歌舞伎町一丁目・二丁目の歴史|戦後復興・新宿コマ劇場・ゴールデン街を歩く

夜の歌舞伎町一番街入口に立つ赤いアーチと繁華街の照明

新宿駅東口から靖国通りを越えると、看板とネオンが重なる歌舞伎町一丁目・二丁目が広がります。現在の景観の骨格は、1945年の空襲で焼け野原となった街を、劇場や映画館を中心とする娯楽街として再建した戦後復興にあります。歌舞伎劇場が完成しなかったのに、なぜ「歌舞伎町」という地名が残ったのか。新宿コマ劇場、新宿ゴールデン街、シネシティ広場、稲荷鬼王神社、東急歌舞伎町タワーをたどると、現在の街並みに戦前と戦後の東京史が重なっていることが分かります。

夜間の歌舞伎町に広がるネオンと繁華街の景観
歌舞伎町の夜景、2024年1月25日。Wikimedia Commons/CC0。

2026年1月12日 開催レポート|18名で夜の歌舞伎町一丁目・二丁目へ

2026年1月12日18時15分から、「歌舞伎町一丁目・二丁目🌙ネオンの裏に刻まれた戦後東京史」を開催し、18名で夜の歌舞伎町を歩きました。新宿三丁目側から新宿ゴールデン街、歌舞伎町一番街、旧新宿コマ劇場・ミラノ座周辺、歌舞伎町二丁目へと進み、戦後復興でつくられた娯楽街と、それ以前から残る信仰・文学・地域文化を重ねて見る街歩きです。ネオンや大型看板の印象が強い街ですが、道路の曲がり方、広場、神社、旧居跡に注目すると、戦前・戦後・現在の東京が同じ街区の中でつながって見えてきます。

今回のコース概要

今回のテーマに沿って、新宿三丁目駅側から新宿ゴールデン街、新宿区役所前、歌舞伎町一番街、旧新宿コマ劇場跡の新宿東宝ビル、シネシティ広場、旧ミラノ座跡の東急歌舞伎町タワー、大久保公園、稲荷鬼王神社いなりきおうじんじゃ周辺をたどり、東新宿駅方面へ歩く流れで歌舞伎町一丁目・二丁目を見ていきました。現在の繁華街だけを見るのではなく、「なぜこの場所にこの街路や施設があるのか」を確かめるのが今回のポイントです。

戦後の娯楽街と、歌舞伎町以前の歴史を同じ夜に見る

一丁目側では、1945年の空襲後に進められた復興計画と劇場街構想を軸に歩きました。歌舞伎劇場そのものは実現しませんでしたが、1948年に「歌舞伎町」の町名が誕生し、1950年代には新宿コマ劇場や新宿東急文化会館などが集まりました。現在の新宿東宝ビルや東急歌舞伎町タワーを見ると、建物は変わっても「娯楽を核に人を集める街」という性格が受け継がれていることが分かります。

一方、二丁目へ進むと風景の時間軸が大きく変わります。稲荷鬼王神社は、現在の歌舞伎町という町名が生まれるはるか以前から続く信仰の場所です。ネオンの密集する街から境内へ入ることで、戦後都市だけでは説明できない大久保村以来の歴史に触れられるのが、このコースの面白さです。

夜の稲荷鬼王神社の鳥居と境内社、上部に掲げられた船の模型
歌舞伎町二丁目の稲荷鬼王神社。繁華街の夜景のすぐそばに、江戸期から続く信仰の空間が残ります。
夜の稲荷鬼王神社境内の鳥居と参道
夜の稲荷鬼王神社。ネオン街の歌舞伎町とは異なる静かな境内の空気を体感できました。

稲荷鬼王神社|「鬼」を祀る全国唯一の社名

神社公式の由緒によると、承応2年(1653)に当地の氏神として稲荷神社が建てられ、のちに紀州熊野から勧請された鬼王権現きおうごんげんが合祀されて稲荷鬼王神社となりました。東京都神社庁も、鬼王権現を祀る「全国で唯一つのお宮」と紹介しています。節分では一般的な「鬼は外」ではなく、「福は内、鬼は内」と唱える独特の信仰が伝わっています。

現在の御祭神には宇賀能御魂命うがのみたまのみことと鬼王権現が挙げられ、鬼王権現は月夜見命・大物主命・天手力男命の三柱の神々の御神徳が重なって現れたものと説明されています。歌舞伎町というと戦後の歓楽街を連想しがちですが、この神社を訪れると、江戸期の大久保村から続く地域の信仰が現在の繁華街の中に残っていることが分かります。

