や史跡だけでなく、団地という戦後の都市計画も重要な見どころです。

隅田川の治水――防潮堤からスーパー堤防へ

隅田川すみだがわ沿いでは、地域の歴史を「水害との関係」から見ることができます。東京都は1949年のキティ台風を契機に高潮対策を進め、1963年からは伊勢湾台風級の高潮を想定した東京高潮対策事業を実施しました。隅田川では水門を含む防潮堤整備が1975年度に完成し、その後は耐震化やスーパー堤防整備が進められています。

北区豊島と足立区新田の間を流れる隅田川と新田橋
新田橋付近の隅田川、2017年8月6日。Wikimedia Commons掲載画像。

旧防潮堤の一部が残る場所では、かつて川と市街地を高い壁で隔てていた治水の姿を間近に見られます。現在の親水空間や緩やかな堤防景観と見比べると、治水技術が「川を遮る」段階から、防災機能と水辺利用を両立させる方向へ変化してきたことが分かります。

今回の歴史散歩で巡る主な場所

  1. 大坊橋跡――暗渠化された豊島川と旧橋名から水路の歴史をたどります。
  2. 産業考古学探索路――王子・豊島の鉄道、工場、渡船場など産業史の痕跡を確認します。
  3. 豊島馬場遺跡公園――古墳時代前期の低地集落跡です。
  4. 清光寺――豊島清光ゆかりの寺院と指定文化財をたどります。
  5. 紀州神社――豊島氏と紀伊・熊野信仰のつながりを見ます。
  6. トンボ鉛筆本社――豊島に残る近代工業の系譜を確認します。
  7. 豊島五丁目団地――工場跡地から戦後の大規模住宅地への転換を見ます。
  8. 隅田川旧防潮堤――高潮対策と水辺空間の変化をたどります。

北区豊島を歩くと、中世・工業・治水が一本につながる

北区豊島には、豊島氏の記憶を残す寺社、古墳時代の集落遺跡、近代工業を伝える企業や街路、戦後の大規模団地、隅田川の治水施設が近い範囲に集まっています。年代順に見ると、低地に人が暮らし、中世領主が地域を支配し、水運と工業が発達し、その工場跡が住宅地へ変わった流れを一度の散歩でたどれます。

2026年2月1日開催レポート|豊島氏の記憶から隅田川の治水まで

2026年2月1日(日)10時から、「中世の覇者から近代へ!北区豊島に残る『豊島氏』のルーツと治水の歴史散策」を開催しました。参加者は8名。冬の青空の下、北区豊島の住宅街を歩き、古墳時代の遺跡、中世の豊島氏ゆかりの寺社、戦後の大規模団地と環境対策、そして隅田川の旧防潮堤まで、約1700年にわたる地域の変化を現地でたどりました。

今回の特徴は、同じ「豊島」という地域の中で、考古学・中世武士・信仰・工業化・住宅開発・環境問題・治水という異なるテーマが連続して見えてくることです。史跡だけを点で見るのではなく、「なぜこの場所に残っているのか」を街の地形や土地利用の変化と結びつけながら歩きました。

北区豊島の住宅街を歩くゆる歴史散歩会の参加者
2026年2月1日、北区豊島の住宅街を歩きながら、地域に残る歴史の痕跡をたどりました。

豊島馬場遺跡公園|古墳時代の低地集落とガラス小玉

最初に歴史の時間を大きくさかのぼり、豊島馬場遺跡としまばんばいせき公園へ。北区観光ホームページでは、古墳時代の始め頃に営まれた遺跡で、日本フェルトの工場跡地から発見されたと紹介されています。北区の文化財資料にも、古墳時代前期の隅田川沿いに低地集落が営まれ、ガラス小玉鋳型などが使われたことが記されています。

