正保年中江戸絵図とは?明暦の大火前・1640年代の江戸を読む

正保年中江戸絵図の江戸城と市街地周辺

正保しょうほう元年(1644)。関ヶ原の戦いから44年、江戸幕府の成立から41年。江戸城にはまだ巨大な天守が立ち、全国の大名と家臣が参勤交代で江戸と国元を往来していました。日本橋には商人や職人が集まり、川や堀には物資を積んだ舟が行き交います。

一方、隅田川を越えた東側には田畑や低湿地、村落が広がり、両国橋もまだありません。現在の東京からは想像しにくい江戸の姿を、一枚の巨大な地図が残しています。国立公文書館所蔵の「正保年中江戸絵図」です。

古地図そのものの見方は、古地図まるわかりガイド|江戸・明治の地図で東京の街歩きが楽しくなる入門で詳しく紹介しています。約200年後、幕末の江戸を地域別にたどる場合は、尾張屋版江戸切絵図 全29図の徹底案内で同じ土地の変化を比較できます。

正保年中江戸絵図とは――明暦の大火前の江戸を見る

国立公文書館の「正保年中江戸絵図」は、正保元年(1644)または2年(1645)ごろの江戸を描いたと推定される絵図です。現存する図そのものは嘉永6年(1853)の模写ですが、描かれているのは3代将軍・徳川家光の時代。東西約201センチ、南北約261センチという大型図です。

地図には江戸城、武家屋敷、町人地、寺社、道、川、堀、橋、田畑、丘陵が細かく描かれています。後に架けられる両国橋はなく、西本願寺は築地移転前、東本願寺も浅草移転前の位置にあります。明暦めいれき3年(1657)の大火より12~13年前の江戸を一望できることが、この地図の大きな価値です。

正保年中江戸絵図の全体像
正保年中江戸絵図(国立公文書館所蔵)

欄外の書き込みから地図の年代を絞り込む

正保年中江戸絵図の欄外にある年代考証の書き込み
正保年中江戸絵図の欄外にある年代考証の書き込み(国立公文書館所蔵)

地図の隅には、この絵図がいつの江戸を描いたものかを考証した書き込みがあります。読み下すと、おおよそ次の内容です。

「この江戸大絵図の年月は詳しく分からない。考えてみると、長松ながまつ君の御屋敷と越前宰相えちぜんさいしょうの屋敷が見える。長松君は正保元年(1644)5月24日に誕生し、越前宰相・松平忠昌まつだいらただまさは正保2年(1645)8月1日に亡くなった。したがって、正保元年中から正保2年7月ごろまでの絵図ではないだろうか」

長松は、のちの甲府藩主・徳川綱重です。屋敷に記された人物の生没年を手がかりに、地図の年代を絞り込んでいます。国立公文書館も、この図が正保元年または2年ごろの江戸を描いたものと推定しています。

まず知っておきたい、このころの江戸

1644年の江戸は、家康が江戸へ入ってから54年。城下町の建設は大きく進み、江戸城の総構えは家光の時代の寛永13年(1636)にほぼ完成していました。寛永15年(1638)に建てられた天守も健在です。

正保期には身分別人口を示す完全な統計がなく、規模は後年の数字から推し量ります。東京都立図書館は、1657年の明暦の大火時の人口を約30万人としています。正保期の江戸は、すでに数十万人が暮らす巨大都市へ成長していました。

身分別人口の後世の目安では、享保年間(1716~1736)の町人人口が50万人を超え、武家なども同程度と見込まれています。江戸東京博物館は18世紀初頭の総人口を100万人超と推定しています。武家地が江戸の土地の約7割を占めたことと、人口の約7割が武士だったという意味は異なります。広い武家屋敷と、高密度に人が暮らす町人地が並ぶ都市でした。

江戸の大きな特徴は武士の多さです。江戸城の周囲には大名屋敷や旗本・御家人の屋敷が広がり、その外側や間を埋めるように町人地と寺社地がありました。日本橋では商業が発達し、魚市場も開かれています。現在の東京の原型ができつつある一方、少し外へ出れば田畑や村落が続いていました。