稲荷鬼王神社に掲示された干支由来と御利益の解説板
稲荷鬼王神社に伝わる干支の由来を紹介する境内掲示。江戸時代から続く信仰の説明を現地で確認しました。

干支・恵比寿・境内の小さな見どころ

境内の掲示では、その年の干支にまつわる神社独自の由来や信仰が紹介されていました。神社公式でも、正月の授与品には干支祈願が掛けられ、境内掲示でその年の干支の御神徳や説明を紹介していると案内しています。現地の掲示を読みながら歩くと、社殿だけでなく、地域で積み重ねられてきた信仰のかたちそのものが見どころになります。

稲荷鬼王神社境内にある親子を表した石像
稲荷鬼王神社境内の石像。夜の境内では細かな意匠にも目が向きます。

境内には開運恵比寿を祀る三島神社もあります。公式由緒では、恵比寿神は昭和初期に「新宿山の手七福神」の一つに数えられ、現在も七福神巡りの一社として参拝されています。毎年10月19日・20日には「えびすべったら祭」が行われ、べったら漬けなどの縁起物とともに、地域の祭礼文化が受け継がれています。

稲荷鬼王神社のえびす祭りと昭和の時代展を案内する掲示板
稲荷鬼王神社の「えびす祭り」と「昭和の時代展」を紹介する掲示。地域の祭礼と昭和の新宿資料展示を伝えています。

区指定文化財の水鉢|江戸の伝承が残る場所

鳥居の近くには、新宿区指定有形文化財の水鉢があります。新宿観光振興協会の解説では、邪鬼の頭上に手水鉢を載せた珍しい石造物で、文政年間に毎夜水浴びの音がするため持ち主が刀で切りつけ、その後に家人の災難が続いたことから、天保4年(1833)に鬼王神社へ奉納されたという伝承が紹介されています。神社公式では「水盥台石」、通称「力様」として案内され、鬼形の肩付近に刀傷が残るとされています。

新宿区指定有形文化財 稲荷鬼王神社の水鉢の解説板
新宿区指定有形文化財「稲荷鬼王神社の水鉢」の解説板。境内に残る江戸期の伝承を知る手がかりです。

都市の再開発史をたどるイベントの途中で、こうした江戸期の伝承を読むと、歌舞伎町が「戦後につくられた街」である一方、その土地自体にはそれ以前の時間が幾層にも積み重なっていることが実感できます。

映画ポスターから見る、神社と昭和新宿のつながり

境内では昭和期の映画ポスターも見ることができました。神社公式の年間行事案内では、9月の例大祭を「鬼と文士と映画の祭」とも呼び、かつて氏子だった小泉八雲・島崎藤村・鈴木三重吉の作品や資料とともに映画ポスターを展示すると説明しています。また、10月のえびすべったら祭では、神社所蔵の新宿の地図・写真・広告などを紹介する「昭和の時代展」を開催しています。神社が祭礼の場であるだけでなく、地域の記憶を伝える小さな資料館のような役割も果たしている点は、歌舞伎町の歴史散歩で見逃せないポイントです。

稲荷鬼王神社の展示スペースに並ぶ昭和期の映画ポスター
稲荷鬼王神社境内で見た昭和期の映画ポスター展示。神社と地域文化、新宿の映画史が交わる展示です。

今回の街歩きで見えた「歌舞伎町の二つの時間」

18名で歩いた今回のコースでは、一丁目の劇場街・再開発の歴史と、二丁目に残る神社・文学史を同じ夜の中で行き来しました。歌舞伎町の魅力は、派手なネオンだけではありません。戦後復興の都市計画が生んだ通りや広場の骨格と、江戸期から続く信仰、戦前の文学史、昭和の映画文化が近い範囲に折り重なっています。

戦後の新宿をもう少し広く見たい方は、当サイトの戦後東京の闇市を写真と資料で歩く解説もあわせて読むと、新宿ゴールデン街が現在の姿へつながる過程を補えます。新宿駅周辺の都市形成に関心がある方は、新宿駅の地下ダンジョンと約140年の都市史、新宿から別方向へ歩くなら新宿駅から神宮外苑へ向かう歴史散歩もおすすめです。

歌舞伎町はなぜ「歌舞伎町」と呼ばれるのか

戦後の歌舞伎町づくりを主導したのは、当時の地元町会長だった鈴木喜兵衛すずき きへいです。1945年4月・5月の空襲で一帯が焼失すると、鈴木は復興協力会を組織し、区画整理を進めました。東京都都市計画課長だった石川栄耀いしかわ ひであきも計画に関わり、劇場・映画館・ダンスホールなどを集めた娯楽街を構想します。

