正保元〜2年(1644〜1645)ごろの「正保年中江戸絵図」には、徳川家光の時代の江戸城が大きく描かれています。本丸、西の丸、北の丸、吹上、そして現在の皇居外苑にあたる西の丸下までが、幾重もの堀と門で結ばれた巨大な城郭でした。
このころ、家康以来続いた江戸城と城下町の大工事は一つの到達点を迎えていました。寛永13年(1636)には江戸城の総構がほぼ完成し、寛永15年(1638)には家光の天守が完成。正保年中江戸絵図は、明暦の大火で城の姿が大きく変わる約12〜13年前を捉えています。
掲載している全体図は、国立公文書館所蔵「正保年中江戸絵図」の江戸城周辺を部分拡大したものです。原資料では青が水、黄が道、赤が橋を示し、郭・堀・道・門・屋敷地の位置関係が分かります。
正保年中江戸絵図に描かれた江戸城の全体像

江戸城の中心は「御本丸」と記された本丸です。その周囲を二の丸・三の丸、西の丸、吹上、北の丸が取り囲み、さらに外側には大名屋敷や町が続きます。東京都立図書館は、本丸・二の丸・三の丸、西の丸・吹上・北の丸を合わせた内郭を約30万坪と説明しています。
現在の地理に重ねると、本丸・二の丸・三の丸の一部が皇居東御苑、西の丸が現在の宮殿付近、吹上が吹上御苑、北の丸が北の丸公園、西の丸下が皇居外苑におおむね対応します。現在は公園や緑地に見える場所にも、正保期には御殿や屋敷が密集していました。
御本丸と二の丸・三の丸――江戸城の中枢
正保年中江戸絵図の中心には「御本丸」が大きく描かれ、その東側から南東側に二の丸・三の丸が連なります。三つの郭は堀と門で区切られ、段階的に防御を重ねた江戸城中枢部を形づくっていました。

御本丸――将軍の住まいであり幕府の中央政庁
地図中央の「御本丸」には本丸御殿があり、将軍の住居と幕府の中央政庁を兼ねていました。公的な儀式・謁見・政務を行う「表」、将軍が日常の執務や生活を行う「中奥」、御台所や奥女中たちが暮らす「大奥」という三つの区域から成っていました。
正保期の本丸御殿は、寛永16年(1639)の火災後に建て直された新しい御殿でした。再建は翌1640年4月に完成し、正保元年(1644)はそこから約4年後です。
この時代には、まだ天守が立っていた
本丸北部には、家光が寛永15年(1638)に築いた寛永度天守がありました。正保元年なら完成から約6年後です。江戸城では家康・秀忠・家光の三代にわたって天守が建て替えられ、家光の天守はその三代目にあたります。


寛永度天守は明暦3年(1657)の大火で本丸御殿とともに焼失しました。天守台は造り直されましたが、天守は失われたままとなりました。正保図が描く本丸では、現在の皇居東御苑に残る天守台の上に巨大な天守が立っていました。
二の丸・三の丸――本丸の外側にも城が続く
本丸の東側から南東側には二の丸・三の丸が続きました。家光期には二の丸の拡張や三の丸の再編も進み、本丸へ至るまでに複数の郭と堀を通る構造が整えられています。
現在の皇居東御苑は、旧本丸・二の丸と三の丸の一部にあたります。地図を見ると、御本丸を囲む青い堀と、郭をつなぐ赤い橋がはっきり分かれています。将軍の御殿がある本丸を中心に、二の丸・三の丸を重ねることで防御と政務の空間を広げていたのが、この時期の江戸城中枢でした。
西御丸と西の丸下――現在の皇居外苑まで続く城郭空間
本丸の南西に大きく描かれた「西御丸」と、その東から南に広がる屋敷地を一枚で見ると、現在の皇居宮殿と皇居外苑にあたる範囲が、江戸時代には一続きの政治空間だったことが分かります。

西御丸――本丸に並ぶ、もう一つの将軍御殿
