第二次世界大戦中、日本でも原子爆弾の実現可能性を調べる研究が行われていました。
陸軍は理化学研究所の仁科芳雄を中心に「ニ号研究」を進め、海軍は京都帝国大学の荒勝文策を中心に、一般に「F研究」「F号研究」と呼ばれる研究を進めました。
ただし、日本が到達したのは理論計算、核分裂の測定、ウラン分離法の実験・設計までです。兵器級ウランの大量生産施設、完成した爆弾、核実験の記録はなく、実用化には大きな隔たりがありました。
結論
日本も原爆を研究していましたが、完成間近だったわけではありません。陸軍のニ号研究は熱拡散法によるウラン分離実験、海軍のF研究は遠心分離器の設計や臨界量の計算を進めた段階で終戦を迎えました。
ニ号研究とF研究の違い
| 項目 | 陸軍「ニ号研究」 | 海軍「F研究」 |
|---|---|---|
| 中心人物 | 仁科芳雄 | 荒勝文策 |
| 主な拠点 | 理化学研究所・駒込 | 京都帝国大学 |
| 本格化した時期 | 1943年1月 | 1944年秋以降 |
| 主な分離方法 | 熱拡散法 | 遠心分離法 |
| 主な研究 | 六フッ化ウランの製造、分離筒による濃縮実験、理論計算 | 遠心分離器の設計、臨界量の計算、核分裂中性子の測定 |
| 終戦時の段階 | 分離実験で十分な成果を得られず、装置も空襲で焼失 | 設計・計算中心で、大規模な濃縮装置の完成前 |
両者は陸軍と海軍が別々に進めた研究で、方法も進行段階も異なります。共通していた最大の課題は、天然ウランからウラン235を分離し、爆弾に必要な量を集めることでした。
日本は原爆完成までのどこまで進んでいた?
日本の研究が到達した段階と、その先に残されていた工程を分けると、実態が分かりやすくなります。
到達していた段階
- 核分裂と連鎖反応の原理を理解する
- 原爆成立の条件や臨界量を計算する
- 核分裂で発生する中性子を測定する
- 六フッ化ウランを製造する
- 熱拡散法による小規模な分離実験を行う
- 遠心分離器を設計する
到達していなかった段階
- 兵器級ウランを工業規模で生産する
- 大規模な濃縮工場を連続運転する
- 爆弾本体と起爆機構を完成させる
- 完成した核兵器を実験する
- 実戦に使用できる兵器として配備する
日本の研究は「原理を知らなかった」段階ではなく、「原理を兵器へ変える巨大な生産工程を実現できなかった」段階でした。
原爆の製造で最も難しかったこと
原爆に利用された物質の一つが、ウラン235です。
ウラン235の原子核に中性子が当たると、原子核が二つほどに分かれ、大きなエネルギーと新しい中性子を放出します。これが「核分裂」です。放出された中性子が別のウラン235を分裂させ、反応が次々に続く現象を「連鎖反応」といいます。
天然ウランに含まれるウラン235は約0.7%で、大部分はウラン238です。原爆を作るには、性質のよく似た二つの同位体を分け、ウラン235の割合を大幅に高める必要があります。この作業がウラン濃縮です。

研究室でわずかな割合の差を測ることと、爆弾に必要な量を安定して生産することの間には大きな隔たりがあります。日本の研究で最大の壁となったのも、ウラン235の大量分離でした。
日本の原爆研究が始まるまで
1938年末、ドイツのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンがウランの核分裂につながる実験結果を発表し、リーゼ・マイトナーとオットー・フリッシュが核分裂として理論的に説明しました。
研究成果は戦争前の国際的な学術情報として広まり、日本を含む各国の物理学者が核分裂と連鎖反応の可能性を知りました。
日本陸軍は1940年ごろから原爆の可能性を調査し、1941年4月に理化学研究所へ研究を依頼しました。仁科芳雄は当初、この依頼を断ったとされています。
1942年8月、海軍は仁科を委員長とする「核物理応用研究会」を設けました。研究会は原爆を理論上は実現可能としながらも、アメリカでも戦争中の完成は難しいと判断しました。
1943年1月、陸軍航空本部の委託研究として、仁科研究室の「ニ号研究」が本格化します。海軍が荒勝研究室へ研究を依頼したのは、日本の敗色が濃くなった1944年秋でした。

