東京で和歌山県を探す|熊野・高野山・紀州徳川家から陸奥宗光・川端龍子まで

江戸後期の御江戸番町絵図

東京の町を歩くと、和歌山の歴史は意外な場所から顔を出します。新宿の熊野神社、北区の王子、高輪の高野山、紀尾井町の大名屋敷跡、飛鳥山の桜、増上寺の将軍墓所、旧古河庭園、神田駿河台の学校建築、大田区の美術館、新宿若松町の道場。時代も場所も離れていますが、一本の流れとしてたどることができます。

和歌山と東京の関係は、江戸時代の紀州徳川家から始まるものではありません。中世の熊野信仰が東京の地名に残り、江戸では紀州藩の屋敷と高野山の在番所が置かれ、紀州徳川家から二人の将軍が出ました。幕末には紀州藩士が江戸勤番を務め、明治以降は政治・教育・美術・武道の世界で和歌山出身者が東京に足跡を残します。

熊野信仰が東京の「王子」と「十二社」に残った

最初の手がかりは、江戸より古い熊野信仰です。新宿中央公園の西側に鎮座する十二社熊野神社じゅうにそうくまのじんじゃは、室町時代の応永年間、紀州藤代で熊野三山の祠官を務めた家につながる鈴木九郎が、故郷の熊野三山から十二所権現を移し祀ったと伝えられます。応永10年(1403)には十二所権現すべてを祀ったとされ、周辺は長く「十二社」と呼ばれました。

北区の王子神社も熊野につながります。中世の領主・豊島氏が紀州熊野三山の若一王子を勧請し、もとは岸村と呼ばれていた一帯が「王子」と呼ばれるようになりました。現在の駅名や区内の町名に残る「王子」は、紀州の信仰が東京の地名になった例です。

同じ北区豊島には紀州神社があります。和歌山市の伊太祁曽神社いたきそじんじゃを勧請した神社で、天正年間に王子村から豊島へ移され、その後二度の移転を経て現在地に鎮座しました。「紀州」という旧国名をそのまま社名に残す、東京では珍しい和歌山の痕跡です。周辺の歴史は北区豊島に残る豊島氏と紀州神社の歴史散策でも紹介しています。

和歌山との関係は、神社の由緒だけで終わりません。北区と和歌山市は熊野・紀州徳川家・徳川吉宗の縁をもとに交流を続け、王子から飛鳥山、旧古河庭園、六義園りくぎえんへつながる「紀州・和歌山歴史ロード」も整備しています。

六義園は柳澤吉保が造った大名庭園ですが、園内には紀州・和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名所が写されています。園内最高地点の藤代峠ふじしろとうげも、現在の和歌山県海南市にある同名の峠にちなみます。江戸の庭園の中に紀州の景観を再構成した場所として、和歌山との結びつきを視覚的に感じられます。

高野山は江戸に在番所を置いていた

港区高輪の高野山東京別院は、紀伊半島の宗教文化と江戸を直接結んだ場所です。慶長年間に高野山の学侶方の在番所として開かれ、延宝元年(1673)に「高野山江戸在番所高野寺」として建立されました。

触頭ふれがしらとして幕府との宗務上の交渉を担い、幕府から出された通達を全国の古義真言寺院へ伝える役目も果たしました。高野山から重役が交代で江戸へ出ており、山上の宗教都市と幕府政治を結ぶ常設の窓口でした。

現在も高野山真言宗総本山金剛峯寺の別院として続きます。紀州徳川家とは別の系統から、和歌山と江戸の結びつきが制度として長く続いたことを伝える場所です。

紀尾井町に残る紀州徳川家55万石の江戸拠点

紀尾井町きおいちょうという地名には、紀伊和歌山藩徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、彦根井伊家の「井」が残っています。現在の東京ガーデンテラス紀尾井町一帯には、紀州徳川家の上屋敷がありました。和歌山県によれば、明暦3年(1657)の大火後に拝領し、文政6年(1823)に焼失するまで麹町邸として使われました。

現在は「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の碑と案内板があり、敷地内には発掘された石組遺構の一部も移築されています。周辺の大名屋敷と現在の街の関係は、赤坂見附から半蔵門の歴史散歩紀尾井町を歩く散歩記事でも詳しく紹介しています。

江戸の大名屋敷は明治維新で役割を失いましたが、巨大な敷地の形はその後の都市計画に影響しました。明治16〜17年の地図でその再編を追うと、旧大名屋敷が皇族邸、官用地、学校などへ変わっていく過程が分かります。詳しくは明治五千分一東京図を徹底解説⑧|番町・紀尾井町・四谷・青山で地図とともに確認できます。

港区赤坂の赤坂氷川神社も紀州徳川家と深く結びつきます。紀州家の赤坂邸に近く、産土神として崇敬されました。8代将軍となった吉宗の時代に現在地へ遷宮され、和歌山県と港区の交流でも重要な場所になっています。

さらに旧芝離宮恩賜庭園は、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷でした。庭園そのものは紀州家以前の大久保忠朝の時代に造られたものですが、幕末の紀州家の屋敷地が現在も庭園として歩ける点に価値があります。