西の丸御殿は、引退した将軍や次の将軍となる世子の居所として使われ、本丸に準じる格式を持っていました。正保期に建っていた御殿は寛永11年(1634)の火災後、1636年に再建された系統です。その後、慶安元年(1648)から改造が始まり、慶安3年(1650)に新しい西の丸御殿が完成します。正保図はその大改造前の姿にあたります。
現在、この場所には皇居の宮殿があります。江戸時代の西の丸が、明治以降も皇居の中心的な空間として受け継がれました。
西の丸下――現在の皇居前広場には武家屋敷が並んでいた
西御丸の東から南側、現在の皇居外苑・皇居前広場にあたる一帯は「西の丸下」と呼ばれました。現在の広々とした景観とは異なり、正保期には区画された武家屋敷が並んでいます。老中や若年寄など幕府中枢を担う大名の屋敷も置かれ、将軍のいる本丸・西の丸のすぐ外側に幕閣を集めた配置でした。幕末の同じ一帯は、尾張屋版「御江戸大名小路絵図」で屋敷配置の変化まで追えます。
この一帯は、もともと日比谷入江に面した低地を江戸城拡張の過程で埋め立てた場所です。明治以降に屋敷が撤去され、現在の皇居前広場へと姿を変えました。
和田倉門・内桜田門・外桜田門・馬場先門で位置をつかむ
現在の地名で位置をつかむと、この切絵図の東側から南側には、和田倉門、内桜田門、外桜田門、馬場先門につながる城門群があります。内桜田門は現在の桔梗門、外桜田門は現在一般に桜田門と呼ばれる門です。西の丸下は、こうした門に囲まれた江戸城内郭の一画でした。
和田倉門は大手門や内桜田門へ向かう大名・武士の動線に接する門で、和田倉橋の内側は一般人の通行が許されない区域でした。外桜田門は元和6年(1620)に石垣と枡形が整い、寛永13年(1636)に修築されています。正保期にはすでに現在につながる枡形門の骨格が成立していました。
馬場先門は寛永6年(1629)に築かれましたが、正保期にはまだ橋が架けられておらず、「不開御門」と呼ばれる閉ざされた門でした。橋が架けられるのは寛文8年(1668)です。これらの門は、正保図の西の丸下を現在の皇居外苑に重ねる目印になります。
吹上と半蔵門外――御三家屋敷、麹町、元山王
本丸と西の丸の西側に広がる吹上と、その外側の半蔵門・麹町方面を一枚で見ると、城内と城外の土地利用の違いがよく分かります。現在の吹上御苑にあたる区域には徳川一門や幕府要職の屋敷が置かれ、堀を隔てた半蔵門外には麹町の町地、旗本屋敷、山王権現の社地が広がっていました。

尾張・紀伊・水戸――吹上に並んだ御三家の屋敷
江戸時代初期の吹上には、尾張・紀伊・水戸の御三家をはじめ、徳川一門や譜代大名の屋敷がありました。正保期の当主は、尾張が徳川義直、紀伊が徳川頼宣、水戸が徳川頼房です。三人は家康の九男・十男・十一男にあたり、将軍家に最も近い大名家が江戸城内郭のすぐ西側にまとまっていました。
義直は尾張徳川家初代で、尾張一国のほか美濃・三河・信濃の一部を含む61万9500石を領し、尾張家は御三家筆頭の家格を持ちました。頼宣は元和5年(1619)に紀伊55万5000石を与えられて紀州徳川家の祖となります。頼房は初代水戸藩主で、水戸徳川家と藩政の基礎を築いた人物です。後の「水戸黄門」として知られる徳川光圀は頼房の子です。
現在の吹上御苑は深い樹林に覆われていますが、正保図では大名屋敷が並ぶ政治空間でした。明暦3年(1657)の大火後、これらの屋敷は城外へ移され、吹上は庭園と火除地へ性格を変えていきます。
松平越後守――御三家に次ぐ「四家」と呼ばれた松平光長
図に大きく記された「松平越後守」は、越後高田藩主の松平光長です。元和元年(1615)生まれで、父は松平忠直、母は二代将軍秀忠の娘・勝子。九歳で家督を継ぎ、寛永元年(1624)に高田へ移り、寛永6年(1629)には三代将軍家光の一字を与えられて「光長」と名乗りました。