研究の拠点は東京と京都
陸軍のニ号研究は東京の理化学研究所、海軍のF研究は京都の京都帝国大学を中心に進められました。

陸軍の「ニ号研究」
理化学研究所・駒込で行われた
研究場所は、理化学研究所の駒込地区です。現在の東京都文京区本駒込2丁目、仁科記念財団や日本アイソトープ協会がある一帯に、戦前の理研の研究施設や実験棟、工場がありました。
熱拡散法でウラン235を分けようとした
ニ号研究では、天然ウランからウラン235を分離するため、熱拡散法が試されました。
ウランを六フッ化ウランという気体に変え、分離筒の内部に温度差を作ると、ウラン235を含む分子とウラン238を含む分子の分布にわずかな偏りが生じます。その差を何度も積み重ねて濃縮する方法です。
駒込の49号館には高さ約5メートルの分離筒が設置され、六フッ化ウランの製造と分離実験が行われました。十分な濃縮を確認できないまま、1945年4月14日の空襲で49号館と装置が焼失し、仁科はこの方法による研究の中止を決めました。
ニ号研究の主な作業
- 原爆成立の条件に関する理論計算
- ウラン235の性質の研究
- 六フッ化ウランの製造
- 熱拡散法によるウラン分離実験
研究室規模の分離実験から、兵器級ウランの生産工程へ進む前に研究は終わりました。
海軍の「F研究」
京都帝国大学・荒勝研究室が中心だった
研究場所は、京都帝国大学理学部の荒勝文策研究室です。現在の京都大学吉田キャンパス北部構内にあたります。
荒勝研究室では軍から依頼される以前から原子核物理学を研究し、ウランが核分裂した際に放出する中性子の数を測定していました。この数は連鎖反応が持続するかを判断する基礎データです。
遠心分離器と臨界量を研究した
1944年秋、海軍は荒勝に原子エネルギーと原爆の研究を依頼しました。荒勝研究室では、次の作業が進められました。
- ウラン235を分離する遠心分離器の設計
- 連鎖反応が持続する最小量である「臨界量」の計算
- 核分裂時に放出される中性子の測定
戦時研究として正式に認められたのは1945年5月末です。7月21日には京都帝国大学の研究者と海軍担当者が会議を開きましたが、遠心分離装置の大規模運転に至る前に、広島・長崎への原爆投下と終戦を迎えました。
なぜ日本は原爆を完成できなかった?
原爆製造には、科学理論だけでなく、大量の原料、膨大な電力、精密機械、耐食性の高い化学設備、多数の技術者、巨大な工場が必要です。
天然ウランに含まれるウラン235が約0.7%しかないため、大量の天然ウランを何段階も処理し続けなければなりません。日本では原料・電力・資材・精密機械が不足し、空襲によって研究施設や工業基盤も損傷しました。
陸軍と海軍が別系統で研究を進めたことも、限られた人員や資材を集中するうえで不利に働きました。ニ号研究は分離実験、F研究は装置設計と計算を進めましたが、どちらも工業規模の生産体制へ到達していません。
マンハッタン計画とは何が違った?
| 比較項目 | 日本 | アメリカ |
|---|---|---|
| 組織 | 陸軍・海軍が別々に研究 | 軍・大学・企業を国家規模で統合 |
| 拠点 | 研究所や大学の研究室が中心 | オークリッジ、ハンフォード、ロスアラモスなど巨大拠点 |
| ウラン濃縮 | 実験・設計段階 | 複数方式で工業生産 |
| プルトニウム | 兵器用生産施設なし | 原子炉と再処理施設で生産 |
| 爆弾開発 | 完成した兵器なし | 設計・製造・核実験・実戦使用まで実施 |
アメリカは秘密都市と巨大工場を建設し、ウラン型とプルトニウム型の二つの方式を並行して進めました。日本の研究との差は、科学者個人の能力よりも、資源と工業力を集中した国家計画の規模にありました。
アメリカ側の施設と開発工程は、関連記事「写真で見るマンハッタン計画|オークリッジ・ハンフォード・ロスアラモスを解説」で詳しく紹介しています。
日本はアメリカの研究をどこまで知っていた?
日本の物理学者は、戦前に公表された核分裂や連鎖反応の基本知識を共有していました。アメリカが原爆を研究している可能性も考えていました。
一方、マンハッタン計画の規模、工業的なウラン濃縮の進展、プルトニウム型原爆の開発、戦争中に完成する時期までは把握していませんでした。1942年の核物理応用研究会が「アメリカでも戦争中の完成は難しい」と判断したことは、相手の生産能力を過小評価していたことを示します。
アメリカは日本の研究をどこまで知っていた?
アメリカは戦前から、仁科芳雄や荒勝文策の研究実績、日本にサイクロトロンなどの原子核研究設備があることを知っていました。
日本の計画の実態を詳しく調査したのは主に終戦後です。1945年9月、アメリカの調査団は京都帝国大学を訪れ、荒勝文策や湯川秀樹らから事情を聴き、研究設備や資料を調べました。
荒勝研究室の実験ノートは占領軍に押収され、その一部は後年、アメリカ議会図書館で発見されました。終戦前の日米は、相手に原子核研究能力があることを知りながら、その規模と到達度を正確には把握していませんでした。
よくある疑問と誤解
日本は終戦直前に原爆を完成させていた?
完成した原爆や兵器級ウランの大量生産を示す資料は確認されていません。ニ号研究は熱拡散法の実験、F研究は遠心分離器の設計と臨界量計算の段階でした。
ニ号研究とF研究は共同計画だった?
陸軍と海軍が別々に進めた研究です。研究目的には共通点がありましたが、中心人物、拠点、分離方法、開始時期が異なります。
仁科芳雄はドイツで原爆の理論を学んだ?
仁科は1920年代にヨーロッパへ留学し、ケンブリッジ、ゲッティンゲン、コペンハーゲンなどで研究しました。特にニールス・ボーアの研究所で量子力学と原子構造を学びました。
核分裂が発見されたのは1938年末で、仁科の帰国から約10年後です。仁科が欧州で身につけたのは原爆の設計図ではなく、原子核を理論と実験の両面から研究するための基礎でした。
仁科はなぜ軍の研究を引き受けた?
仁科本人が理由を明確に説明した記録は確認されていません。後年の関係者は、研究施設や若い研究者を守る意図もあったのではないかと推測しています。本人の証言と後世の推測は区別して読む必要があります。
日本が朝鮮半島で核実験に成功したという説は本当?
終戦直前に日本が朝鮮半島で核実験を行ったという説は、裏づけとなる同時代史料が乏しく、研究史では信頼できる事実として扱われていません。日本の研究が工業規模の濃縮や完成兵器へ到達したことを示す確かな証拠もありません。
研究を担った物理学者
仁科芳雄(1890~1951年)

