太平洋戦争末期、東京への空襲が現実的な脅威となるなか、日本陸軍は軍と政府の中枢機能を長野県松代へ移す計画を進めました。
そのために造られたのが、現在「松代大本営」と呼ばれる巨大な地下壕群です。
地下壕は象山、舞鶴山、皆神山に碁盤の目のように掘られ、総延長は10km余り。1944年11月11日から1945年8月15日まで約9か月の突貫工事が続き、長野市によると全工程の約8割まで完成していました。
移転対象には大本営、政府機関、天皇に関わる施設などが含まれ、日本の戦争指導中枢を松代へ移すことが想定されていました。

そもそも「大本営」とは?
大本営は、戦時に天皇のもとで陸海軍の最高統帥機関として置かれた組織です。太平洋戦争中、大本営陸軍部・海軍部は東京の宮中に置かれていました。
松代への移転計画は、軍中枢に加えて政府各省や天皇に関わる施設を本土決戦に備えて移す大規模な計画でした。「首都移転」と表現されることもありますが、現在の行政区分上の首都移転とは性格が異なります。
なぜ松代が選ばれたのか
松代への移転計画が具体化した背景には、1944年の急速な戦局悪化がありました。サイパン島の失陥でB-29による日本本土への長距離爆撃が現実化し、東京に集中していた大本営・政府中枢を空襲から守りながら、本土決戦時にも指揮を継続できる場所が必要になりました。長野市公文書館は、「絶対国防圏」を維持できなくなり東京空襲の可能性が高まるなかで、陸軍が大本営の松代移転を進めたと整理しています。
長野市誌は、計画に関わった陸軍関係者の証言として、松代が選ばれた理由を六つに整理しています。①本州中央部で海岸線から遠い、②前面に川中島平があり近くに飛行場がある、③山地の岩盤が硬く大規模爆撃への防護が期待できる、④工事に投入できる労働力を確保しやすい、⑤防諜上秘密を守りやすい、⑥信州という土地に対する精神的・象徴的評価、というものです。
この六項目は後年の関係者証言をもとにした説明で、すべてが当時の正式な選定文書に列挙されているわけではありません。一方、現在の長野市公式案内でも、松代が堅い岩盤地帯で海岸線から遠く、要害の地であったことは建設地の特徴として挙げられています。軍事的に見ると、空襲を受けやすい首都圏から距離を取りながら、鉄道・道路・飛行場を使って中央との連絡を維持できる内陸盆地だったことが重要でした。
工事は「東部軍マ(10・4)工事」という秘密工事だった
1944年10月4日、小磯国昭内閣の陸軍大臣・杉山元は大本営建設を命じました。長野市公文書館が紹介する当時の資料では、この工事は「東部軍マ(10・4)工事」と呼ばれています。
最初の発破は11月11日に行われ、1945年8月15日まで約9か月にわたって工事が続きました。終戦時には全工程の約8割が完成していたと長野市は説明しています。
地下壕は象山・舞鶴山・皆神山に分かれていた
松代大本営は一つの巨大トンネルではありません。象山・舞鶴山・皆神山という三つの山に独立した地下壕を掘り、地上施設も組み合わせて中枢機能を分散させる計画でした。当時は秘匿のため、象山を「イ号倉庫」、舞鶴山を「ロ号倉庫」、皆神山を「ハ号倉庫」と呼ぶ資料があります。
『長野市誌』は計画上の機能を、象山に政府の一部・日本放送協会・中央電話局など、舞鶴山に大本営作戦室と天皇・皇后の仮皇居、皆神山に食料庫と整理しています。計画延長は象山約5,900m、舞鶴山約2,600m、皆神山約1,900mで、合計約10km余りです。現在の測量・案内値とは端数が異なるため、これらは戦時中の計画・後世の整理値として見る必要があります。
