銀座の華やかな中央通りから東へ数分歩くと、街の成り立ちは大きく変わります。現在の銀座一丁目から八丁目の東側には、かつて三十間堀川が南北に流れ、そのさらに東側には木挽町が広がっていました。川は昭和27年(1952)に埋め立てられましたが、三原橋、木挽町の芝居文化、幕末の私塾、築地市場へ向かった貨物線など、かつての街の輪郭は今も歩いてたどれます。
中央通り側の銀座発祥、煉瓦街、百貨店、時計塔などを中心に歩くコースは、「銀座の歴史散歩|京橋から新橋へ、一丁目〜八丁目の12スポットを歩く」で詳しく紹介しています。こちらでは、三十間堀川の東側にあった木挽町を軸に、東銀座の歴史を南北にたどります。
東銀座の歴史|三十間堀川の東は木挽町だった
江戸時代、現在の銀座の東側には三十間堀川が流れていました。中央区の資料によると、川は京橋川から分かれて南へ進み、銀座一丁目から八丁目を縦断して汐留川へ合流していました。北から水谷橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、賑橋、出雲橋、八通八橋などが架かり、人と物が行き交っていました。
川の東側が木挽町です。江戸城の普請に携わる木挽職人が集まり、木材を運ぶ水路にも近かったことが町名の由来とされています。のちに芝居小屋が並び、明治22年(1889)には木挽町に歌舞伎座が誕生しました。現在の「東銀座」に残る劇場文化は、江戸以来の木挽町の歴史につながっています。
戦後、空襲で生じた灰じんや復興事業の残土処理を背景に、三十間堀川は昭和27年(1952)に埋め立てられました。木挽町と銀座は地続きとなり、この一帯には「銀座東」という町名も生まれました。現在の街路だけを見ると分かりにくい東銀座の輪郭は、消えた川の位置を重ねると鮮明になります。
銀座一丁目〜八丁目、東側を歩く歴史散歩ルート
- 中央区立水谷橋公園・三十間堀川北端付近
- 士学館(桃井道場)跡
- 三吉橋の碑
- 三十間堀跡・三原橋周辺
- 佐久間象山塾跡
- 名犬チロリ記念碑
- 中央区立築地川千代橋公園
- 浜離宮前踏切跡
北の銀座一丁目付近から南の銀座八丁目へ歩くと、江戸の水路、幕末の道場、震災復興、戦後の埋め立て、築地市場の鉄道物流までを一本の動線で追えます。
三十間堀川跡|銀座一丁目から八丁目を流れた水路
三十間堀川は、現在の銀座一丁目から八丁目の東寄りを南北に流れていました。水谷橋から三原橋、木挽橋、出雲橋へと橋名を追うと、現在の道路の下にあった川筋を想像しやすくなります。昭和通りそのものが川だったのではなく、三十間堀川は昭和通りより西側を流れていました。
関東大震災後には昭和通りが新設され、戦後には三十間堀川が埋め立てられました。大きな都市改造を二度経たため、東銀座では江戸の水路と近代の幹線道路が近接して残っています。現在の街区を歩きながら旧河川の位置をたどれることが、このエリアの大きな特徴です。
木挽町|木材の町から芝居の町へ
木挽町には、江戸初期から木材を扱う職人が集まりました。三十間堀川は資材を運ぶ水路としても機能し、町は水運と深く結びついて発展しました。やがて山村座や森田座などの芝居小屋が置かれ、木挽町は江戸の芝居文化を担う場所になります。
天保の改革で芝居小屋が浅草の猿若町へ移された後も、この地域と演劇の縁は続きました。明治期には新富座が近隣に開かれ、1889年には歌舞伎座が木挽町に誕生します。現在の東銀座に歌舞伎座や新橋演舞場がある景観は、数百年続く劇場街の系譜の上にあります。
幕末の木挽町|佐久間象山塾と士学館
佐久間象山塾跡