紀州から二人の将軍が江戸城へ入った

紀州徳川家は、江戸幕府に二人の将軍を送り出しました。8代将軍徳川吉宗とくがわよしむねと、14代将軍徳川家茂とくがわいえもちです。

和歌山市の徳川吉宗騎乗像
和歌山市の徳川吉宗騎乗像。紀州藩主だった吉宗は1716年に江戸幕府8代将軍となりました。

吉宗は紀州藩主を経て享保元年(1716)に将軍となりました。東京で最も分かりやすい痕跡の一つが飛鳥山あすかやまです。享保期に桜を植えさせ、庶民の行楽地として開放したことで知られます。吉宗の墓所は上野の寛永寺にあり、上野公園と徳川将軍家で現在残る将軍墓所の構成を紹介しています。

徳川家茂像
徳川家茂。紀州徳川家から江戸幕府14代将軍となり、幕末の政局を担いました。所蔵:徳川記念財団/Wikimedia Commons(Public Domain)

家茂は紀州徳川家の当主・徳川慶福から14代将軍となり、皇女和宮との婚姻や上洛、長州戦争など幕末の政治を担いました。慶応2年(1866)に大坂城で亡くなり、現在は増上寺徳川将軍家墓所に眠ります。墓所の構成や現存する霊廟遺構は増上寺の見どころと歴史で詳しくたどれます。

紀尾井町から赤坂、飛鳥山、上野、芝へと場所を移すと、紀州藩主が将軍となり、江戸の都市空間そのものに働きかけていった流れが具体的な場所としてつながります。

紀州藩士・酒井伴四郎が記録した江戸勤番

大名屋敷の歴史を藩主だけで見ると、江戸で暮らした多くの紀州藩士の姿が抜け落ちます。東京都江戸東京博物館が所蔵する『酒井伴四郎さかいはんしろう日記』は、その空白を埋める史料です。

酒井伴四郎は紀州藩の勤番藩士で、幕末の江戸生活を日記に残しました。港区史でも紀州徳川家赤坂中屋敷の項で、屋敷に暮らす勤番藩士の具体例として扱われています。大名屋敷は藩主の住居であると同時に、役所、家臣の住居、藩政を動かす人々の生活空間でもありました。

紀州から江戸へ出た武士にとって、江戸勤番は政治制度であると同時に日常生活そのものでした。屋敷の中で働き、休みの日には市中へ出る。巨大な紀州藩邸を、一人の藩士の生活から見直すと、江戸と和歌山の距離が急に近くなります。

明治東京を動かした陸奥宗光と旧古河庭園

陸奥宗光むつむねみつは天保15年(1844)に和歌山で生まれました。父は和歌山藩士で、宗光は幕末に海援隊へ参加し、維新後は政治家・外交官として明治政府で活動します。第2次伊藤内閣では外務大臣を務め、明治27年(1894)の日英通商航海条約で領事裁判権の撤廃を実現しました。

陸奥宗光の肖像
陸奥宗光。和歌山藩士の家に生まれ、明治政府で外務大臣を務めました。出典:国立国会図書館/Wikimedia Commons(Public Domain)

東京で宗光の痕跡をたどるなら旧古河庭園が重要です。この土地は明治期に陸奥宗光の邸宅でした。宗光の次男が古河家の養子となった後に古河家の所有となり、現在の洋館と洋風庭園は大正期にジョサイア・コンドルが設計しました。宗光が暮らした当時の建物は残っていませんが、邸宅地そのものは現在の庭園に受け継がれています。

北区の「紀州・和歌山歴史ロード」では、吉宗の飛鳥山と陸奥宗光の旧邸宅地が同じ散策圏に入ります。江戸の将軍政治から明治外交へ、和歌山出身者の東京での役割が一つの地域で切り替わる場所です。

新宮・和歌山・田辺から東京の教育、美術、武道へ

近代になると、東京に残る和歌山の痕跡は政治だけでなく、教育、美術、武道へ広がります。

西村伊作と文化学院

西村伊作にしむらいさくは明治17年(1884)に新宮で生まれました。大正10年(1921)、与謝野寛・晶子らと東京・駿河台に文化学院を創設します。学校は2018年に閉校しましたが、神田駿河台には西村が設計した校舎の特徴的なアーチ部分が保存され、現在の建物に組み込まれています。

川端龍子と大田区

和歌山生まれの日本画家川端龍子かわばたりゅうしは東京で活動し、大田区に自邸とアトリエを構えました。龍子自身が1963年に開館した龍子記念館と、旧宅・アトリエを含む龍子公園が現在も残っています。作品だけでなく、制作した場所と暮らした空間を同じ地域でたどれる点が大きな魅力です。

2026年9月8日現在、龍子記念館は展示替えなどのため9月11日まで休館中です。再開後は企画展とあわせて龍子の東京での活動をたどれます。

植芝盛平と若松町の本部道場

合気道開祖植芝盛平うえしばもりへいは明治16年(1883)、現在の和歌山県田辺市に生まれました。昭和2年(1927)に一家で上京し、昭和6年(1931)には新宿区若松町に専門道場「皇武館」を建設します。

