⑴ 日比谷公園
公園面積は16.2ha(東京ドームは1.3ha)
日露戦争祝賀会、西園寺公望、山本五十六などの国葬、大隈重信の国民葬、大正デモクラシー中の東京市電賃上げ反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に対する日比谷焼打事件、関東大震災による被災者遺体の仮埋葬など、さまざまな行事や事件の舞台となっている。
公園内には災害用給水槽(有効水量1,500m3 = 25mプール2.5杯分)が設置されている。給水槽内の水は常に新鮮な状態に保たれている。応急給水口が用意され、震災時は清廉な水道水を無償で給水する。
⑵ 日比谷公園の歴史
江戸時代まで 海(入江)だった。
江戸時代 開かれた跡は埋め立てたうえで大名屋敷となった。
明治~ 更地となり日比谷が原と呼ばれた。
1871年 陸軍訓練所
1885年 日比谷練兵場
1888年 練兵場が青山に移転
1893年 東京市が軍から払下げを受け、日比谷公園と命名された。日本人で一から新しく公園を作る初めての試みだった。日比谷公園の設計者の選出が難航。
1901年 本田静六の設計案が採用された
1902年 公園化工事着工
1903年 6月1日に開園。洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(後のパークセンター)、結婚式場高柳亭(現・日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現・レストランなんぶ)も営業開始。
1905年 野外音楽堂(野外小音楽堂)
1908年 東京市立日比谷図書館開館。7月11日の読売新聞「昨今夜の日比谷公園、堕落男女の野合場と化す。毎夜密行巡査十数人、醜行取締りに出動」
1923年 野外大音楽堂落成。その後関東大震災が発生したが、大音楽堂は無事だった。小音楽堂は倒壊、松本楼は焼失。
戦中 日比谷公園は軍用地となった。
戦後 日比谷第一生命ビルの近くで軍用地でもあった日比谷公園は、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の接収を受けた。松本楼は米軍宿舎として利用。
1950年 帝国ホテル内の植木屋芳梅園が日比谷公園に出店し、日比谷花壇となる。
1961年 大噴水が完成
1971年 沖縄返還運動により松本楼が全焼
2011年、都立日比谷図書館が千代田区立日比谷図書文化館となりました。
⑶ 本多静六
1866~1952年(享年85)。埼玉県久喜市菖蒲町に折原家の第6子として生まれる。折原家は代々名主役を務める裕福な農家だったが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、苦しい生活となった。半農半学で東京大学農学部に入学、主席で卒業、林学でドイツ留学(ドレスデンとミュンヘン)でドクトルの学位を取得、欧米視察をして帰国。日比谷公園を皮切りに全国さまざまな公園の設計に携わった。東京では明治神宮、東京駅丸の内駅前広場、行幸通りなど。ドイツ留学時代に後藤新平と知り合い、関東大震災後は後藤から原案を依頼され不眠不休で作成。
⑷ ホセ・リサール
1861~1896年(享年35)。フィリピンの革命家、医師、著作家、画家、学者。スペインからのフィリピン独立運動に取り組んだことから「国民的英雄」と称される。最後はスペイン(植民地政府)によって銃殺刑を処された。1988年に1か月ほど東京に滞在している。リサールを冠する地名が全国各地にあったり、紙幣の肖像になったり、軍艦の名前になったりしている。
⑸ 帝国ホテル(余談)
帝国ホテルもエピソードが豊富ですが、その中でも関東大震災に関する話です。近代建築の三大巨匠・フランク・ロイド・ライトが設計したライト館というのがありました。1919年着工で1923年に完成し、9月1日に落成記念披露宴が開かれる当日、11:58に関東大震災が東京を襲いました。周辺の多くの建物は倒壊や火災に見舞われる中、ライト館はほぼ無傷でした。1968年にライト館は閉鎖。玄関部分は愛知の明治村に移築されているようです。また東武ワールドスクウェアでは縮尺25分の1のミニチュアで在りし日のライト館全景を再現しているようです。フランク・ロイド・ライト設計の建築物は豊島区西池袋にある自由学園明日館で見ることができます。