象山地下壕|政府・通信機能を収容する「イ号倉庫」
象山地下壕は三地区の中で最大規模です。長野市の現在の施設資料では総延長5,853m、そのうち519mが一般公開されています。戦時計画では政府機関の一部に加え、日本放送協会や中央電話局など、戦争指導を継続するための行政・情報通信機能を収容する想定でした。
政府各省を移すだけでは戦争指導は成り立ちません。東京や各方面軍との連絡、海外向け放送、電話・電信を維持する設備も必要です。象山に通信関係機能が計画されたことは、松代が単なる「避難場所」ではなく、国家中枢を動かし続けるための代替拠点として構想されたことを示します。
舞鶴山地下壕|大本営作戦室と仮皇居を置く「ロ号倉庫」
舞鶴山は計画の中心部でした。地下には大本営作戦室など軍の最高指揮機能を置き、地上には天皇・皇后の御座所を想定した堅固な庁舎が建設されました。地下壕だけでなく、軍事指揮と宮中機能を一体で移すための地上・地下複合施設だった点が重要です。
現在この一帯は気象庁松代地震観測所として使われています。天皇御座所予定地跡は建物の外から見学でき、室内は非公開です。大本営のために掘られた坑道は戦後、精密地震観測という全く異なる用途へ転用されました。
皆神山地下壕|補給を支える「ハ号倉庫」
皆神山地下壕は、長野市誌では食料庫を中心とする補給施設として計画されたと整理されています。指揮所だけを地下へ移しても、食料・資材・生活物資がなければ長期の戦争指導は続けられません。皆神山は、松代計画が作戦室だけでなく、国家中枢を継続運用するための後方機能まで含んでいたことを示す施設です。
ただし、三地区の細かな予定用途や「倉庫」の名称は資料ごとに表現差があります。終戦前に計画が変更された部分もあるため、現在確認できる坑道の各区画に特定の省庁名や機能を一対一で割り当てることは避け、計画資料で確認できる範囲と現存遺構を分けて見る必要があります。
地下壕はどうやって造られた?
象山地下壕の坑道は岩盤を直接掘り抜いて造られました。工事では発破で岩盤を砕き、石くずを坑外へ運び出し、資材を搬入する作業が繰り返されました。
一般公開区間には、工事用トロッコの枕木が置かれていた跡も残っています。

長野市公文書館に残る「勤労報国隊」の受入要綱には、坑内の石くず搬出や材料運搬が具体的な作業として記録されています。勤務には3交代制と2交代制がありました。
鉄道・電力・用地買収まで含む巨大工事だった
10km規模の地下壕を9か月で掘るには、坑内作業だけでなく大量の資材・電力・宿舎を準備する必要がありました。『長野市誌』によると、工事資材は国鉄各線から屋代駅へ集められ、長野電鉄を経て松代駅へ運ばれました。現場近くの開善寺前には製材所や鉄工所が設けられ、自動車で資材を各工区へ運び込みました。
長野市公文書館が確認した清野村役場文書では、1944年10月から軍事施設用地の買収手続きが始まり、1945年5月までに田・畑・桑園・山林・原野を合わせて約51haが買収されました。さらに東福寺村小森、清野村などでは最大35,000Vを送る特約電線路の測量・建設が進められています。地下壕そのものだけでなく、送電線、道路、作業場、飯場、資材置場を含む大規模な建設事業でした。
1944年12月の勤労報国隊受入協議には、東部軍だけでなく運輸通信省松代建設隊と西松組松代作業隊が参加しました。公文書に施工主体の名称が残ることで、秘密工事が軍の命令だけで進んだのではなく、官庁、建設業者、地方行政、鉄道・電力などを組み合わせた総力戦型の事業だったことが具体的に分かります。
日本人の勤労動員はどのように行われた?
