写真で見る日系アメリカ人強制収容|なぜアメリカ市民まで収容されたのか

1942年、番号札を付け、荷物とともに強制移住を待つモチダ一家

第二次世界大戦中のアメリカで、約12万人の日系人が西海岸などから強制的に移されました。その中には日本国籍の移民だけでなく、アメリカで生まれた米国市民も多数含まれていました。

市民権を持つ人まで、個別の犯罪立証や通常の裁判手続きを経ずに移住・収容されました。長く続いていた排日はいにち感情、軍の判断、戦時非常権限、政治や世論の圧力、人種による一括分類、司法が十分な歯止めになれなかったことが重なりました。

30秒で分かる結論

  • 1942年、大統領令9066号を根拠に軍が軍事区域を設定し、西海岸を中心に日系人を集団として排除しました。
  • 大統領令自体は対象民族を明記せず、その後の軍命令と運用で日系人が主な対象になりました。
  • 対象は約12万人。公的資料により集計範囲は異なりますが、米国市民は約7万~8万人、一般におよそ3分の2と説明されます。
  • 日系人は、個人ごとの危険性を調べる通常の審査をほとんど経ないまま排除されました。
  • 1988年、市民自由法によって政府は政策の誤りを認め、公式謝罪と対象となる生存者1人あたり2万ドルの補償を定めました。

強制移住前の日系人社会

第二次世界大戦期、サンフランシスコの日本人街の様子
サンフランシスコの日本人街。強制移住以前に日系人が築いていた生活圏を示す。所蔵:National Archives and Records Administration。パブリックドメイン。

写真はサンフランシスコの日本人街です。日系人は商店、住居、学校、宗教施設、人間関係を含む生活圏を築いていました。強制移住は住宅だけでなく、地域の商業や人間関係も断ち切りました。

日系人には、日本から渡米した一世、アメリカ生まれで原則として米国市民だった二世、日本で教育を受けて戻った帰米二世など、異なる背景を持つ人々がいました。

19世紀末から西海岸では移民排斥が強まり、日本人移民は帰化の対象から排除され、外国人土地法によって土地所有も制限されました。1924年移民法は日本からの移民を事実上停止させます。こうした平時の制度と偏見が、戦時下の集団排除を受け入れやすくしました。

外国人土地法が日系人の農業経営と資産継承に及ぼした影響は、ワイナリーを経営した長沢鼎の事例にも表れています。

大統領令9066号と軍の排除命令

1942年2月19日に署名された大統領令9066号の原文1ページ目
大統領令9066号の原文。1942年2月19日。所蔵:National Archives and Records Administration。パブリックドメイン。

1942年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名しました。大統領令9066号は「日本人」や「日系人」を明記せず、軍が軍事区域を指定し、そこから人を排除できる権限を認めたものです。

その後、西部防衛司令部が軍事布告や民間人排除命令を出し、日系人へ夜間外出禁止、登録、退去を適用しました。大統領令と、日系人を具体的な対象にした軍の運用は別の段階でした。

退去命令とモチダ一家

モチダ一家の写真では、家族が番号札を付け、限られた荷物とともに退去を待っています。1942年にドロシア・ラングが撮影したこの場面では、家族が名前ではなく番号で管理されています。

退去期限は短く、農場、商店、住宅、家具、車、家畜などを急いで売却・賃貸・預託しなければならない家族が相次ぎました。

なぜ米国市民まで対象になったのか

1942年、ラファエル・ウェイル公立学校で米国旗に忠誠を誓う児童たち
米国旗に忠誠を誓うラファエル・ウェイル公立学校の児童たち。間もなく強制移住の対象となる日系人児童も通っていた。1942年、ドロシア・ラング撮影。所蔵:National Archives and Records Administration(NWDNS-210-G-C122)。パブリックドメイン。

この学校には、間もなく強制移住の対象となる日系人児童も通っていました。米国市民として教育を受けていた子どもも、祖先の出身を理由に排除対象となりました。

政府と軍は、攻撃、破壊活動、スパイ行為への懸念を「軍事的必要性」として主張しました。実際の運用では、危険性を個人ごとに立証せず、日系という血統を基準に集団全体を排除しました。市民権よりも、戦時の軍事判断と人種による一括分類が優先されました。

ドイツ系・イタリア系の敵国人にも個別拘禁や移動制限がありましたが、西海岸の日系人のように米国市民を含む広範な集団全体を地域から排除する政策とは規模と方法が異なりました。ハワイでは人口構成と経済事情から、拘禁は一部にとどまりました。

仮収容所から本収容所へ

1942年、日系人収容者のための宿舎を建設する作業員たち
日系人収容者用の宿舎を建設する様子。1942年。所蔵:National Archives and Records Administration。パブリックドメイン。

