第二次世界大戦末期、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下しました。
では、日本は原爆を一方的に落とされた側であり、原爆の研究はまったく行っていなかったのでしょうか。
結論からいうと、日本でも原爆の可能性を調べる研究が行われていました。
陸軍は理化学研究所の仁科芳雄を中心に「ニ号研究」を、海軍は京都帝国大学の荒勝文策を中心に、一般に「F研究」「F号研究」と呼ばれる研究を進めました。
ただし、日本の研究はアメリカのマンハッタン計画とは規模がまったく異なります。実際に使用できる原爆を完成させる直前だったわけではなく、理論計算やウランの分離実験などを行っている途中で終戦を迎えました。
この記事の結論
日本も原爆の研究をしていました。
しかし、原爆を実際に製造できる段階には達していませんでした。
そもそも、原爆はどういうしくみ?
原爆の研究というと難しく感じますが、まずは大まかなイメージだけつかんでみましょう。
原爆に利用された物質の一つが、ウラン235です。
ウラン235の原子核に中性子が当たると、原子核が二つほどに分かれます。これを「核分裂」といいます。このとき大きなエネルギーと、新しい中性子が放出されます。
その中性子が別のウラン235に当たると、次の核分裂が起こります。この反応が次々に続いていくのが「連鎖反応」です。
しかし、自然界にあるウランのうち、ウラン235は約0.7%しかありません。残りの大部分はウラン238です。
そのため、原爆を作るには、よく似たウラン235とウラン238を分けて、ウラン235の割合を大幅に高めなければなりません。この作業をウラン濃縮といいます。

つまり、原爆の基本原理を理解するだけでは完成しません。
日本の研究で最大の壁となったのも、必要な量のウラン235をどのように集めるかという問題でした。
原爆研究が始まったきっかけ
1938年末、ドイツの研究者によって、ウランの原子核が中性子を受けると分裂する現象が発見されました。
核分裂の際には新しい中性子が放出されます。その中性子が別のウランを分裂させれば、連鎖反応を起こせる可能性があります。
核分裂の研究成果は、戦争が本格化する前には国際的な学術情報として公開されていました。そのため、原爆の基本原理そのものは、アメリカだけが握っていた秘密ではありませんでした。日本、ドイツ、イギリスなどの物理学者も、その可能性に気づくことができました。
日本陸軍は1940年ごろから原爆の可能性を調査し、1941年4月には理化学研究所に研究を依頼しました。
当初、仁科芳雄は依頼を断ったとされています。その後、1942年には海軍が仁科を委員長とする「核物理応用研究会」を設け、原爆の実現可能性を検討しました。
この研究会では、原爆は理論的には可能であるものの、アメリカでも戦争中に完成させることは難しいだろうと判断されました。
ところが1943年1月、陸軍からの委託研究として、仁科研究室による「ニ号研究」が本格的に始まりました。

日本の原爆研究はどこで行われた?
日本の原爆研究は、一つの巨大な秘密都市で行われていたわけではありません。
中心となったのは、東京の理化学研究所と、京都の京都帝国大学です。