銀座六丁目15番付近には、佐久間象山が開いた兵学塾がありました。象山は儒学を学んだ後、西洋砲術や蘭学を修め、嘉永4年(1851)に木挽町五丁目へ塾を移しました。勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助らが門下に集まり、坂本龍馬の名も門人帳に確認されています。
吉田松陰がアメリカへの密航を企てて失敗した事件に象山も連座し、松代で蟄居となって木挽町の塾は閉じられました。繁華街の印象が強い現在の銀座六丁目に、幕末の海防と西洋軍学を学ぶ若者が集まった場所があったことを伝える史跡です。
士学館(桃井道場)跡
銀座一丁目の京橋公園付近には、鏡新明智流の剣客・桃井春蔵の道場「士学館」がありました。幕末の江戸三大道場の一つに数えられ、土佐藩士の武市半平太らが学びました。武市は近くの土佐藩築地邸から士学館へ通い、道場では塾頭も務めています。
東銀座から築地にかけては、兵学を教えた象山の塾、剣術の士学館、土佐藩邸が徒歩圏にありました。幕末の人物史を現地の距離感で結び直せる一帯です。周辺の土佐藩邸や新富町の歴史は、「京橋・八丁堀・築地の歴史散歩」でも紹介しています。
三原橋地下街|消えた川と戦後銀座の記憶
晴海通りと旧三十間堀川が交わった場所に架かっていたのが三原橋です。川が埋め立てられた後、橋の構造を生かした地下空間に商店や映画館が入り、戦後銀座を象徴する独特の場所になりました。映画館「銀座シネパトス」などが営業した地下街は2014年に閉鎖され、現在は往時の姿を見ることはできません。


三原橋周辺を歩くと、現在の道路からは想像しにくい「ここに川と橋があった」という都市の層を体感できます。東銀座の歴史を理解するうえで、三十間堀川の埋め立てと戦後復興が交差する重要な地点です。
三吉橋と築地川|震災復興がつくったY字の橋
三吉橋は関東大震災後の復興事業で、昭和4年(1929)12月に完成しました。楓川と築地川を結ぶ連絡運河が開削され、水路が三方向へ分かれる地点に架けられたため、上から見るとY字形をしています。現在も三方向へ道が分かれる独特の橋の形が残っています。
橋の下に水面はなく、旧築地川の一部には首都高速都心環状線が通っています。本庁舎前の築地川は昭和35年(1960)に埋め立てられました。東銀座から築地へ歩くと、川が道路や高速道路へ変わっていった東京の都市改造を連続して見ることができます。築地川の流路をさらに追うなら、「かつての運河『築地川』の跡を歩いてみよう」へ続けて歩けます。
浜離宮前踏切跡|築地市場へ魚を運んだ貨物線
銀座八丁目の海岸通り近くには、浜離宮前踏切の警報機が保存されています。ここには汐留貨物駅と築地市場内の東京市場駅を結ぶ、全長約1.1キロメートルの貨物線「東京市場線」が通っていました。
東京市場線は昭和10年(1935)2月11日、築地市場の開場と同時に開通しました。市場へ生鮮食品を運ぶ鉄道として使われ、最盛期には一日に150両もの貨車が入線したとされています。輸送の主役が鉄道からトラックへ移るなかで役割を終え、昭和62年(1987)に汐留貨物駅の廃止とともに線路も姿を消しました。

線路跡は朝日新聞社脇を通って旧築地市場へ向かいます。銀座の南端に残る踏切は、築地が鉄道と水運を前提に整備された巨大市場だった時代を伝えています。
東銀座で見るべき歴史の層
東銀座を南北に歩くと、江戸の三十間堀川と木挽町、幕末の私塾と道場、関東大震災後の復興橋梁、戦後の河川埋め立て、築地市場の鉄道物流が同じ街の中に重なっています。銀座一丁目から八丁目までの距離は短くても、街の成り立ちは中央通り側とは大きく異なります。
TimeWalkでは、現地を歩きながら歴史スポットを確認できます。中央通り側の銀座と東側の木挽町を続けて歩くと、現在の「銀座」が複数の町と水路を取り込みながら形づくられた過程がよく分かります。