北区立豊島馬場遺跡公園の入口と遺跡を見学する参加者
豊島馬場遺跡公園。古墳時代前期の低地集落跡を現地で確認しました。

現地の説明板には、発掘調査で多数の土器や木製品が見つかり、なかでもガラス小玉を作るための鋳型が重要な出土品であることが示されています。ガラス小玉は装身具として使われたと考えられ、鋳型の存在は、この地域で製作技術が営まれていたことを示す手がかりです。現在は公園になっていますが、足元には隅田川低地で暮らした人々の生活痕跡が重なっています。

豊島馬場遺跡説明板を見学する参加者
説明板を囲み、発掘された土器や木製品、ガラス小玉鋳型について確認しました。
北区豊島馬場遺跡説明板の解説と遺跡分布図
豊島馬場遺跡説明板。古墳時代初め頃の集落遺跡であることや、発掘成果が紹介されています。

豊島馬場遺跡は中世の豊島氏の館跡ではありません。地名が同じため混同しやすいのですが、ここでは「古墳時代の人々の暮らし」と「中世の武士・豊島氏」を分けて理解することが大切です。この時代差を意識して歩くと、同じ地域に異なる歴史層が折り重なっていることがよく分かります。

清光寺|豊島清光の記憶を伝える寺院

続いて清光寺せいこうじへ。北区観光ホームページでは、豊島清元(清光)が一人娘の冥福を祈って建立したと伝えられる寺院とされています。豊島氏は平安時代後期以降に南武蔵で勢力を持った武士団で、北区周辺には平塚城や寺社の伝承など、その足跡が各所に残っています。

北区豊島の清光寺入口と石柱
清光寺。中世武士・豊島氏の伝承を現在に伝える寺院です。

境内では豊島氏ゆかりの石造物を見学し、北区指定有形文化財「木造豊島清光坐像」の説明板も確認しました。説明板によると像は江戸時代に造られたもので、胎内の墨書から寛保2年(1742)の造立が分かります。中世の人物そのものを写した同時代像ではなく、後世の人々が豊島清光をどのように記憶し、地域の祖として伝えてきたかを示す歴史資料として見ることができます。

清光寺境内の豊島氏ゆかりの墓碑と観音像
清光寺境内で豊島氏ゆかりの石造物を見学しました。
北区指定有形文化財 木造豊島清光坐像の説明板
木造豊島清光坐像の解説板。北区指定有形文化財として、清光寺に伝わる豊島氏の記憶を紹介しています。
清光寺本堂を参拝するゆる歴史散歩会の参加者
清光寺本堂で参拝。建物や文化財の説明を確認しながら、豊島氏の記憶が地域に残った過程をたどりました。

豊島氏の広がりをさらに知りたい方は、当会の豊島氏発祥の地・豊島清光館跡・宮城氏館跡を巡った中世史散歩もあわせてご覧ください。今回の北区豊島と、足立区宮城方面に残る伝承をつなげて読むことができます。

紀州神社|豊島氏と紀伊・熊野信仰をつなぐ

清光寺から紀州神社へ進みました。現在の北区豊島周辺には、豊島氏と紀伊・熊野信仰とのつながりを伝える伝承が残っています。既存本文で紹介した王子神社との関係も含めると、中世の領主層が遠方の信仰を地域へ勧請し、その記憶が神社や地名として残っていく過程を考えることができます。

東京都北区豊島の紀州神社の鳥居と社殿
紀州神社。豊島氏と紀伊・熊野信仰のつながりを考える場所です。

王子周辺の信仰史を続けて歩くなら、王子神社・王子稲荷・飛鳥山を巡った歴史散歩も関連します。豊島から王子へ視野を広げると、中世の信仰から江戸の行楽地、近代都市へと歴史が連続して見えてきます。

エコベルデ|豊島五丁目の土壌汚染対策を学ぶ

中世史から一気に現代へ進み、豊島五丁目の「みどりと環境の情報館(エコベルデ)」を見学しました。北区公式資料によると、2005年3月、旧豊島東小学校跡地の利活用に向けた調査を契機に、豊島東保育園園庭と東豊島公園で環境基準を上回るダイオキシン類が確認されました。その後、東京都が2006年12月に策定した対策計画に基づいて対策が実施され、北区は現在もリスク管理のための調査を継続しています。