東京・理化学研究所の「ニ号研究」
研究場所
陸軍の「ニ号研究」は、理化学研究所の駒込地区で行われました。
現在の東京都文京区本駒込2丁目、仁科記念財団や日本アイソトープ協会がある一帯です。戦前の理研は駒込を中心に研究施設、実験棟、工場などを構えていました。
何を研究していた?
研究の中心は、天然ウランからウラン235を分離することでした。
ウランを「六フッ化ウラン」という気体にし、温度差によってウラン235とウラン238を少しずつ分ける熱拡散法が試されました。
駒込の49号館には、高さ約5メートルの分離筒が設置されました。しかし、実験を繰り返しても、十分な濃縮ウランを得ることはできませんでした。
さらに1945年4月14日の空襲で、49号館と分離装置は焼失しました。仁科は、この方法による研究の中止を決断しました。
したがって、駒込で行われていたのは、次のような研究です。
- 原爆が成立するための理論計算
- ウラン235の性質の研究
- 六フッ化ウランの製造
- 熱拡散法によるウラン濃縮実験
爆弾本体が完成していたわけではありません。
京都帝国大学の「F研究」
研究場所
海軍側の研究は、京都帝国大学理学部の荒勝文策研究室を中心に行われました。
場所は、現在の京都大学吉田キャンパス北部構内です。当時の物理学教室は1930年に本部構内から北部構内へ移転していました。
荒勝研究室は何を研究していた?
荒勝文策の研究室では、軍から依頼される以前から原子核物理学の研究が行われていました。
荒勝グループは、ウランが核分裂したときに発生する中性子の数を測定していました。この数は、連鎖反応が続くかどうかを判断するために重要です。戦前に発表した測定結果は、当時として非常に精度が高いものでした。
1944年秋、日本の敗色が濃くなると、海軍は荒勝に原子エネルギーと原爆の研究を依頼しました。
荒勝研究室では、次のような研究が進められました。
- ウラン235を分ける遠心分離器の設計
- 連鎖反応が起こる量である「臨界量」の計算
- 核分裂時に出る中性子の測定
しかし、戦時研究として正式に認められたのは1945年5月末でした。7月21日に京都大学の研究者と海軍担当者の会議が開かれましたが、8月には広島への原爆投下と終戦を迎え、研究はそれ以上進みませんでした。
つまり京都では、遠心分離装置の設計や計算が進められていましたが、大規模な濃縮施設を完成させる前に終戦となりました。
なぜ日本は原爆を完成できなかった?
原爆は、優れた物理学者が数人いれば作れるものではありません。
大量のウランを処理する工場、膨大な電力、精密な機械、化学設備、資材、技術者などが必要です。
アメリカのマンハッタン計画では、大規模なウラン濃縮施設やプルトニウム生産施設が建設されました。これに対し、日本の研究は理研や大学の限られた研究室を中心とする小規模なものでした。
日本では、次のような問題がありました。
- ウラン原料の確保が難しい
- 大規模工場を建設する余力がない
- 電力や資材が不足している
- 精密機械を十分に製造できない
- 熱拡散法による濃縮が成功しない
- 陸軍と海軍が別々に研究している
そのため、「日本も完成寸前まで原爆を作っていた」という理解は正確ではありません。
研究は行われていましたが、実際に爆弾を組み立てる段階とは大きな隔たりがありました。
日本にはアメリカの研究情報が入っていた?
日本の物理学者たちは、核分裂や連鎖反応という基本原理を知っていました。
しかし、日本が知っていたのは主に戦前までに公表されていた科学知識です。
日本側は、アメリカも原爆を研究している可能性があると考えていました。それでも、次のようなことまでは正確に把握していませんでした。
- アメリカがどれほど巨大な計画を進めているのか
- ウラン濃縮がどこまで進んでいるのか
- プルトニウムを利用する原爆が作られていること
- 爆弾が戦争中に完成すること
むしろ日本側の委員会は、アメリカでも戦争中の完成は困難だろうと判断していました。
日本の研究情報はアメリカへ漏れていた?
アメリカは、戦前から仁科や荒勝のような日本人研究者の存在や、日本にサイクロトロンなどの原子核研究設備があることを知っていました。
ただし、日本の原爆研究の詳しい内容をアメリカが本格的に調べたのは、主に終戦後です。
1945年9月、アメリカの調査団が京都帝国大学を訪れ、荒勝文策や湯川秀樹らを調査しました。さらに、日本のサイクロトロンや研究資料も調べられました。
荒勝研究室の実験ノートは占領軍によって押収され、その一部は後年、アメリカ議会図書館で発見されています。
確認できる資料から見る限り、ソ連がマンハッタン計画内部から得たような大規模なスパイ情報が、日本からアメリカへ継続的に渡っていたわけではありません。
日米双方が、相手国にも原子核研究能力があることは知っていたものの、研究の実態や進展度までは正確につかんでいなかったと考えるのが適切でしょう。
仁科芳雄はドイツで原爆の理論を知った?
仁科芳雄は1920年代にヨーロッパへ留学し、イギリスのケンブリッジやドイツのゲッティンゲンなどを訪れました。
しかし、仁科が原爆の理論をドイツから持ち帰ったわけではありません。
仁科の欧州滞在で特に重要だったのは、デンマークのコペンハーゲンです。仁科はニールス・ボーアの研究所で、量子力学や原子構造について研究しました。世界各地から集まった物理学者たちと、立場を越えて自由に議論する研究文化にも触れました。
そもそも、核分裂が発見されたのは1938年末です。仁科がヨーロッパから帰国したのは、それより約10年前でした。
したがって、仁科が欧州で学んだのは原爆の製造方法ではなく、次のようなものでした。
- 量子力学
- 原子や放射線の物理
- 原子核を実験で調べる方法
- 国際的な研究者との交流
- 自由な議論を重視する研究文化
この経験によって仁科は、日本で核分裂や原子核研究を進められる数少ない研究者の一人となり、軍から原爆の可能性を調べるよう求められたのです。
関係する主な物理学者
仁科芳雄(1890~1951年)

