セガはなぜNVIDIAを救ったのか|ジェンスン・フアンと500万ドルの半導体史

2016年の台北国際電脳展で登壇するNVIDIA創業者ジェンスン・フアン

1990年代半ば、NVIDIA(エヌビディア)の共同創業者ジェンスン・フアンは、取引先のセガに、自社が選んだ3D描画方式では次世代家庭用ゲーム機向けプロジェクトを完成できないと伝えました。開発を続ければ技術競争に遅れ、中止すれば資金が尽きます。フアンは失敗を認め、計画中止と会社存続の支援を求めました。

セガ側の入交昭一郎いりまじり しょういちろうは、失敗した方式と、それを選んだ人々の能力を分けて考えました。セガは約500万ドルをNVIDIAへ追加投資し、その資金が同社に約半年の猶予を与えたと、フアンと入交は後年振り返っています。

セガとの契約、計画中止、約500万ドルの追加投資によって、NVIDIAは人材を維持し、三角形ポリゴンとDirect3Dに適合する技術へ切り替える時間を得ました。

30秒で分かる結論

  • 創業直後のNVIDIAは、セガAM2の先進的な3Dアーケードゲームを目標にしてセガへ接近しました。
  • NV1と、その延長にあったNV2計画は、曲面表現を重視する独自方式に賭けましたが、市場は三角形ポリゴンとDirect3Dへ収束しました。
  • NVIDIAはセガ向け計画を断念し、倒産寸前になります。セガの約500万ドルの追加投資が、技術転換に必要な時間を与えました。
  • その後のRIVA 128とGeForce 256の成功は、失敗を早く認め、規格・開発環境・市場に合わせて設計を変えた結果です。
  • NVIDIA製チップは市販版ドリームキャストには採用されていません。

セガとNVIDIAの関係年表

出来事歴史的意味
1992セガがMODEL 1と『バーチャレーシング』を展開アーケードでリアルタイム3D表現を先導
1993『バーチャファイター』登場。NVIDIA創業ゲームとPC用3D半導体の二つの流れが接近
1994フアンが鈴木裕、入交昭一郎を訪ねたと回想セガとNVIDIAの協力関係が始まる
1995NVIDIA初製品NV1統合型マルチメディア製品だが独自方式が普及を阻む
1990年代半ばNV2を含むサターン後継機向け計画が中止。セガが約500万ドルを追加投資NVIDIAが技術を転換する時間を得る
1997RIVA 128発売三角形とDirect3Dに沿った設計で市場に復帰
1999GeForce 256発売NVIDIAが「GPU」と定義した製品を投入
2026フアンがセガ、入交、鈴木への感謝を公に語る初期史を補強する本人証言

セガはどこから来た会社なのか

セガの源流は、1950年代初頭の業務用娯楽機器事業です。1957年にService Games Japanが設立され、1960年に日本娯楽物産が発足、1965年にセガ・エンタープライゼスへ改称しました。「SEGA」はService Gamesに由来します。セガはジュークボックスや『ペリスコープ』などの業務用機器と娯楽施設の運営を通じ、機械、映像、音、店舗運営を一体で扱っていました。

1983年7月15日、セガは初の家庭用ゲーム機SG-1000を発売し、その後メガドライブ、アーケード基板、1994年のセガサターンへ事業を広げました。家庭用ハードだけでなく、ゲームセンター向け高性能基板と作品制作を同じ企業内で結びつけていたことが、創業直後のNVIDIAを引きつけました。

1983年に発売されたセガ初の家庭用ゲーム機SG-1000
1983年に発売されたセガ初の家庭用ゲーム機SG-1000。撮影:Evan-Amos/Wikimedia Commons/Public Domain。

1990年代、最先端の3Dゲームはゲームセンターにあった

1990年代初頭、家庭用ゲーム機や一般的なPCより高価な演算装置を積めるゲームセンターは、リアルタイム3Dの実験場でした。セガは1992年に3Dポリゴン描画機能を持つアーケード基板MODEL 1を開発し、鈴木裕すずき ゆうが率いたセガAM2は『バーチャレーシング』を送り出します。翌1993年の『バーチャファイター』は、セガ公式史が「世界初の3D格闘ゲーム」と位置づける作品です。1994年にはMODEL 2を使った『デイトナUSA』が登場しました。

3Dゲームでは、車体や人物を多数の小さな面で組み立て、視点の変化に応じて座標を計算し、表面へ模様を貼り、毎秒何十回も画面を更新します。半導体、基板、ソフトウェア、アニメーション、ゲーム設計の総合力が問われました。フアンは後年、鈴木を作品だけでなく、この3D制作文化を築いた人物として評価しました。

創業直後のNVIDIAは、なぜセガを訪ねたのか

NVIDIAは1993年、ジェンスン・フアン、クリス・マラコウスキー、カーティス・プリームが創業しました。PCでゲームやマルチメディアを滑らかに扱うことを目標としました。当時のPC用3Dグラフィックス市場には統一された方式がなく、多くの企業が異なる技術を試していました。