計画の中心には歌舞伎を上演できる劇場の誘致があり、1948年4月1日に「歌舞伎町」という町名が誕生しました。歌舞伎劇場そのものは実現しませんでしたが、地名には復興期の都市計画がそのまま刻まれました。歌舞伎町商店街振興組合の歌舞伎町略年史にも、1948年の町名誕生と、1956年の東急文化会館・新宿コマ劇場の完成が記録されています。

迷路のような街路も戦後復興の一部

歌舞伎町を歩くと、まっすぐ先まで見通せないT字路や、広場へ人を導く通りが目に入ります。新宿区の景観計画は、歌舞伎町に多いT字路を「特徴的な都市構造」と位置づけています。戦後の区画整理では、道路を単に通過するための線としてではなく、人が歩き、立ち止まり、次の店や劇場へ向かう娯楽街の空間として組み立てました。

現在もセントラルロード、歌舞伎町一番街、シネシティ広場周辺では、視線の先に建物や看板が現れ、角を曲がるたびに景色が切り替わります。新宿区は現在のまちづくりでも、この「迷宮的楽しさ」と屋外広告物を歌舞伎町らしい景観の要素として扱っています。ネオンや大型看板だけでなく、街路の形そのものが戦後の計画を伝えています。

夜の歌舞伎町一番街入口に立つ赤いアーチと繁華街の照明
歌舞伎町一番街、2016年10月24日。撮影:Kakidai/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

1950年の博覧会から劇場街へ

復興計画を大きく動かしたのが、1950年に開かれた東京産業文化博覧会です。博覧会後、その周辺には映画館や劇場などの娯楽施設が集まり、1956年12月には新宿東急文化会館と新宿コマ劇場が相次いで完成しました。歌舞伎劇場の誘致は実現しなかったものの、「興行街をつくる」という構想は別のかたちで現実になりました。

新宿コマ劇場は大衆演芸・歌謡公演の拠点として52年間営業し、2008年に閉館しました。その跡地には2015年、新宿東宝ビルが開業しました。現在、地上約50メートルの「ゴジラヘッド」が見える場所は、かつてコマ劇場が立っていた一丁目19番地です。東宝も歌舞伎町の再開発史で、コマ劇場から新宿東宝ビルへの継承を紹介しています。

2007年に撮影された新宿コマ劇場の外観
新宿コマ劇場、2007年10月29日。撮影:e091559/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.5・2.0・1.0。

ミラノ座跡に建つ東急歌舞伎町タワー

新宿コマ劇場跡と混同しやすいのが、2023年に開業した東急歌舞伎町タワーです。タワーが建つ歌舞伎町一丁目29番地は、新宿東急文化会館、のちの新宿TOKYU MILANOがあった場所です。東急文化会館は1956年12月1日に開業し、映画館ミラノ座やスケートリンクなどを備えました。施設は1996年に新宿TOKYU MILANOへ改称し、2014年末に閉館しました。

跡地に建つ東急歌舞伎町タワーは地上48階・地下5階、高さ約225メートル。映画館、劇場、ライブホール、ホテル、飲食施設を集めています。1950年代の歌舞伎町が目指した「娯楽施設を集める街」という性格が、約70年後の複合エンターテインメント施設に受け継がれた場所です。

シネシティ広場は劇場街の中心だった

新宿東宝ビルと東急歌舞伎町タワーの間にあるシネシティ広場は、旧コマ劇場前の広場を受け継ぐ場所です。区画整理によって生まれた中心空間で、かつては緑地や噴水も設けられました。現在はイベントや地域の催しに使われ、歌舞伎町の回遊を生む広場として機能しています。

新宿区は2005年に「歌舞伎町ルネッサンス推進協議会」を設立し、その後、シネシティ広場やセントラルロードの整備を進めました。戦後復興期に生まれた「劇場の前に人が集まる広場」という考え方は、用途を変えながら現在のまちづくりにも残っています。

新宿ゴールデン街――戦後の小さな店が残す路地

歌舞伎町一丁目の南東部にある新宿ゴールデン街は、細い路地と小規模な木造店舗が密集する飲食店街です。戦後、露店の整理に伴って店が移り、現在の街区の基礎が形づくられました。1958年の売春防止法施行後は飲食店への転換が進み、作家、演劇人、映画関係者らが集まる場所として知られるようになります。