収容者用宿舎の建設現場では、政策決定後に人員と資材を動員して施設が急造されました。薄い板壁のバラックは、砂、風、暑さ、寒さを十分に防げないことがありました。

最初の行き先の多くは、陸軍の戦時民間管理局(WCCA)が管理した集合所・仮収容所でした。競馬場や見本市会場が転用され、馬小屋が居室となった場所もあります。その後、文民機関の戦時転住局(WRA)が運営する10か所の本収容所へ移されました。

マンザナー収容所の全景

1943年、監視塔から見たマンザナー収容所のバラックと道路の全景
監視塔から西を望むマンザナー収容所。バラック、道路、背後のシエラネバダ山脈が見える。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00275)。

監視塔から、道路とバラック、その背後のシエラネバダ山脈が見えます。収容所は監視、有刺鉄線、移動制限によって囲まれていました。

共同トイレではプライバシーが不足し、砂ぼこりや大きな寒暖差も生活を困難にしました。

バラックで始まった家族生活

1943年、マンザナー収容所のバラック入口に立つ母親と2人の娘
マンザナー収容所の住居入口に立つヤエコ・ナカムラと娘のジョイス・ユキ、ルイーズ・タミ。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00246)。

ヤエコ・ナカムラと二人の娘が、家族に割り当てられた住居入口に立っています。

バラックの壁は薄く、食堂、洗濯場、トイレ、浴室は共同で、家族の私生活は大きく制限されました。

仕事、共同組合、専門職、新聞、教育、宗教

1943年、マンザナー収容所の共同組合倉庫で働く3人の男性
マンザナー収容所の共同組合倉庫で物資を管理するM・オギ、S・スギモト、ブンキチ・ハヤシ。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00295)。

共同組合倉庫では、収容所内の食料、衣類、日用品などの物資が管理・配分されました。

1943年、マンザナー収容所で働く整備士ヘンリー・ハナワ
マンザナー収容所に収容されていた整備士ヘンリー・ハナワの肖像。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00256)。

ヘンリー・ハナワは整備士でした。収容者にはそれぞれ専門技術と職業歴がありました。

1943年、マンザナー収容所の電気技師ヨネヒサ・ヤマガミ
マンザナー収容所の電気技師ヨネヒサ・ヤマガミの肖像。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00266)。

ヨネヒサ・ヤマガミのような電気技師は、収容所の照明や設備を支えました。自由を制限された収容者が、施設運営に必要な専門労働を担いました。

1943年、マンザナー収容所の赤十字指導員キャサリン・ナツコ・ヤマグチ
マンザナー収容所の赤十字指導員キャサリン・ナツコ・ヤマグチの肖像。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00258)。

キャサリン・ナツコ・ヤマグチは赤十字指導員として救護や保健活動に関わりました。

1943年、マンザナー・フリー・プレスを読む編集者ロイ・タケノ
マンザナー・フリー・プレスの編集者ロイ・タケノが、新聞社前で同紙を読む。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00407)。

『マンザナー・フリー・プレス』は、配給、学校、スポーツ、出生や死亡、行政通知などを伝えました。収容者同士をつなぐ媒体で、WRAの監督下に置かれ、発行内容にも制約がありました。

1943年、マンザナー収容所の洋裁教室で学ぶ女性たち
マンザナー収容所の洋裁教室。指導者はヨシザワ夫人。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00302)。

洋裁教室では技能を教え、衣類を整え、将来の就労につながる訓練が行われました。

1943年、マンザナー収容所のカトリック教会前に集まる人々
マンザナー収容所のカトリック教会前に集まる人々。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00333)。

宗教活動は、慰め、共同体、儀礼の場を支えました。収容所では仏教、キリスト教など複数の宗教活動が行われ、施設や指導者の扱いには差がありました。

アンセル・アダムスのマンザナー写真には、収容された人々の尊厳、能力、共同体を示そうとした視点があります。ドロシア・ラングは退去と移送の過程を多く記録し、WRA写真には行政記録や広報の性格がありました。撮影制限や検閲により、監視設備や苦痛が十分に写されない場合もありました。

農業と食料生産

日系人収容所内で農作業をする収容者たち
収容所内で農作業をする日系人収容者たち。所蔵:National Archives and Records Administration。パブリックドメイン。

農業経験を持つ収容者は、荒れた土地を耕し、収容所の食料生産を支えました。仕事の賃金は低く、自由な職業選択も制限されていました。

1943年、マンザナー収容所の養鶏場で鶏に餌をまく男性
マンザナー収容所の養鶏場で鶏に餌をまくモリ・ナカシマ。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00330)。

食料供給は畑だけでなく養鶏にも支えられ、収容者自身の労働が生活の維持に組み込まれていました。

1943年、ウィリアムソン山を背景に作物を収穫するマンザナー収容所の農場労働者
ウィリアムソン山を背景に作物を収穫するマンザナー収容所の農場労働者。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00370)。