地図の色には意味がある――正保江戸図の凡例

正保年中江戸絵図は、土地や施設を色で描き分けています。地図の隅には、その色の意味を記した凡例があります。

正保年中江戸絵図の凡例
正保年中江戸絵図の凡例(国立公文書館所蔵)

凡例の文は、現代語にすると「緑は丘または林、赤は橋、ねずみ色は田、黄は道、青は水」という意味です。原文では青を「水」と記していますが、地図では海・川・堀が青で塗られています。

表しているもの
海・川・堀
ねずみ色
丘・林

この色分けだけでも、密集した市街地がどこで終わり、田畑や丘陵へ変わるのかが分かります。青く塗られた川や堀は都市を区切る境界であると同時に、人と物を運ぶ交通路でもありました。

江戸の町はどこまで広がっていたのか

正保期の江戸は、市街から近郊へ段階的に移り変わっていました。幕府が御府内の範囲を朱線で統一的に示すのは、約170年後の文政元年(1818)です。

正保江戸図の土地利用を見ると、都市的な空間は大づかみに、東は隅田川西岸、北は浅草・上野・本郷、西は牛込・市谷・四谷、南は芝・三田付近まで広がっていました。その先では武家地や町人地の密度が下がり、駒込、角筈、淀橋などの村落や田畑が目立つようになります。

正保江戸図の描画範囲は江戸近郊まで広がっています。中心部から外へ目を移すと、都市が農村へ連続的に変わる様子まで読み取れます。

隅田川の東側に広がっていた農村・湿地・新田

現在は両国、本所、向島、深川まで市街地が連続していますが、正保期の隅田川東岸は様相が大きく異なります。向島方面には農村と田畑があり、本所方面には村落や低湿地が広がっていました。深川方面では新田開発が進み、河口部には漁業に関わる集落もありました。

ちょうど正保元年(1644)には、摂津国せっつのくにの佃村などから来た漁師たちが、鉄砲洲沖の干潟を埋め立てて佃島つくだじまを築いたと伝わります。翌1645年には、対岸との「佃の渡し」も始まりました。現在の佃の町は、この地図が描く時代とほぼ同時に生まれています。

後世の本所に広がる大規模な武家屋敷街は、1657年の明暦の大火後に形成されます。本所・深川の本格的な都市化も、この復興事業から進みました。

13年後、明暦の大火で江戸は大きく変わる

明暦3年(1657)1月18日から20日にかけて大火が江戸を襲いました。東京都立図書館は、都市部の約6割が焼失したと説明しています。江戸城の天守も焼失し、これが最後の江戸城天守となりました。

復興では、大名屋敷や寺社の移転、火除地や広小路の設置が進み、市街地は外側へ広がります。本所・深川の開発が本格化し、隅田川には両国橋が架けられました。正保年中江戸絵図に残るのは、その大改造前の江戸です。