高田藩は26万石。上越市立歴史博物館によると、幕府は光長家を尾張・紀伊・水戸の御三家に次ぐ待遇とし、当時は御三家に光長家を加えて「四家」、また「越後中将家」とも呼ばれました。吹上で御三家の屋敷と近接して大きな区画を占めることは、光長家の高い家格とよく対応します。
中根大隅――江戸城警備を担った大番頭・中根正成
堀沿いの屋敷にある「中根大隅」は、中根正成とみてよい表記です。同じ正保期を描く東京都立中央図書館本では、「中根」と「大隅」が同じ一区画の中に明瞭に記されています。東京大学史料編纂所の研究でも、寛永16年(1639)の江戸城本丸火災後の警備担当者に「中根大隅守(正成・5000石)」が確認できます。
正成は大番頭を務めた大身旗本です。正保元年(1644)3月には、本多正貫とともに二条城番を命じられており、正保図と同じ年にも幕府の城郭警備を担っていました。5000石の旗本だった正成は、御三家や親藩大名と同じ吹上周辺に屋敷を持ち、幕府内で重要な職務を担っていました。
正保4年(1647)の江戸地震後の修復記録には「田安門の西 中根大隅守正成宅後」と別の位置が記されています。正保図との位置の違いは、屋敷替えか複数屋敷かを含めて移動経緯が未確定です。正保元年ごろの絵図では、吹上に「中根大隅」の屋敷が描かれています。
朝倉石見――正保期の江戸北町奉行・朝倉在重
「朝倉石見」は、朝倉在重です。在重は使番などを経て寛永16年(1639)に江戸北町奉行となり、慶安3年(1650)まで在職しました。正保年中江戸絵図が描かれた時点で、現役の江戸町奉行です。
九州国立博物館所蔵の対馬宗家文書には、朝鮮通信使を迎える際の警固について神尾元勝と連署した文書が残り、本人の署名「朝倉石見守 在重」を確認できます。町奉行は江戸の町政・治安・裁判を担う幕府の重職でした。この小さな屋敷区画には、正保期の江戸行政を担った町奉行が住んでいました。
服部源兵衛――服部半蔵の一族と半蔵門を考える手掛かり
半蔵門外の麹町側には「服部源兵衛」と読める屋敷があります。服部源兵衛は、近年の研究で服部半蔵の親戚とされる人物です。
『忍者研究』掲載の研究では、正保年中江戸絵図の麹町四丁目南に服部源兵衛の屋敷があり、甲州街道を挟んで服部仲、そのほか三家の服部氏屋敷も確認できるとしています。服部姓の屋敷がこの一帯に集中することなどから、服部半蔵正成・正就父子が麹町周辺に居住した可能性を検討する重要な材料になっています。
「御樹木屋敷」は人名ではなく施設名
図には「御樹木屋敷」と読める区画があります。屋敷・施設の名称で、管理組織や具体的な用途は未詳です。
半蔵門の外に続く「糀町」は現在の麹町
半蔵門外に記された「糀町」は、現在の麹町につながる地名です。「糀」と「麹」はどちらも「こうじ」を表す字で、表記には揺れがありました。千代田区によると、麹町は半蔵門から四谷御門へ向かう現在の麹町大通り沿いに形成された町で、家光の正保年間には「麹町」という表記が定着していました。
半蔵門の正面が麹町一丁目で、そこから西へ町が続きました。江戸城西側の主要な町人地で、周囲の武家屋敷へ物資を供給する商業地でもありました。
赤い社殿は「元山王」――現在の日枝神社につながる山王社
松平越後守の屋敷の近くに描かれた赤い社殿は、現在の日枝神社につながる山王権現です。日枝神社の由緒によると、江戸氏が山王宮を祀ったのに始まり、文明10年(1478)には太田道灌が川越の山王社を江戸城内に勧請しました。天正18年(1590)に徳川家康が江戸へ入ると、江戸城の鎮守、徳川将軍家の産土神として厚く崇敬されました。
