江戸~明治に栄えた吉原エリアを古地図をみながら散策

新吉原の鳥観図。北東から南西を望む。
上記地図の一部拡大。大門、五十間道、高札、見返りや柳がわかる。
大正時代の地図の抜粋。水色の角囲いが新吉原。右の丸囲いが山谷堀公園があるところ。左の浅草公園にある丸囲いで浅草神社、浅草寺(観音堂)、浅草十二階(凌雲閣)があるのがわかる。
明暦の大火(1657)前の江戸の地図の抜粋。赤丸囲いが元吉原があった場所。現在の人形町駅付近。
上記地図の一部を拡大。 赤丸囲いの左から日本橋、元吉原、移転する前の西本願寺(現在の築地本願寺と御蔵(現在の蔵前)
明暦の大火まで元吉原があった現在の場所(人形町付近)

以下の項目が今回いくところです。それぞれGoogleマップのリンクが埋め込まれています。

(Wikipediaの要約)
山谷堀は江戸初期に荒川の氾濫を防ぐためにつくられた水路。箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが山谷堀公園として整備されている。

江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だったが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退しており、山谷堀も埋め立てが始まっていた。戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられた。

水源は石神井用水(音無川)である。水流は根岸から三ノ輪を通って、隅田川まで続いていた。埋め立てられる前の山谷堀には9つの橋があった。

  1. 今戸橋
  2. 聖天橋
  3. 吉野橋
  4. 正法寺橋
  5. 山谷堀橋
  6. 紙洗橋
  7. 地方新橋
  8. 地方橋
  9. 日本堤橋

(Wikipediaの要約)

本龍院は、東京都台東区浅草にある聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。山号は待乳山。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称される。この寺には浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。

この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある。東京で一番低い山(標高10m)の上にあり、スロープカーが整備されている。

上記①で登場。猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。江戸市中の河川で使われたが、浅草山谷にあった吉原遊廓に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。速度が速く、狭い河川でも動きやすかった。

紙洗橋の名前は、この付近で作られていた浅草紙に由来する。浅草紙は、古紙や紙くずを原料にした漉返紙(ちり紙)で、吉原の遊女が手紙の代用や後始末に使い大量の需要があった。山谷堀にも多くの作業所があり、職人たちが紙くずを紙舟に入れて堀の流れに曝しておくことを「冷やかす」とよんだ。この2時間ばかりの作業中は暇をもてあまして吉原の遊郭を見にでかけ、しかし時間がなくて登楼せずに帰ってしまうことから、買う気のない客を表す隠語として冷やかしという言葉が生まれたという。

余談:江戸前の名産「浅草海苔」は徳川家康が江戸入りした頃は浅草で採れたものを売っていましたが、埋め立てなどで浅草で採れなくなってからは、品川・大森界隈で養殖したものを浅草に運ぶようになった。大森村の野口六郎左衛門が海苔簀(のりす)(生海苔をつけて乾燥して板海苔にする簀)を使い、海藻を紙のように漉いて四角く整え乾燥海苔(板海苔)を生み出した。その大森も埋め立てられてしまったが大森海苔のふるさと館やいくつかの海苔問屋が残る。

見返り柳(みかえりやなぎ)は、遊廓の入り口付近に生えた柳の名称。遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名が付いた。伊豆諸島の新島にも見返り柳はあるが、これは刑が執行される直前に罪人が刑場近くにある柳のあたりで振り返ったことからこう呼ばれた。

幕末の吉原の地図(1846)
上記地図の一部拡大。大門、五十間道、高札、見返りや柳がわかる。
新吉原大門の浮世絵。

江戸新吉原遊郭を囲む遊女の逃亡を防ぐために設けたみぞ。大どぶ。遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところからこのように呼ばれた。

旧浅草新吉原揚屋町(あげやちょう)
元和三年(1617)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。 遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは「葭原(よしわら)」と呼ばれた。そして寛永三年(1626)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(1656)になると町奉行から、 吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。 揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあったいくつかの揚屋を一カ所にまとめたときである。

江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在 していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。

遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廊楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年(1923)の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、49人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビルの建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。だけどIT系会社員。美術館とお笑いが好き。海外旅行は年に6回行ってたがこのサークルをはじめから減少。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いお出かけイベントを企画している。

なかまつをフォローする
イベント