日本の原子核物理学を代表する物理学者です。欧州留学中にニールス・ボーアらと交流し、帰国後は理化学研究所に仁科研究室を開きました。日本初のサイクロトロン建設を進め、多くの若手研究者を育てました。
戦時中は陸軍から依頼を受け、ニ号研究の中心となりました。広島への原爆投下後には現地調査に参加し、投下された兵器が原子爆弾であることを科学的に確認しました。
荒勝文策(1890~1973年)

京都帝国大学で原子核物理学を研究した物理学者です。台北帝国大学時代には高電圧加速器を製作し、東アジアで早い時期に加速器を用いた原子核反応実験を行いました。
京都帝国大学では核分裂時に放出される中性子の数を測定し、戦争末期には海軍の依頼で遠心分離器の設計や臨界量の計算に関わりました。
ニールス・ボーア(1885~1962年)

デンマークの物理学者で、原子構造の研究によって1922年にノーベル物理学賞を受賞しました。コペンハーゲンの研究所には世界各国の若い物理学者が集まり、仁科芳雄もそこで研究しました。
関係施設と資料
理研和光地区・仁科芳雄記念室
埼玉県和光市の理化学研究所には、仁科芳雄記念室があります。駒込時代に仁科が使った机や椅子、実験装置、薬品類を用いて研究室が再現され、仁科とニールス・ボーアの書簡なども保存されています。
見学条件は時期によって変わるため、訪問前に理化学研究所の公開情報を確認してください。
仁科芳雄デジタル記念館
仁科記念財団の「仁科芳雄デジタル記念館」では、ニ号研究の進行状況を記録した「黒田文書」、仁科の略歴、書簡、写真などを閲覧できます。
黒田文書は、陸軍側の担当者が仁科からウラン濃縮研究の状況を聞き取った記録で、ニ号研究の実態を知る重要資料です。
京都大学大学文書館
京都大学大学文書館は、荒勝文策と原子核物理学に関する資料や解説を公開しています。荒勝研究室、F研究、終戦後の米軍調査、実験ノートの押収などをたどることができます。
駒込49号館
ニ号研究の熱拡散装置が置かれた49号館は、1945年4月の空襲で焼失しました。建物と装置は現存せず、旧理研の歴史は和光の記念室やオンライン資料で確認できます。
まとめ
日本では陸軍のニ号研究と海軍のF研究が進められました。研究者は核分裂の原理を理解し、熱拡散法、遠心分離法、臨界量計算などに取り組みました。
終戦時点では、ニ号研究は小規模な分離実験、F研究は装置設計と計算の段階でした。原料、電力、精密機械、巨大工場を必要とする工業生産へ進めず、完成した原爆はありませんでした。