二代将軍秀忠による江戸城拡張の際、山王社は城内の紅葉山から麹町隼町、現在の国立劇場付近へ移されました。この旧社地が後に「元山王」と呼ばれます。正保年中江戸絵図は、山王社がこの場所にあった時代を描いていることになります。明暦3年(1657)の大火で社殿が焼失すると、四代将軍家綱は赤坂の溜池を望む現在地を新たな社地とし、万治2年(1659)に遷座しました。江戸時代の日枝神社は将軍家や大名の参詣を受け、江戸城と深く結び付いた神社として発展しました。
細かな屋敷名から、家光政権の実務者まで見えてくる
半蔵門から番町側にかけて細かく区切られた区画には、旗本・御家人など幕臣の屋敷が多く含まれます。一方、半蔵門から四谷へ延びる麹町通り沿いは町人地でした。大きな区画だけを見れば御三家や親藩大名の町に見えますが、小さな屋敷名まで読むと、大番頭の中根正成や町奉行の朝倉在重といった家光政権の実務者も同じ一帯にいたことが分かります。
図には「本多次左衛門」という名もあります。人物・家系は現時点で未特定で、著名な本多忠勝家や本多正信家との関係も史料上未確認です。
明暦の大火後、吹上にあった武家屋敷は城外へ移され、この区域は庭園として整備されるとともに、防火のための火除地としての役割を持つようになりました。御三家や幕臣の屋敷が密集していた正保期の吹上は、その後の皇居の景観とは大きく異なる姿を伝えています。
北の丸――将軍家に近い人々が暮らした屋敷地

本丸北側の北の丸は、現在の北の丸公園です。正保図には、家光の三男・長松(のちの徳川綱重)や、千姫の法号である天樹院の屋敷が大きく描かれ、その周囲に幕臣の屋敷が並んでいます。
長松と天樹院――将軍家の近親者が暮らした北の丸
地図には「長松様」「天樹院様」とあり、さらに天樹院の中屋敷も確認できます。長松は正保元年(1644)に生まれた家光の三男で、のちの徳川綱重です。天樹院は二代将軍秀忠の娘・千姫で、本多忠刻との死別後に江戸へ戻りました。『御府内備考』にも天樹院の住居跡と中屋敷が記録されており、北の丸に将軍家の近親者の屋敷が置かれていたことが分かります。
斎藤佐渡と久世大和――将軍に近い旗本の屋敷
小さな屋敷区画のうち、「斎藤佐渡」は旗本の斎藤利宗と確認できます。利宗は五千石を知行し、春日局の兄にあたる人物です。「久世大和」は久世広之で、寛永13年(1636)に大和守となり、家光の側近として仕えました。正保期には五千石の旗本で、のちに大名となり、若年寄・老中へ進みます。
千鳥ヶ淵・牛ヶ淵の周辺には比較的小さな屋敷区画が密集し、将軍家の近親者の大きな屋敷と、幕臣の屋敷が隣り合う北の丸の性格が読み取れます。
後世の北の丸は田安徳川家・清水徳川家の屋敷地として知られますが、それは八代将軍吉宗以後の姿です。正保期の北の丸を読むと、御三卿成立よりはるか前の土地利用が分かります。
正保図の時代から残る田安門
北の丸北側には田安門があります。現在残る田安門は寛永13年(1636)の建築と考えられ、江戸城に残る建築遺構の中でも最古級です。1657年の明暦の大火も免れており、正保年中江戸絵図が描く時代と現在を直接つなぐ貴重な建物です。
清水門と清水濠――正保図にも残る北の丸東側の防御線
清水門も正保期にはすでに存在していました。記録上は元和6年(1620)には確認できます。地図では清水門から竹橋にかけて青く塗られた水面が続き、現在の清水濠にあたる濠を確認できます。現在残る清水門は、明暦の大火後の万治元年(1658)に再建されたものと考えられています。
青い堀と赤い橋が示す、江戸城の防御構造

正保年中江戸絵図では、青い堀が本丸・西の丸・北の丸などを分断し、その間を赤く塗られた橋と門がつないでいます。江戸城は複数の郭を水堀で分け、通路を門に集中させる構造でした。