日本の原子核物理学を代表する物理学者です。
ヨーロッパ留学中にニールス・ボーアらと交流し、帰国後は理化学研究所に仁科研究室を開きました。日本初のサイクロトロン建設を進め、若い物理学者を多数育てました。
戦時中は陸軍から依頼を受け、「ニ号研究」の中心となりました。一方で、実際にどのような考えで軍の研究を引き受けたのかについては、研究施設や若い研究者を守るためだったという見方などもあり、単純には断定できません。
荒勝文策(1890~1973年)

京都帝国大学で原子核物理学を研究した物理学者です。
台北帝国大学時代には高電圧加速器を製作し、東アジアで早い時期に加速器を用いた原子核反応実験を行いました。
京都帝国大学へ移った後は、核分裂によって発生する中性子の数などを測定しました。戦争末期には海軍から原爆研究を依頼され、遠心分離器の設計や臨界量の計算に関わりました。
ニールス・ボーア(1885~1962年)

デンマークの物理学者で、原子構造の研究によって1922年にノーベル物理学賞を受賞しました。
コペンハーゲンに開いた研究所には、世界各国から若い物理学者が集まりました。仁科芳雄もその一人です。
仁科にとってボーアは、原子物理学の知識だけでなく、研究者同士が自由に議論する「コペンハーゲン精神」を学んだ重要な人物でした。
関係施設や資料を見ることはできる?
理研和光地区・仁科芳雄記念室
埼玉県和光市の理化学研究所には、仁科芳雄記念室があります。
駒込時代に仁科が実際に使っていた机や椅子、実験装置、薬品類などを使って研究室が再現されています。仁科とニールス・ボーアの書簡なども保存されています。
ただし、一般的な博物館のように、いつでも自由に入れる施設ではありません。
理研の記念史料室は個人見学を受け付けていない場合があり、一般公開などで見学できることがあります。訪問前に最新の公開情報を確認してください。
仁科芳雄デジタル記念館
インターネット上では、仁科記念財団の「仁科芳雄デジタル記念館」が公開されています。
ニ号研究の進行状況を記録した「黒田文書」、仁科の略歴、書簡、写真などを見ることができます。黒田文書は、陸軍側の担当者が仁科からウラン濃縮研究の状況を聞き取った記録で、全部で23枚あります。
京都大学大学文書館
京都大学大学文書館は、荒勝文策と原子核物理学についての資料や解説を公開しています。
大学文書館の冊子では、荒勝研究室、物理学教室本館、F研究、終戦後の米軍調査、実験ノートの押収などを確認できます。
駒込49号館
ニ号研究の熱拡散装置が置かれていた49号館は、1945年の空襲で焼失しました。
そのため、実際の研究棟や濃縮装置を現在見学することはできません。旧理研の歴史を知るには、和光の記念室やオンライン資料を見るのが現実的です。
まとめ
日本でも、第二次世界大戦中に原爆の可能性を調べる研究が行われていました。
東京の理化学研究所では、仁科芳雄を中心とする陸軍の「ニ号研究」が行われ、熱拡散法によるウラン235の濃縮が試されました。
京都帝国大学では、荒勝文策を中心に海軍側の研究が進められ、遠心分離装置の設計や臨界量の計算が行われました。
しかし、日本の研究は小規模で、ウラン資源、電力、工場、資材、精密機械などが不足していました。ウラン235の濃縮にも成功せず、原爆を実際に製造する段階には達しませんでした。
したがって、
日本も原爆を研究していたが、完成直前だったわけではない
というのが、もっとも実態に近い理解です。