松代大本営建設では、周辺地域から多数の人々が動員されました。
長野市公文書館が確認した資料では、1944年11月、篠ノ井国民勤労動員署が町村長らに対し、「東部軍マ(10・4)工事」に備えて労務者を選抜・編成するよう通知しています。
予定されていた動員期間は12月10日から翌年4月30日までで、要員の概数は1日1,500人とされていました。12月には周辺町村の勤労報国隊支部長が松代町公会堂に集められ、工事への動員方法が協議されています。
地元の人々は坑内の石くず搬出や資材運搬などを担当し、自治体文書には村ごとの割当や動員日程も残っています。
動員は地域ごとに割り当てられました。大岡村では第1次から第11次まで合計52人の割当が通知され、出頭者には「国民勤労報国隊協力令書」が交付されました。公文書館資料では、実際の村からの動員は40人で、1945年6月21日まで続いたことが確認されています。数字を追うと、「地元住民が動員された」という一般論だけでなく、町村行政を通じて個人単位の労働力が工事へ組み込まれていった仕組みが見えてきます。
一方、1945年1月には地元勤労報国隊の動員延期が通知され、その理由として朝鮮人労務者の新規移入と、地元労働力を食糧増産へ振り向けることが示されました。松代大本営工事の労働力は固定的ではなく、工事の進行、食糧生産、外部からの労働者移入に応じて組み替えられていました。
朝鮮人労働者は何人いた?「約7,000人」は確定値ではない
長野市の現在の案内では、多くの朝鮮人と日本人が強制的に動員されたといわれる一方、当時の関係資料が限られており、「必ずしも全てが強制的ではなかった」などさまざまな見解があることも明記されています。
長野市誌には、国内にいた朝鮮人労働者と朝鮮半島から連れて来られた人々を合わせ、多いときには約7,000人とする記述があります。長野市公文書館が後年、地元に残った役場文書を再検証した資料では、「史料が乏しく、その全体像を把握することはきわめて困難」としています。
終戦直後の記録では、清野村で1945年11月までに帰国した朝鮮人が707人、帰国希望者が1,743人と記録されています。豊栄村にも1946年1月時点で550人がいました。
これらの数字は、その時点で村に在住・帰国した人を記録したもので、松代大本営建設に従事した朝鮮人の総人数とは集計対象が異なります。長野市誌の「約7,000人」は、史料が限られる中で示された記述の一つとして扱う必要があります。
地下壕は完成して使われたのか?
長野市は、終戦時に全工程のおよそ8割が完成していたとしています。ただし「8割完成」は、10km余りの坑道の掘削や施設建設を含む工事全体の進捗を表す概括値であり、国家中枢が移転して直ちに作戦指揮を始められる状態まで全設備が整っていたことを意味しません。
1945年1月、大本営が本土決戦準備を本格化すると、松代工事も次の段階へ進みました。『長野市誌』によると、東部軍は3月23日に第二期工事「マ三・二三工事」に入り、舞鶴山で大本営作戦室の整備と仮皇居建設を進めました。4月からは周辺の西条村で124世帯・600人余りが短期間に移転させられ、軍中枢と天皇の移動を前提とした地上施設の建設空間が確保されました。
6月には阿南惟幾陸軍大臣らが工事の進捗を視察しました。陸軍側の計画を知った木戸幸一内大臣も侍従を松代へ派遣し、三種の神器を安置する賢所を仮皇居とは別に設ける案が示されます。7月には弘法山山麓でその建設が始まりましたが、完成には至りませんでした。
さらに長野市誌は、ポツダム宣言後、木戸内大臣が国体護持のため昭和天皇に松代への移動を勧め、7月末には天皇も同意したと記しています。天皇・皇后を護送する車両が用意され、通信隊も松代・須坂へ派遣されていました。つまり松代移転は単なる机上計画の段階を越え、1945年夏には人員・通信・御座所を実際に動かす直前まで準備が進んでいました。
しかし大本営・政府各省を全面移転し、松代から戦争を指揮する体制が実現する前に日本は降伏しました。8月15日の終戦を受け、東部軍は翌16日に松代関係の全工事を中止しました。松代大本営は「完成した巨大司令部」ではなく、国家中枢の移転準備が実行段階まで進みながら、運用開始前に戦争が終わった施設として理解するのが正確です。
戦後、舞鶴山地下壕は地震観測所になった
終戦後、松代大本営は連合国軍の調査対象になりました。『長野市誌』によると、進駐軍は地下壕の実態を調べて写真を撮影し、旧東部軍にも報告を求めました。秘密工事として造られた施設は、敗戦とともに占領軍が把握すべき旧日本軍施設へ立場を変えました。
その後、舞鶴山に造られた地下坑道の一部は地震観測に活用されます。気象庁の沿革では、1947年5月1日に中央気象台松代分室が設置され、1948年2月13日に中央気象台松代地震観測所へ改称されました。1949年にはウィヘルト地震計、ガリッチン地震計などによる観測が始まり、軍事施設だった地下空間が精密観測施設へ転用されていきました。

気象庁は、松代が本州中央部の内陸にあるため海の波によるノイズが小さく、地下坑道は人為的な雑振動が少ないこと、年間を通して気温が安定していることを挙げています。
1965年には松代群発地震が始まり、松代地震観測所は地震研究・監視の拠点となりました。1980年代には松代周辺の直径約10kmの範囲へ8観測点を配置する群列地震観測システムが整備され、松代の観測点では大坑道内部に短周期地震計、周辺7地点では地表雑振動を避けるため地下40~70mに地震計を設置しました。気象庁のシステム解説では1983年に運用開始、沿革表では1984年4月1日に運用開始と記載されており、公式ページ間で年次表記に差があります。
8地点で記録した地震波の到達時刻差から到来方向と距離を求め、振幅から地震規模を推定します。松代周辺の微小地震だけでなく、一定規模以上であれば遠地地震の震源決定にも利用できる観測網です。戦争末期に爆撃から国家中枢を守るため掘られた坑道が、戦後には地表の雑振動を避けて微弱な地震波を測るための環境として利用され続けています。
天皇の御座所予定地は現在どうなっている?
