ミクロネシアに子孫を残した森小弁|チューク諸島で語り継がれる日本人移民

森小弁とミクロネシア・チューク諸島、モリ・ファミリーを描いた歴史解説アイキャッチ

ミクロネシア連邦チューク州には、「モリ・ファミリー」と呼ばれる一族が暮らしています。その祖にあたる日本人が、高知県出身の森小弁(もり・こべん)です。

森小弁は1891年、22歳でトラック諸島、現在のチューク諸島へ渡りました。現地の首長の娘と結婚して11人の子どもをもうけ、1945年まで島で生涯を送りました。子孫は2,000人以上とされ、第7代ミクロネシア連邦大統領エマニュエル・モリも一族の一人です。

小弁が渡航した時点のトラック諸島はスペイン支配下にあり、日本統治の開始は1914年以降です。その後、島々はドイツ、日本、アメリカの統治を経験します。小弁の個人史は、家族形成から植民地統治、戦争、戦後の国際交流まで続くチューク近現代史と重なっています。

30秒で分かる結論

  • 森小弁は1869年に高知市で生まれ、1891年に貿易会社の一員としてトラック諸島へ渡りました。
  • 現地の首長の娘と結婚し、11人の子どもをもうけ、1945年までチュークで暮らしました。
  • 小弁の移住は日本統治より前で、その後のドイツ領、日本の軍政・委任統治、太平洋戦争を現地で経験しました。
  • チューク州には子孫のモリ・ファミリーが2,000人以上暮らすとされ、政界、経済界、社会の各分野に関わっています。
  • 日本で広まった「大酋長しゅうちょう」「冒険ダン吉のモデル」という語りは、チュークの母系社会を踏まえて検討する必要があります。

森小弁とは何者か

外務省によると、森小弁こべんは1869年に高知市で生まれました。1891年、貿易会社の一員として小さな帆船に乗り、トラック諸島へ渡りました。明治維新から二十数年後、日本の商人や移住者が太平洋の島々へ活動範囲を広げ始めた時期です。

在ミクロネシア日本国大使館は、当時22歳だった小弁が現地の首長の娘と結婚し、11人の子どもをもうけたと紹介しています。小弁は家族とともに1945年までトラック諸島で暮らしました。

子どもたちはチューク社会の親族関係の中で成長し、その子孫がモリ・ファミリーと呼ばれる一族になりました。森という日本の姓が残る一方、家族の生活基盤と社会関係はチュークにあります。森小弁の移住は、日本から来た一人の男性の経歴であると同時に、現地に根を下ろした家族の始まりです。

高知からチュークへ:移動の背景

時期出来事意味
1869年高知に生まれる明治維新直後の日本で成長
1891年トラック諸島へ渡航日本人の南洋進出の早い例
現地生活現地で結婚し家族を築く移民史が家族史として根づく
日本統治期南洋群島として日本の統治下に入る小弁の個人史が帝国史と重なる
現代高知県とミクロネシア連邦の交流へ家族の縁が自治体交流に広がる

小弁こべんが渡った1891年は、日本による統治が始まる二十年以上前です。カロリン諸島を含む地域はスペインの支配下にあり、1899年にドイツ領となりました。小弁は統治国が変わるなかでも島に残り、現地で家庭と生活基盤を築きました。

第一次世界大戦が始まると、日本海軍は1914年にドイツ領ミクロネシアを占領し、トラック諸島に軍政の司令部を置きました。ヴェルサイユ条約を経て、1920年に国際連盟が日本の委任統治を承認し、1922年には南洋庁が設置されました。小弁の周囲には、後から日本の行政機関、企業、移住者、軍関係者が入り、日本人社会が拡大しました。

太平洋戦争期のトラック諸島は、日本海軍の重要拠点となりました。1945年の敗戦で日本の統治は終わり、戦後はアメリカの統治へ移ります。小弁は日本統治の開始前から終結まで島で暮らしたため、その生涯だけでも半世紀を超える統治の変化をたどれます。

モリ・ファミリーとは何か

外務省は、チューク州に暮らす小弁こべんの子孫を2,000人以上と紹介しています。第7代ミクロネシア連邦大統領を務めたエマニュエル・モリは小弁のひ孫にあたり、在ミクロネシア日本国大使館の説明では小弁から数えて4世代目です。一族からは政界、経済界、社会の各分野で活動する人々が出ています。

モリ・ファミリーのつながりは、親族の範囲を越えて戦争の記憶にも関わっています。チューク州の日本人戦没者慰霊碑は、小弁の孫である森正隆が寄贈した土地に建てられ、在ミクロネシア日本国大使館によると一族が管理を担ってきました。ウェノ島には森小弁の墓があり、高知県などから訪れた人々が墓参しています。

森という姓や日本人の祖先だけで一族の姿を説明すると、チューク側の家族史が薄くなります。小弁の妻と11人の子ども、その後の世代がチューク社会で築いた親族関係と生活が、現在のモリ・ファミリーを形づくりました。