フアンは2026年の講演で、1994年に来日して鈴木裕と入交昭一郎を訪ねたと回想しています。NVIDIAの開発陣は仕事中にもかかわらず毎日のように『デイトナUSA』を遊び、その滑らかな3D表現に衝撃を受けたと述べました。

1994年に日本で発売された初期型セガサターン本体
1994年に日本で発売された初期型セガサターン。撮影:Evan-Amos/Wikimedia Commons/Public Domain。

セガサターンは1994年11月22日に発売された製品で、NVIDIAが関わったのは、その後継機を検討する過程の一案です。

NV1とは何だったのか

1995年に登場したNV1は、NVIDIA初の製品です。Diamond Multimediaの「Diamond Edge 3D」などに搭載され、2D表示、3D表示、音声、ゲームコントローラー接続を一枚の拡張カードへまとめようとしました。セガサターン用コントローラーを接続でき、セガ作品のPC移植とも結びついたマルチメディア製品でした。

NV1の3D描画はquadratic texture mapping(QTM)を採用しました。二次曲面のパッチで曲面を表し、その面へテクスチャを貼る方式で、丸い物体を少ない部品で滑らかに見せられました。一方、開発ツール、既存ソフト、他社製品との互換性が弱く、価格も高くなりました。

NVIDIA初の製品NV1に使われたSGS-Thomson STG2000グラフィックスチップ
NVIDIA初の製品NV1に使われたSGS-Thomson STG2000。撮影:Trio3D/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

NV2とサターン後継機計画――NVIDIAが選んだ「間違った技術」

NV2はNV1の独自路線を発展させ、セガのサターン後継機候補へ向けて開発された次の計画です。フアンの回想によれば、開発開始から約9か月後、NVIDIAは自分たちの方式では計画を成功させられないと悟りました。

フアンは後年、NVIDIAが「forward texture mapping and curved surfaces」を選び、市場が向かったのは「inverse texture mapping and triangles」だったと説明しています。NVIDIAは曲面や四角形的な部品を重視する独自路線を選びましたが、業界は三角形を細かく組み合わせ、画面の各点から元のテクスチャ位置を求める方式へ収束しました。

三角形は三点で一つの平面が決まり、変形や補間を安定して扱いやすい利点があります。さらにMicrosoftのDirectXに含まれる3D用API、Direct3Dが三角形を中心に整備されると、開発ツール、ドライバー、ゲームエンジン、制作者の経験が同じ方向へ蓄積しました。独自方式は、性能だけでなく拡大するソフトウェア資産との不整合で不利になりました。

製品・計画時期主な特徴セガとの関係結果・意味
NV119952D・3D・音声を統合。QTM採用セガ作品のPC移植、サターン用端子独自性は高いが標準化競争で苦戦
NV21990年代半ばNV1系統の方式を発展サターン後継機計画の一案完成前に中止。技術転換の契機
RIVA 1281997三角形、Direct3D対応セガ資金が開発猶予を支えた4か月で100万個超を出荷
GeForce 2561999変換・照明処理を統合直接の採用関係ではないNVIDIAがGPUと定義した代表製品

「完成できない。それでも500万ドルが必要です」

技術の誤りが明らかになると、契約どおり開発を続ければ標準方式へ移る競合に遅れ、中止すれば契約収入を失って資金切れになります。フアンは入交昭一郎へ、計画を完成できないと伝え、会社存続の資金を求めました。

Wall Street Journalによる入交本人への取材では、入交がセガ社内を説得し、NVIDIAへの約500万ドルの追加投資を実現したと説明されています。フアンは、この資金がなければNVIDIAは倒産し、約半年の猶予も得られなかったと振り返っています。

500万ドルは、設計者を雇い続け、試作し、ドライバーを作り、顧客へ売り込む時間を確保しました。半導体企業は製品が売れる前に多額の設計費を必要とするため、数か月の資金差が再挑戦を可能にしました。

入交昭一郎は、なぜ失敗したNVIDIAを支援したのか

入交昭一郎いりまじり しょういちろうは、ホンダでエンジニアと経営者の両方を経験し、米国事業も率いた人物です。セガへ移った後、技術と事業の橋渡しを担いました。フアンは後年、「NVIDIAの技術は間違っていたが、入交さんはNVIDIAに正しい人材がいると理解した」と述べています。

フアンの説明では、入交は技術の誤りと人材の能力を分けて評価しました。入交本人も、NVIDIAを成功させたいと考え、追加投資のためにセガ社内を説得したと述べています。

主な登場人物

  • ジェンスン・フアン:NVIDIA共同創業者。技術判断の失敗を認め、撤退と資金支援を同時に求めた。
  • 入交昭一郎:ホンダ出身の技術者・経営者。セガ側でNVIDIAの人材と将来性を評価し、追加投資を実現した。
  • 鈴木裕:セガAM2を率い、3Dアーケードゲームの表現と制作手法を前進させた。
  • クリス・マラコウスキー、カーティス・プリーム:フアンとNVIDIAを創業し、初期の製品開発を担った。