舞鶴山の気象庁松代地震観測所には、天皇の御座所として使用する予定だった施設が残っています。
気象庁松代地震観測所では、庁舎外部から天皇御座所予定地跡を含む施設を自由に見学できます。御座所予定地の室内は非公開です。
なぜ象山地下壕だけ一般公開されている?
長野市の資料によると、1980年代半ばごろから地下壕の保存・公開を求める運動が本格化しました。1986年には松代象山地下壕検討委員会、1988年には保存等対策委員会が発足します。
1989年11月に西条口から70mが臨時公開され、1990年8月には519mへ公開区間が広がりました。現在の公開範囲も519mです。
松代大本営は国指定史跡なの?
2026年現在、松代大本営の国の史跡指定は今後の検討事項です。
長野市は、松代大本営地下壕が国策として建設された施設であるため、国が責任を持って評価・位置付けを明らかにすべきだという立場を示しています。2024年12月の市長会見では、文化庁が2003年に実施した近代遺跡詳細調査の報告書刊行を待ち、国の評価・位置付けが示された場合に史跡指定を含めて検討すると説明しています。
象山地下壕は安全対策を施し、できるだけ現状を変えずに保存しながら一般公開されています。
現在、象山地下壕は見学できる?
象山地下壕は一般公開されています。2026年3月16日更新の長野市公式案内では、次のようになっています。
| 項目 | 内容 |
| 公開時間 | 9:00~16:00 |
| 最終入壕 | 15:30まで |
| 料金 | 無料 |
| 予約 | 不要 |
| 休壕日 | 毎月第3火曜日、12月29日~1月3日など |
| 公開区間 | 約519m |
| ヘルメット | 着用必須・入口で貸出 |
| 所要時間 | 個人差あり。約500mの坑道を往復して見学 |

坑内には段差、傾斜、濡れた箇所などがあります。長野市は歩きやすい靴での見学を案内しています。
車いすでの入壕も可能ですが、入口付近に急な傾斜があるため介助者が必要です。休壕日や臨時休壕は変更される場合があるため、訪問前に長野市公式ページの最新情報を確認してください。
見学するときに注目したいポイント
坑道が碁盤の目状に延びている
象山地下壕だけで総延長5,853m、松代全体では10km余りです。公開区間519mは施設全体の一部です。
岩盤そのものを見る
壁や天井には、岩盤を掘削して造られた坑道の形が残っています。
トロッコの痕跡を見る
坑道には工事用トロッコの枕木跡が残っています。石くずの搬出や資材搬入にトロッコが使われた工事の痕跡です。
何がここへ移る予定だったかを考える
松代へ移す予定だったのは、大本営や政府機関など東京にあった国家の戦争指導中枢です。地下壕の規模だけでなく、移転対象そのものが松代大本営の特徴です。
全国の地下壕と比べると何が特別?
太平洋戦争末期には日本各地で大規模な地下施設が造られました。
全国の地下壕・地下軍事施設のうち、日吉台地下壕は連合艦隊司令部として実際に使われ、八幡山特殊地下壕と屯鶴峯地下壕は本土決戦期の地下司令部として建設されました。
松代大本営では、大本営・政府機関など国家の戦争指導中枢を大規模に移すことが計画されました。特定の工場や一部隊の地下化とは用途が異なります。