1644年の江戸には「もうあるもの」「まだないもの」

現代につながるものと、後世の「大江戸」を象徴するものが同居する直前の時代です。1644年の時間感覚を、身近な場所や制度で比べると分かりやすくなります。

1644年に、もうあるもの

  • 江戸城の寛永度天守:寛永15年(1638)に完成した天守が、正保元年(1644)には江戸城本丸に立っていました。明暦3年(1657)の大火で焼失し、その後は再建されていません。
  • 日本橋と魚市場:日本橋は慶長8年(1603)に架けられ、元和2年(1616)には本小田原町、現在の日本橋室町一丁目付近に魚市場が開かれました。日本橋魚河岸は関東大震災まで東京の魚市場の中心で、震災後に機能が築地へ移り、昭和10年(1935)に築地市場が開場しました。
  • 参勤交代:家光が寛永12年(1635)の武家諸法度で制度として明文化しました。1644年には、大名と家臣団が江戸と国元を往復し、江戸に藩邸を構える仕組みがすでに定着していました。
  • 銀座:慶長17年(1612)、駿府の銀貨鋳造所が現在の銀座二丁目付近へ移されました。正保期には「銀座」が実際に銀を扱う役所・鋳造組織の名でした。寛政12年(1800)に銀座役所は日本橋蛎殻町へ移転しましたが、「銀座」の名は土地に残りました。
  • 歌舞伎の興行:江戸最初の歌舞伎興行は寛永元年(1624)、中橋南地で始まった猿若座とされます。正保元年には江戸歌舞伎の興行開始から約20年が経ち、のちの芝居町につながる文化がすでに育っていました。
  • 人形町付近の吉原:幕府公許の吉原は元和3年(1617)、現在の日本橋人形町付近に開設されました。正保期にはここが吉原です。明暦の大火を契機に1657年、浅草千束へ移転し、旧地は「元吉原」、移転先は「新吉原」と呼ばれるようになりました。
  • 神田上水:神田上水は寛永末年ごろまでには完成していたと考えられ、1644年の江戸ではすでに主要な上水として使われていました。玉川上水とともに明治まで東京の水道を支え、近代水道の整備に伴って役割を終えました。
  • 佃島:正保元年(1644)、摂津国佃村などから来た漁師たちが隅田川河口の干潟を埋め立てて築いたと伝わります。翌1645年には佃の渡しが始まり、渡船は佃大橋が完成する昭和39年(1964)まで続きました。

1644年には、まだないもの

  • 両国橋:正保江戸図にはまだありません。明暦の大火後に架橋工事が進み、万治2年(1659)に完成しました。隅田川東岸の本所開発を進めるうえでも重要な橋となります。
  • 玉川上水:幕府が計画を始めるのは承応元年(1652)で、完成は承応3年(1654)です。正保期の江戸では、まだ神田上水などが給水を担っていました。
  • 浅草の新吉原:1644年の吉原は人形町付近にあります。浅草千束に新吉原が成立するのは明暦の大火が起きた1657年です。
  • 本所の大規模な武家屋敷街:隅田川東岸の本所で本格的な開発が始まるのは万治2年(1659)ごろです。竪川・横川などの掘割と道路が整備され、旗本や御家人の屋敷が広がっていきます。
  • 越後屋:三越の前身となる越後屋は延宝元年(1673)、江戸本町で開店しました。現在の日本橋三越本店につながる駿河町の店へ移るのは天和3年(1683)。正保期にはまだ存在していません。
  • 江戸前の握り寿司:現在につながる握り寿司が江戸で広まるのは文化・文政期で、江戸東京博物館は文政3年(1820)ごろを一つの目安として紹介しています。正保期から約175年後です。
  • 明暦の大火後に整備された広小路・火除地:1657年の大火後、幕府は延焼を防ぐため大名屋敷や寺社を移転し、広小路や火除地を設けました。正保江戸図は、この防火都市計画が始まる前の江戸を描いています。
  • 大火後に拡大した本所・深川の市街:深川には正保期にも新田や村落、漁業集落がありましたが、明暦の大火後に江戸市街の受け皿として開発が加速しました。本所では1659年から本格的な町づくりが始まります。

徳川家光の時代――誰が幕府を動かしていたのか

正保元年の将軍は3代・徳川家光です。関ヶ原や大坂の陣を経験した創業期から一世代が過ぎ、幕府の全国支配を制度として固める段階に入っていました。

家光を実務面で支えた代表的人物が、老中の松平信綱まつだいら のぶつなです。幼少期から家光に近侍し、寛永10年(1633)に老中となりました。頭脳明晰で「知恵伊豆」と呼ばれ、島原の乱の収拾など幕政の中枢を担います。

大老の酒井忠勝さかい ただかつも家光政権の重鎮でした。寛永15年(1638)に大老となり、老中たちの上に立つ立場で政務に関わっています。学問・編纂の面では林羅山はやし らざんがおり、正保元年には家光から国史編纂を命じられました。

