嘉永3年(1850)の「四ツ谷絵図」は、現在の四谷、信濃町、若葉、須賀町、四谷三丁目周辺を描く尾張屋版江戸切絵図です。江戸城外堀の四谷見附から甲州街道を西へ進み、四谷大木戸へ至る地域に、武家屋敷、寺町、町人地、玉川上水が重なります。現在も残る坂や寺社、街道の線から、江戸西側の都市境界を読み解けます。
四ツ谷絵図の基本情報
国立国会図書館所蔵本は尾張屋清七刊、1850年の資料です。現在の新宿区四谷地域を中心に、千代田区麹町側から信濃町・内藤新宿方面へつながる範囲を描きます。新宿区史年表では、寛永13年(1636)に江戸城外堀の牛込―赤坂間が建設され、牛込・市谷・四谷の枡形石垣も整備されたことが記されています。

地図の見方――四谷見附から甲州街道を追う
最初の目印は江戸城外堀と四谷見附です。そこから西へ延びる甲州街道を追うと、町人地と武家地が交互に現れ、さらに四谷大木戸へつながります。現在の新宿通りとほぼ重なる道筋なので、現代地図との対応を取りやすい地域です。
白い武家地、灰色の町人地、赤い寺社を見分けると、街道沿いに商いの町があり、その背後に旗本・御家人屋敷や寺院が広がる構造が見えてきます。
四谷見附――江戸城外郭の西の門
四谷見附は江戸城外郭を守る枡形門の一つで、甲州街道から江戸中心部へ入る重要地点でした。現在の四ツ谷駅周辺には外濠の地形が残り、橋と線路が交差する景観にも城郭の輪郭が反映されています。
新宿区は、四谷が江戸時代から見附を持つ交通の要衝だったことを紹介しています。現在の四谷見附橋は近代の橋ですが、その場所は江戸の門と外濠を理解する手掛かりです。
四谷大木戸――江戸府内の西の境界
四谷大木戸は元和2年(1616)に設けられ、甲州道中を往来する人馬を検閲しました。現在の四谷四丁目交差点付近にあたり、ここから西へ進むと内藤新宿へ入ります。
四谷大木戸は城門そのものではなく、江戸府内の出入口を管理する施設でした。四谷見附から大木戸までの道を地図上で追うと、城郭の外側に市街地が伸び、その先で宿場と郊外へ切り替わる構造がわかります。
玉川上水――43キロ先から届いた江戸の飲み水
承応3年(1654)、玉川上水が羽村から四谷大木戸まで開通しました。新宿区によると、その距離は約43キロ。大木戸から先は石樋・木樋などの水道管を通して江戸市中へ配水されました。
大木戸には水番所が置かれ、水量や水質、異物の混入を監視しました。街道の境界施設と上水の管理施設が近接し、四谷が交通と生活インフラの両面で江戸を支える場所だったことがわかります。
寺町が広がった背景
寛永年間の外堀建設に伴い、麹町周辺の寺院が四谷・市谷へ多数移されました。さらに明暦3年(1657)の大火後も江戸中心部から寺院が移転し、四谷には寺町が形成されました。
現在の須賀町、若葉周辺に寺院が集中する景観は、この江戸初期の都市再編を引き継いでいます。切絵図では赤い寺社地が連なり、街道と武家地の間に寺町が入り込む様子を確認できます。
四谷怪談と於岩稲荷
四谷を代表する文化史の一つが、文政8年(1825)初演の鶴屋南北「東海道四谷怪談」です。新宿区によると、物語のモデルとされたお岩は実在した人物で、伝承上は夫婦仲が良く働き者でした。お岩が信仰した田宮稲荷神社が周囲の信仰を集め、後に歌舞伎の物語と結びつきました。
怪談の舞台として知られる四谷は、実際には下級武士の組屋敷や寺社が多い地域でした。文学作品のイメージと切絵図の土地利用を重ねると、物語が生まれた都市社会の背景まで見えてきます。
明治以降――外濠に鉄道が走る
明治以降、外濠沿いに鉄道が敷かれ、四ツ谷駅が開業しました。武家屋敷地は学校、住宅、公共施設へ変わり、赤坂離宮や上智大学など近代・現代の施設が周辺に整備されます。一方、甲州街道の軸、外濠、寺町、坂道は江戸の位置関係を残しました。
現在に残る江戸の痕跡
四谷見附の石垣、外濠、四谷大木戸跡、玉川上水水番所跡、寺町、於岩稲荷田宮神社などが現地で確認できます。四ツ谷駅から四谷三丁目へ新宿通りを歩くだけでも、城門、街道、上水、寺町という江戸の都市機能を順にたどれます。
関連する古地図:市ヶ谷牛込絵図では外濠を北へ、内藤新宿千駄ヶ谷絵図では四谷大木戸から甲州街道を西へ続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