北区豊島五丁目のみどりと環境の情報館エコベルデ外観
みどりと環境の情報館「エコベルデ」。豊島五丁目の環境と土壌対策について学びました。

館内では、ダイオキシン類とは何か、北区とUR都市機構がどのような対策を行ったかを展示で確認しました。写真のパネルには、汚染土壌の上にきれいな土を50cm以上盛る覆土、配管を汚染のない覆土層に設置する方法などが図示されています。過去の工業利用が土地に残した課題と、その後の住宅地で安全を確保するための対策を同じ場所で学べる点は、この散歩の近現代史パートの重要なポイントでした。

北区エコベルデで展示されているカエル
エコベルデでは、土壌汚染対策だけでなく、身近な自然や生きものに関する展示も行われています。
豊島五丁目地域のダイオキシン類土壌汚染を解説する展示
豊島五丁目地域で確認されたダイオキシン類土壌汚染の経緯を説明する展示。
北区が行った豊島五丁目地域の土壌汚染対策を解説する展示
北区が行った土壌汚染対策を説明する展示。汚染土壌への覆土などの対策が紹介されています。
UR都市機構が行った豊島五丁目団地の土壌汚染対策の展示
UR都市機構が実施した豊島五丁目団地の土壌汚染対策を示す展示。覆土や配管方法などを図で確認できます。

エコベルデは豊島五丁目遊び場内にあり、豊島五丁目地域で採取された汚染土壌のサンプル保管庫も設けられています。「歴史散歩」というと古い寺社や城跡を思い浮かべがちですが、環境行政や都市再生も、地域がどのように現在の姿になったかを理解するための重要な歴史資料です。

隅田川旧防潮堤|水害対策の歴史を現物で見る

散歩の後半では、隅田川すみだがわ沿いに残る旧防潮堤を見学しました。現地の説明板には、隅田川下流部一帯が海抜ゼロメートル地帯であることを背景に、東京都が昭和32年(1957)から高潮・洪水対策としてコンクリート防潮堤の整備に着手し、昭和50年(1975)に概成したことが記されています。

北区豊島の隅田川旧防潮堤モニュメント
隅田川旧防潮堤。かつて市街地を高潮から守った防潮堤の一部が保存されています。

高いコンクリート壁は水害から街を守る一方、川と街を視覚的に分断しました。その後、東京都は隅田川で緩傾斜型堤防やスーパー堤防等、テラス整備を進め、防災機能と水辺利用を両立させる方向へ整備を更新しています。保存された旧防潮堤を見ると、治水技術だけでなく「川と都市の関係」が時代によって変化してきたことを実感できます。

隅田川旧防潮堤の保存経緯を説明する案内板
旧防潮堤の説明板。高潮・洪水対策の歴史と、後世に伝えるため保存された経緯が記されています。

歩いて見えてきた北区豊島の歴史

今回の散歩では、豊島馬場遺跡の古墳時代、豊島氏と清光寺・紀州神社の中世、工業化と団地開発、豊島五丁目の環境対策、隅田川の治水までを一続きにたどりました。年代だけを並べると別々の出来事に見えますが、現地を歩くと、低地・川・土地利用という共通の条件の上に歴史が積み重なっていることが分かります。

寺社や遺跡を見るだけでなく、住宅地の街路、公共施設の展示、保存された土木構造物にも目を向けることで、「歴史は今の街の形にどう残るのか」を考えられるコースになりました。北区豊島を自分のペースで歩き直す際は、ページ末尾のTimeWalkもご活用ください。

参考資料

TimeWalkで周辺の史跡を地図から探す

TimeWalkは、現在地や指定した場所の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分のペースで歴史散歩を楽しめるWebアプリです。北区豊島から王子、堀船、上中里へ足を延ばすときは、現在地から歩ける史跡を地図で探すと周辺の見どころを組み合わせやすくなります。