再開発で街の姿が大きく変わった歌舞伎町の中で、ゴールデン街には昭和期の街区と建物のスケールが濃く残ります。新宿区もその風情を地区の魅力として位置づけ、防災性を高めながら街並みを継承する方針を示しています。

新宿ゴールデン街に密集する木造店舗群の俯瞰
新宿ゴールデン街、2008年3月15日。撮影:てらたにこういち/Wikimedia Commons/CC BY 3.0。

二丁目には「歌舞伎町以前」の歴史も残る

稲荷鬼王神社と1930年の富士塚

職安通りに近い二丁目17番地には、稲荷鬼王神社いなりきおうじんじゃがあります。起源は1653年に建てられた稲荷神社で、宝暦2年(1752)に紀州熊野から勧請された鬼王権現が、天保2年(1831)に稲荷神社へ合祀されました。現在の「歌舞伎町」という地名が生まれる1世紀以上前から続く信仰の場所です。

境内には1930年に築かれた富士塚が残り、2025年に新宿区の地域文化財に認定されました。参道を挟んで二つに分かれた独特の姿で、かつて「西大久保富士」と呼ばれていました。ネオン街のイメージが強い歌舞伎町二丁目で、戦前の地域社会と富士信仰を伝える重要な史跡です。

島崎藤村旧居跡と『破戒』

二丁目4番地には、作家島崎藤村しまざき とうそんの旧居跡があります。藤村は1905年5月から1906年9月までこの地に暮らし、この時期に長編小説『破戒』を書き上げました。現在の繁華街からは想像しにくい住宅地だった時代を伝える痕跡です。新宿区の文化観光資源案内でも、大久保周辺の歴史散歩スポットとして紹介されています。

『赤い鳥』を編集した鈴木三重吉の旧居跡

二丁目23番地には、小説家・児童文学作家の鈴木三重吉が1929年から1936年まで暮らした旧居跡があります。ここには児童文芸雑誌『赤い鳥』の編集・出版を行った「赤い鳥」社も置かれました。『赤い鳥』には芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村らが作品を寄せ、近代児童文学と童謡の発展に大きな役割を果たしました。歌舞伎町二丁目には、歓楽街になる以前の文学史も残っています。

大久保公園――1950年から続く公共空間

歌舞伎町二丁目43番地の新宿区立大久保公園は、1950年6月10日に開園しました。現在はスポーツ利用に加え、食や文化のイベント会場としても知られています。開園年は東京産業文化博覧会と同じ1950年。劇場や映画館だけでなく、広場や公園を含めて人が集まる場所をつくっていった戦後歌舞伎町の時間軸の中で見ると、公園の位置づけも分かりやすくなります。

歌舞伎町一丁目・二丁目を歴史散歩するなら

歴史の流れを追うなら、新宿三丁目側から新宿ゴールデン街へ入り、新宿区役所前を経て歌舞伎町一番街、旧コマ劇場跡の新宿東宝ビル、シネシティ広場、旧ミラノ座跡の東急歌舞伎町タワーへ進むと、戦後の劇場街計画を立体的に追えます。そこから大久保公園、稲荷鬼王神社、島崎藤村旧居跡へ進むと、二丁目に残る戦前の信仰や文学史まで視野が広がります。

歌舞伎町の外まで新宿の歴史を歩くなら、新宿駅から神宮外苑へ向かう歴史散歩コースもあわせて楽しめます。新宿駅を起点に、千駄ヶ谷や国立競技場周辺の史跡へつながる別方向の街歩きです。

現在地から歴史スポットを探す「TimeWalk」

歌舞伎町を歩きながら周辺の史跡を探したいときは、TimeWalkで現在地から歩ける史跡を地図で探すことができます。現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分のペースで歴史散歩を楽しめるWebアプリです。

まとめ

歌舞伎町の特徴は、戦後に計画された劇場街の骨格と、それ以前から続く神社・文学史が一丁目・二丁目の中に同居していることです。1948年の町名誕生、1950年の博覧会、1956年の新宿コマ劇場と東急文化会館、そして現在の新宿東宝ビルと東急歌舞伎町タワーまで、娯楽を核に人を集める街の系譜が続いています。ネオンの下で街路や広場、旧居跡、神社に目を向けると、歌舞伎町は戦後東京の都市計画を歩いて読める街になります。

参考資料

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 運営者
なかまつ

北海道大学工学部卒。現在はIT系会社員の傍ら、年間400回以上の街歩きイベントを企画し、これまで延べ25,000名以上の方にご参加いただいている、ゆる歴史散歩サークルを運営しています。東京の歴史・文化・建築・地形などを、初心者でも気軽に楽しめるイベントとして企画しています。

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