現在の二重橋周辺――西丸大手門と西丸下乗橋
画像中央左には、現在の皇居正門から二重橋周辺にあたる西の丸への入口が見えます。現在「二重橋」として知られる奥側の橋にあたる場所には、江戸時代の西丸下乗橋が架かっていました。慶長19年(1614)には橋が設けられていました。正保期の説明では「西丸下乗橋」の名称を用います。
手前側には西丸大手門があり、さらに西丸下乗橋と門を経て西の丸へ入ります。門と橋を重ねて進路を折り曲げ、中枢への進入を制御する防御構造でした。画像には馬場先門や外桜田門も入り、現在の皇居外苑が門と堀に囲まれた城郭空間だったことがよく分かります。
「保科肥後」は保科正之
西の丸下の屋敷名にある「保科肥後」は、会津藩主の保科正之です。正之は二代将軍秀忠の子で、三代将軍家光の異母弟にあたり、寛永20年(1643)に会津23万石の藩主となりました。正保図はその直後の屋敷配置を示しています。のちには家光の遺命を受けて四代将軍家綱を補佐し、明暦の大火後には江戸城天守の再建を見送る判断にも関わった人物です。
田安門や清水門などには、二つの門の間に四角い空間を設ける枡形の構造が使われています。進入者は門の中で方向転換を強いられます。地図上の堀・橋・門を一体として見ると、巨大な政治拠点であると同時に、軍事施設として設計された江戸城の姿が分かります。
この城は13年後、明暦の大火で大きく変わる
正保年中江戸絵図が描く江戸城は、13年後の明暦3年(1657)の大火で大きく姿を変えました。本丸御殿、天守、二の丸・三の丸などが焼失し、城内外の土地利用も再編されます。
本丸御殿は1659年に再建された一方、天守は失われたままとなりました。吹上では武家屋敷が城外へ移され、庭園と火除地へ変化します。北の丸も大火後に屋敷配置が変わりました。正保図に残るのは、家光が整えた江戸城が大火による再編を受ける直前の姿です。
現在の皇居と重ねると見えるもの
- 御本丸・二の丸・三の丸の一部:現在の皇居東御苑
- 西の丸:現在の皇居宮殿付近
- 吹上:現在の吹上御苑
- 北の丸:現在の北の丸公園
- 西の丸下:現在の皇居外苑・皇居前広場
現在も堀や門、石垣が多く残るため、正保図の骨格は現代の地図にも重なります。一方で、吹上の大名屋敷や北の丸の屋敷、西の丸下の武家屋敷のように、土地の使われ方は大きく変わりました。1640年代の地図は、現在の皇居周辺がどのように組み替えられてきたかを比較する基準にもなります。
参考資料
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「正保年中江戸絵図」
- 東京都立図書館「江戸城に迫る―城の内部は?」
- 東京都立図書館「西丸表大奥絵図」
- 東京都立図書館「江戸城御吹上総絵図」
- 徳川美術館「徳川美術館について」
- 史跡 和歌山城「和歌山城の生い立ち」
- 水戸市立博物館「徳川頼房―初代水戸藩主の軌跡―」
- 上越市立歴史博物館「松平 光長」
- 東京大学史料編纂所『研究紀要』江戸城警備関係資料
- 元離宮二条城事務所 研究資料
- 九州国立博物館「宗家文書」朝倉石見守在重関係文書
- 『忍者研究』服部半蔵の居屋敷と半蔵門に関する考察
- 国民公園協会「北の丸公園の歴史のご紹介」
- 国民公園協会「皇居外苑―歴史にふれる」
- 宮内庁「皇居東御苑案内図」
- 東京都公文書館「御府内備考 五(御曲輪内之三)」
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「斉藤利宗」
- コトバンク「久世広之」
- 国民公園協会「二重構造の木橋がはじまり『二重橋』」
- 国立公文書館「大名―11.千年の松(保科正之)」