その場所には現在も公益財団法人合気会の本部道場があります。建物は後年改築されていますが、田辺から東京へ出た一人の武道家が世界的な武道の拠点を築いた場所として、土地の連続性が残っています。

上京した和歌山県人を支えた東京学生寮と県人会

戦後、東京へ進学する和歌山県出身者を支えた拠点が、調布市の和歌山県奨学会東京学生寮です。昭和30年(1955)11月に開設され、翌年9月から学生を受け入れました。設立には、和歌山出身で駐米大使や外務大臣を務めた野村吉三郎のむらきちさぶろうらが尽力しました。

寮の公式記録では、開設以来1,500人を超える学生が暮らしています。2026年も調布市佐須町で運営が続き、寮祭などの活動が更新されています。江戸時代の参勤交代や勤番とは性格が異なりますが、和歌山から東京へ移る若者を受け止める場所が戦後にも形を変えて続きました。

在京和歌山県人会の事務局は、現在も千代田区平河町の和歌山県東京事務所内にあります。県出身者や和歌山に縁のある人々の交流を支える組織で、東京事務所とともに現代の首都圏ネットワークを担っています。

2026年、飛鳥山と和歌山城を桜が再び結んだ

東京と和歌山の歴史的な縁は、現在の自治体交流にも使われています。北区と和歌山市は、徳川吉宗を共通の歴史資産として交流を進めています。

2024年11月、飛鳥山公園と和歌山城公園の桜の枝が交換されました。そこから育てた桜を、2026年2月3日に両公園で合同植樹しています。飛鳥山は吉宗が桜を植えさせた江戸の行楽地、和歌山城は紀州藩主時代の吉宗につながる場所です。約300年前の人物を介した交流が、現代の都市間交流として続いています。

有楽町のわかやま紀州館、平河町の和歌山県東京事務所、在京和歌山県人会なども、東京と和歌山を結ぶ現在の拠点です。江戸の藩邸が消えた後も、人と情報が集まる首都圏の窓口は形を変えて続いてきました。

東京で和歌山を探すなら、どこを歩くか

エリア主な場所見える歴史
新宿十二社熊野神社、合気会本部道場熊野信仰、植芝盛平と合気道
北区・文京区王子神社、飛鳥山公園、旧古河庭園、六義園熊野、徳川吉宗、陸奥宗光、紀州景観
紀尾井町・赤坂紀州藩上屋敷跡、赤坂氷川神社紀州徳川家の江戸拠点
高輪・芝高野山東京別院、旧芝離宮恩賜庭園、増上寺高野山の江戸在番所、紀州家芝屋敷、徳川家茂
神田駿河台旧文化学院西村伊作と近代教育
大田区龍子記念館・龍子公園川端龍子と東京の日本画

紀尾井町周辺は大名屋敷の痕跡が密集しています。外濠まで含めて歩く場合は赤坂見附から四谷見附へ|江戸城外堀と見附を歩く歴史散歩も組み合わせると、紀州徳川家の屋敷地と江戸城外郭の関係までつながります。

よくある質問

東京で和歌山ゆかりの場所をまとめて歩くならどこですか?

北区の王子神社、紀州神社、飛鳥山公園、旧古河庭園から文京区の六義園へつなぐ「紀州・和歌山歴史ロード」が歩きやすいルートです。紀州徳川家の江戸屋敷を中心に見るなら、紀尾井町から赤坂氷川神社へ歩くと江戸時代のつながりを追えます。

紀尾井町の「紀」は和歌山のことですか?

はい。紀尾井町の「紀」は紀伊和歌山藩徳川家、「尾」は尾張徳川家、「井」は彦根井伊家に由来します。三家の大名屋敷が集まった土地の記憶が、現在の町名に残っています。

東京の「王子」と和歌山はどうつながっていますか?

王子神社は紀州熊野三山の若一王子を勧請したことに由来し、周辺の地名「王子」もそこから定着しました。近くには和歌山市の伊太祁曽神社を勧請した紀州神社もあり、北区には中世以来の和歌山とのつながりが重なっています。

東京に残る和歌山は、地名・屋敷・人の移動でつながっている

新宿の「十二社」と北区の「王子」は熊野から生まれ、高輪には高野山と幕府を結ぶ在番所が置かれました。紀尾井町には紀州徳川家の巨大な屋敷があり、吉宗と家茂が将軍となって江戸政治の中心へ入りました。

明治になると陸奥宗光が外交を担い、さらに西村伊作、川端龍子、植芝盛平が教育・美術・武道の世界で東京に拠点を築きました。2026年には、吉宗ゆかりの桜が飛鳥山と和歌山城を再び結んでいます。

東京の中の和歌山は、一つの県の出身者一覧ではなく、信仰、幕藩政治、上京、文化、都市交流が重なった歴史です。街を変えて歩くほど、その層がはっきり見えてきます。

主な参考資料