光と影:南洋移民を美談化しない

小弁こべんは、日本で「南洋へ渡って大酋長しゅうちょうになった人物」として語られてきました。歌謡曲『酋長の娘』や、島田啓三の絵物語『冒険ダン吉』のモデルと結びつける説も広まりました。異国へ渡った日本人男性が島の支配者になる物語は、戦前から続く「南洋」の冒険イメージに合うものでした。

飯髙伸五の研究は、こうした説明がチュークの母系的な社会構造を無視、または誤解してきたと批判しています。首長の娘と結婚した日本人男性を、そのまま一族の支配者とみなす見方は、現地の親族関係や権威の仕組みを日本側の感覚へ置き換えています。小弁と『冒険ダン吉』『酋長の娘』を直結させる語りも、南洋の人々を日本人男性の冒険の舞台として描く植民地主義的言説の一部として検討されています。

小弁の1891年の移住と、1914年以降の日本の軍事占領・委任統治は時期も制度も異なります。一方、小弁が暮らした場所は後に日本の植民地統治と軍事化の中心へ組み込まれました。家族の歩みには、チューク社会の側から見た結婚、親族、土地、戦争の経験も含まれます。

現地でどのように語り継がれているのか

チューク州では、森小弁こべんはモリ・ファミリーの祖として家族史の中に残っています。墓や慰霊碑の管理、親族の集まり、日本からの訪問団の受け入れを通して、その記憶が世代を越えて受け継がれてきました。日本側では、高知県とミクロネシア連邦を結ぶ人物として紹介されています。

親族間の交流は、2013年に発足した高知県・ミクロネシア友好交流協会を通じて官民の往来へ広がりました。ミクロネシア連邦大統領の高知訪問、高知県からの訪問団派遣などが重ねられ、2018年には日本の14自治体と太平洋島嶼国16か国・地域による「太平洋島嶼国・日本地方自治体ネットワーク」が設立されました。高知県知事とミクロネシア連邦大統領が初代代表に就任しています。

2019年の森小弁生誕150周年には、小弁の孫やひ孫など7人がミクロネシア連邦から高知を訪れました。森家の墓参、高知市立三里小学校や牧野植物園への訪問に加え、シンポジウム「土佐から南洋に渡った森小弁とモリ・ファミリー」が開かれました。翌2020年1月には高知県の官民訪問団6人がチューク州を訪れ、生誕150周年慰霊祭に出席しました。モリ・ファミリーの歓迎夕食会には100人を超える一族が集まっています。

森小弁の記憶は、個人を顕彰する話にとどまらず、親族交流、自治体外交、戦没者慰霊という複数の場で使われています。日本側の英雄像と、チューク側の家族史を分けて見比べることで、同じ人物が異なる文脈で語り継がれてきた経緯が分かります。

よくある誤解

森小弁は日本政府の命令で移住したのですか?

外務省資料では、1891年に貿易会社の一員として渡航した人物です。日本海軍がトラック諸島を占領した1914年より23年前で、南洋庁の設置より31年前にあたります。

森小弁の話は冒険譚として読めばよいですか?

冒険譚という枠だけでは、妻と子どもを中心に形成された家族、チュークの母系社会、統治国の交代、日本の植民地統治と戦争が抜け落ちます。『冒険ダン吉』や『酋長の娘』との結びつきも、事実関係と日本側の南洋イメージを分けて扱う必要があります。

モリ・ファミリーは今も日本と交流していますか?

親族交流は高知県とミクロネシア連邦の官民交流へ発展しました。2019年の高知訪問と2020年のチューク訪問では、森小弁の子孫、自治体関係者、学校、民間団体が参加しています。

まとめ

森小弁は1891年に高知からトラック諸島へ渡り、現地の首長の娘と結婚して11人の子どもを育てました。子孫のモリ・ファミリーはチューク社会の一族として暮らし、政財界での活動、慰霊碑の管理、高知県との交流を担ってきました。

その生涯には、日本統治前の移住、ドイツ領から日本の委任統治への変化、太平洋戦争が重なります。「大酋長になった日本人」という英雄像から離れ、チュークの親族制度と家族の歩みを中心に据えることで、森小弁をめぐる移民史の全体像を捉えられます。

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参考文献

  1. 外務省「国際社会と交流する地方(モリ・ファミリーがつなぐKIZUNA)」
  2. 外務省「グローカル通信」森小弁関連資料
  3. 在ミクロネシア日本国大使館「ミクロネシア便り」
  4. 飯髙伸五「高知から南洋群島への移住者・森小弁をめぐる植民地主義的言説の批判的検討」
  5. アジア歴史資料センター「臨時南洋防備隊」
  6. 外務省「ミクロネシア基礎データ」
  7. 在ミクロネシア日本国大使館「森小弁の墓及び日本人戦没者慰霊碑への墓参」