RIVA 128からGeForceへ――セガの支援が買った時間

NVIDIAは独自の曲面路線を捨て、三角形ポリゴンとDirect3Dへ軸足を移しました。1996年にはDirectX向けドライバーを公表し、1997年にRIVA 128を発売します。NVIDIA公式社史によれば、RIVA 128は最初の4か月で100万個を超えて出荷されました。セガの資金は、失敗した設計を捨て、新設計を完成させる時間を支えました。

1999年のGeForce 256で、NVIDIAは「GPU」という呼称を前面に出しました。同社は、変換・照明・三角形のセットアップ/クリッピングと描画処理を一つのチップへ統合し、毎秒1000万ポリゴン以上を処理するもの、とGPUを定義しました。画像処理専用チップは以前から存在したため、NVIDIAはGPUという製品カテゴリーを明確に定義し、普及させたと位置づけられます。

1999年に登場したNVIDIA GeForce 256のグラフィックスチップ
1999年に登場したGeForce 256のGPU。撮影:Konstantin Lanzet/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

ゲーム向け3Dでは、多数の頂点や画素へ似た計算を同時に行います。この並列処理能力は、CUDAなどを経て科学計算や機械学習へ応用され、AI計算の基盤へ広がりました。

ドリームキャストにNVIDIAのチップは採用されたのか

結論は、採用されていません。NVIDIAはサターン後継機計画の一案に関わりましたが、市販版ドリームキャストのグラフィックスはNECが製造したVideoLogic系PowerVR2が担いました。CPUは日立製SH-4です。

フアンが2026年に「post-Saturn, which became Dreamcast」と述べたのは、サターン後継機を目指した計画系列を指します。NV2は複数あった次世代機案の一つで、市販版ドリームキャストには採用されませんでした。

セガは敗者で、NVIDIAだけが勝者だったのか

セガはアーケード3Dゲームの市場を作り、鈴木裕やセガAM2を中心に、リアルタイム3Dの表現、制作手法、人材を育てました。NVIDIAはその成果に学び、セガとの契約と資金によって生き延びました。

Wall Street Journalの取材によれば、セガは後に保有していたNVIDIA株を約1500万ドルで売却したと入交は述べています。当時のセガには家庭用機事業の損失や資金需要がありました。

約30年後、ジェンスン・フアンは何を語ったか

2026年の日本での講演で、フアンはセガ、入交昭一郎、鈴木裕へ改めて感謝を述べました。1994年に二人を訪ねたこと、セガAM2の作品に衝撃を受けたこと、約9か月で方式の誤りに気づいたこと、セガの資金がなければ倒産していたことを回想しています。

「NVIDIA had the wrong technology, Irimajiri-san realized NVIDIA had the right people」という言葉で、技術の誤りと組織の能力を分けて評価した入交の判断を説明しました。鈴木についても、3Dゲーム、3Dアニメーション、テクスチャマッピングの先駆者として称えました。これらはフアン本人の回想です。

この歴史が示すもの

NVIDIAは方式選択の誤りを認めてNV2を中止し、別方式で製品を作り直しました。セガの約500万ドルはRIVA 128の成功を保証したのではなく、人材が離散する前に技術を転換する時間を与えました。ゲーム向け3Dで蓄積した並列計算能力は、後にAI計算へ応用されました。

FAQ

セガは本当にNVIDIAを救ったのですか

フアン本人は、セガの資金がなければNVIDIAは倒産していたと回想しています。約500万ドルの追加投資が約半年の猶予を与え、RIVA 128へ向けた技術転換を可能にしたという意味で、「救った」と表現できます。

セガがNVIDIAへ出した500万ドルは何だったのですか

確認できる報道では、入交昭一郎がセガ社内を説得して実現した追加投資です。

NVIDIAのチップはドリームキャストに使われたのですか

使われていません。市販版ドリームキャストはSH-4 CPUとPowerVR2系グラフィックスを採用しました。NVIDIAはその前段階のサターン後継機計画の一案に関わりました。

NV1とNV2は何が違うのですか

NV1は1995年に市販されたNVIDIA初製品です。NV2はその方式を発展させた後続計画で、セガの次世代機候補向けに開発されましたが完成前に中止されました。

NVIDIAは本当にGPUを発明したのですか

NVIDIAは1999年のGeForce 256を「世界初のGPU」と位置づけ、GPUを具体的に定義しました。ただし画像処理専用チップはそれ以前から存在するため、客観的な意味で無条件に「最初」とするより、GPUというカテゴリーを定義し普及させた、と理解するのが適切です。

入交昭一郎とはどのような人物ですか

ホンダでエンジニア、経営者として経験を積み、米国事業も率いた後、セガで経営を担った人物です。NVIDIAの失敗した技術ではなく、人材と再挑戦の可能性を評価した判断で知られます。

まとめ

セガAM2が築いた3Dゲーム市場にNVIDIAが学び、NV1・NV2の失敗後、入交昭一郎が約500万ドルの追加投資を実現しました。NVIDIAはその猶予で三角形ポリゴンとDirect3Dへ転換し、RIVA 128とGeForceへ進みました。

参考文献

日本語・セガ公式資料

英語資料・本人証言・報道