同じ正保元年、幕府は諸大名に国絵図や城絵図などの作成を命じています。土地、城、道、村、石高などを地図や帳簿で把握する動きが進んだ時代でした。正保江戸図が現れる時期は、幕府が全国の空間情報を体系的に集めていた時期とも重なります。

家光を含む歴代将軍と幕政中枢の関係は、徳川15代将軍と右腕たちで読む江戸時代で時代順にまとめています。

参勤交代がつくった「武士の都市・江戸」

家光は寛永12年(1635)の武家諸法度ぶけしょはっと改定で参勤交代を制度として明文化しました。正保江戸図の時代には、大名が江戸と国元を往復し、江戸に藩邸を構える仕組みがすでに定着しています。

大名の移動には家臣や奉公人も伴い、大名家の集団が江戸で暮らしました。将軍直属の旗本・御家人も多数居住しました。江戸東京博物館は、都市江戸の土地利用の特徴として武家地が約7割を占めたと紹介し、江戸を「武都」と表現しています。

大勢の武士が暮らせば、米、魚、塩、薪、衣類、道具、建築資材が必要になります。その需要を満たす商人や職人も江戸へ集まりました。参勤交代は政治制度であると同時に、江戸の人口と消費を膨らませる仕組みでもありました。

男性の比率が高いことも江戸の特徴でした。東京都立図書館は、諸大名の江戸詰めや参勤交代の要員の多くが男性で、商家の奉公人にも独身男性が多かったことを、江戸の外食文化が発達した背景として紹介しています。

江戸を支えた川と舟――水路が担った物流網

正保江戸図で青く描かれた川や堀は、江戸の物流を支える幹線でした。大量の米、塩、薪、木材などを運ぶには舟運が欠かせません。数十万人が住む都市を維持する物資が、水路を通って毎日江戸へ入ってきました。

隅田川の東では、小名木川おなぎがわがすでに開かれていました。東京都建設局は、家康の江戸入城後、米や塩などの生活必需品を運ぶ輸送路として開かれたと説明しています。市街化が本格化する前から、東岸には江戸を支える物流の水路が通っていたのです。

関東平野そのものも改造の途中でした。伊奈忠治いな ただはるら伊奈氏は治水と新田開発を進め、1629年には荒川の流路を付け替える「荒川の西遷」が行われています。利根川を東へ移す工事は1594年から続き、利根川の水が銚子から太平洋へ流れる大きな転換は1654年。正保江戸図は、この巨大な河川改修がまだ進行していた時期の江戸を描いています。

江東の運河と舟運については、横十間川の歴史と和船乗船体験|江戸の運河を歩く歴史散歩ガイドでも、小名木川や江戸の水運とあわせて紹介しています。

正保年間、日本では何が起きていたのか

正保は1644年から1648年初めまでの短い元号です。前後の出来事を並べると、この地図がどの時点の江戸を切り取ったものかが分かります。

主な出来事
1635年家光が武家諸法度を改定し、参勤交代を制度化
1636年江戸城の総構えがほぼ完成
1637~1638年島原・天草一揆
1638年江戸城の寛永度天守が完成
1641年オランダ商館が平戸から長崎・出島へ移る
1644年正保元年。幕府が諸大名に国絵図・城絵図などの作成を命じる。佃島が築かれたと伝わる
1644~1645年ごろ正保年中江戸絵図が描く江戸
1651年徳川家光が死去。家綱が4代将軍となる
1654年玉川上水が完成。利根川東遷でも大きな転換
1657年明暦の大火。江戸城天守焼失、本所・深川などへ都市が拡大

江戸はすでに巨大な政治・消費都市でしたが、後世の「大江戸」を形づくる施設や市街地の多くはまだ途上にありました。正保年中江戸絵図には、その変化の直前にある江戸の輪郭が残されています。

参考資料