収容所の農場は、乾燥と寒暖差の大きい遠隔地にあり、収容者は移動を制限されたまま働きました。

出産、子ども、スポーツ

1943年、マンザナー収容所の産科病棟で赤ん坊を見る母親と看護師
マンザナー収容所の産科病棟。看護師アイコ・ハマグチが抱く赤ん坊を、母フランシス・ヨコヤマが窓越しに見る。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00343)。

収容中にも子どもは生まれました。産科病棟では、自由を制限された施設内で母子が出産を迎えました。

1943年、マンザナー収容所で列になって体操する少女たち
マンザナー収容所で体操をする少女たち。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00419)。

学校教育や健康活動が組織され、子どもたちは収容所内で学び、遊び、成長しました。

1943年、マンザナー収容所でバレーボールをする少女たち
マンザナー収容所でバレーボールをする少女たち。背後にバラックと山々が見える。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00378)。

スポーツは若者の交流と心身の支えになりました。余暇の場も収容所内に限られていました。

1943年、マンザナー収容所で行われる野球試合
マンザナー収容所で行われる野球試合。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00369)。

野球は日系アメリカ人社会に戦前から根づいていました。収容所内の試合は共同体のつながりを保つ役割を果たしました。

忠誠登録と日系人の軍務

1943年、軍服姿で立つジミー・ショハラ伍長
軍服姿のジミー・ショハラ伍長。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00263)。

軍服姿のジミー・ショハラ伍長は、収容と軍務が同時に存在した状況を示します。

1943年、制服姿の日系アメリカ人米海軍候補生看護師ケイ・フクダ
日系アメリカ人の米海軍候補生看護師ケイ・フクダ。1943年、アンセル・アダムス撮影。所蔵:Library of Congress(LC-DIG-ppprs-00267)。

ケイ・フクダは米海軍候補生看護師でした。日系人が医療や軍務に参加する一方、同じ祖先を持つ家族は自由を奪われていました。

1943年の忠誠登録では、軍務に就く意思を問う質問27と、アメリカへの忠誠および日本の天皇への忠誠放棄を問う質問28が問題になりました。一世は帰化を認められないまま日本への忠誠を放棄すれば無国籍になる恐れがあり、二世にはすでに米国市民なのに忠誠を再証明させられる矛盾がありました。

日系二世を中心に編成された第442連隊戦闘団はヨーロッパ戦線で戦いました。家族が有刺鉄線の内側にいる一方で、若者には国家への忠誠と兵役が求められました。

裁判、閉鎖、戦後補償

最高裁の三事件は争点が異なります。ヒラバヤシ事件は夜間外出禁止、コレマツ事件は指定区域からの排除命令、エンドウ事件は忠実な米国市民を拘禁し続ける権限を扱いました。

排除命令は1944年末に解除され、WRA収容所は1945年から1946年にかけて閉鎖されました。家、農場、商店、仕事、顧客、地域の人間関係を失った人々は、帰還後も生活再建に苦しみました。

1980年、連邦議会は戦時民間人転住・収容委員会(CWRIC)を設置しました。1983年の報告書『Personal Justice Denied』は、政策が主として人種的偏見、戦時ヒステリー、政治的指導力の失敗によって生じたと結論づけました。

1988年8月10日、市民自由法が成立し、連邦政府の公式謝罪、教育基金、要件を満たす生存者1人あたり2万ドルの補償が定められました。補償は失われた財産を完全に埋めるものではなく、原則として対象となる本人への象徴的な救済でした。

現在残るマンザナー

山々を背景に立つマンザナー墓地の白い慰霊塔
マンザナー墓地の慰霊塔。現在も収容の記憶を伝える場所となっている。撮影・所蔵:National Park Service。

白い慰霊塔は、収容中に亡くなった人々を悼み、戦後の巡礼や教育活動の中心となってきました。

マンザナー、ミニドカ、ハートマウンテン、トパーズ、ツールレイクなどでは、建物、基礎、墓地、慰霊碑、発掘資料、個人の証言が保存されています。

まとめ

日系アメリカ人の強制移住・収容は、戦前からの移民排斥と人種的偏見、軍の広い非常権限、政治と世論の圧力、行政による一括処理、司法の抑制不足が結びついて実行されました。米国市民も、個別の危険性を立証されないまま自由を奪われました。

参考文献・参考サイト

  1. National Archives, Japanese American Incarceration
  2. National Archives, Executive Order 9066
  3. Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians, Personal Justice Denied
  4. National Park Service, Japanese American Confinement Sites
  5. Manzanar National Historic Site
  6. Library of Congress, Ansel Adams’s Photographs of Japanese-American Internment at Manzanar
  7. Densho Encyclopedia
  8. United States Congress, Civil Liberties Act of 1988