東京駅の西側、丸の内から皇居外苑、大手町へ歩くと、現在はオフィスビル、官庁、広場、道路が整然と並びます。嘉永2年(1849)の『御江戸大名小路絵図』を開くと、その同じ場所は巨大な大名屋敷、幕府の役所、城門、堀、警備施設で埋め尽くされています。
この一枚には、江戸城の南東から北東にかけての政治中枢が細かく記録されています。CODH「江戸マップ」が抽出した項目は128件。内訳は施設74件、屋敷地48件、地名6件です。大名屋敷だけを眺めても、この地域の意味は十分に伝わりません。南北町奉行所、評定所、伝奏屋敷、定火消、作事方・小普請方・普請方、11か所の城門、42か所の辻番、7か所の腰掛まで追うと、幕末の丸の内が幕府の行政・司法・警備・営繕機能を集めた巨大な政治都市だったことが具体的にわかります。

- 御江戸大名小路絵図の基本情報
- 家紋と記号を読むと屋敷の格がわかる
- 地図に記された48の屋敷地をすべて確認する
- 南町奉行所には「遠山の金さん」の名がある
- 北町奉行所には、開国交渉へ進む井戸覚弘がいた
- 辰之口は幕府の司法・儀礼・営繕が集まる官庁街だった
- 作事方・小普請方・普請方――江戸城を造り、直し、維持する役所
- 八代洲河岸の定火消――江戸城を火から守る常備消防
- 11の城門を追うと江戸城外郭の形がわかる
- 42か所の辻番が示す「高警備区域」
- 一石橋・銭瓶橋・道三橋・竜閑橋――消えた水路が街の輪郭をつくった
- 御厩・御畳蔵・御舂屋――政治都市の日常を支えた施設
- 一橋殿と一橋御門――御三卿の屋敷も城内縁辺にあった
- 大名小路の外側では幕末政治が動いていた
- 約200年前の江戸城と比べると都市の変化が見える
- 明治維新後、大名屋敷街は軍用地を経てビジネス街へ変わった
- 現在の丸の内で確認できる江戸の痕跡
- この一枚から読み取れる幕末江戸の政治中枢
- 参考資料
御江戸大名小路絵図の基本情報
国立国会図書館の資料では、内題は「大名小路神田橋内内櫻田之圖」、版元は金鱗堂・尾張屋清七、刊行は嘉永2年(1849)です。東京都立図書館所蔵本では景山致恭の識とされ、46.0×51.0センチの色刷り木版図です。
大名小路は、江戸城東側の内濠と外濠にはさまれた武家地の中心部です。現在の丸の内、大手町、皇居外苑、有楽町北部などに重なります。東京都立図書館は、この地域を大名の上屋敷が多く集まる地域と説明しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 図名 | 御江戸大名小路絵図/大名小路神田橋内内櫻田之圖 |
| 刊行 | 嘉永2年(1849) |
| 版元 | 金鱗堂・尾張屋清七 |
| 主な範囲 | 江戸城東側、丸の内・大手町・皇居外苑・有楽町周辺 |
| CODH抽出項目 | 128件(施設74、屋敷地48、地名6) |
家紋と記号を読むと屋敷の格がわかる
尾張屋版切絵図では、武家地は白地で描かれます。東京都立図書館の解説によると、家紋が入る屋敷は大名の上屋敷です。屋敷主の名は、門がある方向へ向けて書かれています。文字の向きを追うだけでも、どの街路から出入りした屋敷かを読み取れます。
同じ尾張屋版の凡例では、■は中屋敷、●は下屋敷を示します。この図では会津、徳島、土佐、岡山、姫路、福井などに■付きの屋敷があり、上屋敷と中屋敷を近接して置く藩も確認できます。大名屋敷は藩主の住居であると同時に、江戸での政治・儀礼・事務・家臣団運営の拠点でした。
地図の「松平肥後守」は、1849年という刊行年を踏まえて読む必要があります。この時期の会津藩主は松平容敬です。後に京都守護職となる松平容保ではありません。官途名だけを現代の著名人へ直結させず、その版が刊行された年の武鑑と照合すると、切絵図の精度が一段上がります。
地図に記された48の屋敷地をすべて確認する
この図には48件の屋敷地が記されています。「家紋」は上屋敷、「■」は中屋敷です。地図に書かれているのは藩主の実名ではなく「安芸守」「肥後守」などの官途名が中心なので、同時代の武鑑や藩主在任期間と照合すると、屋敷の主が具体的な人物として見えてきます。
東京都立図書館はこの図を「嘉永2年(1849)刊・後修」としており、同じ嘉永2年の刊記を持ちながら屋敷名などを書き替えた異版が10種確認されています。そのため、下表では原図の表記を優先しつつ、1849年前後の当主・官途名と照合しました。後修によって1850年以後の人物が反映されたと考えられる箇所は、その旨も記しています。
| 地図表記 | 屋敷 | 人物・解説 |
|---|---|---|
| 本庄安芸守 | 高富藩上屋敷(家紋) | 本庄道貫。美濃高富藩9代藩主で若年寄。父は寛政の改革期に老中を務めた松平信明です。 |
| 牧野備前守 | 長岡藩上屋敷(家紋) | 牧野忠雅。越後長岡藩10代藩主。老中として阿部正弘を支え、海防・外交問題にあたりました。 |
| 本多越中守 | 泉藩上屋敷(家紋) | 本多忠徳。陸奥泉藩5代藩主。若年寄を務め、江戸湾沿岸の巡検や海防に関わりました。 |
| 酒井右京亮 | 敦賀藩上屋敷(家紋) | 酒井忠毗。越前敦賀藩7代藩主。若年寄を務め、幕末の外交・海防政策にも関わりました。 |
| 松平玄蕃頭 | 小幡藩上屋敷(家紋) | 松平忠恵。上野小幡藩3代藩主。若年寄を務めた譜代大名です。 |
| 松平伊賀守 | 上田藩上屋敷(家紋) | 松平忠固。信濃上田藩主。嘉永2年(1849)には老中で、のち日米修好通商条約の締結をめぐる幕政の中心人物となりました。 |
| 戸田山城守 | 宇都宮藩上屋敷(家紋) | 戸田忠温。下野宇都宮藩主。寺社奉行を経て老中を務めました。 |
| 松平下総守 | 忍藩上屋敷(家紋) | 松平忠国。武蔵忍藩主。松平下総守家はかつて桑名藩主だったため、CODHでは桑名藩に対応付けられていますが、この時期の領地は忍です。 |
| 松平肥後守 | 会津藩上屋敷(家紋) | 松平容敬。会津藩8代藩主。のち京都守護職となる松平容保を養嗣子に迎えた人物です。 |
| 松平肥後守 | 会津藩中屋敷(■) | 松平容敬。上屋敷とは別に中屋敷も大名小路に置かれていました。 |
| 松平阿波守 | 徳島藩中屋敷(■) | 蜂須賀斉裕。徳島藩13代藩主。11代将軍徳川家斉の二十二男で蜂須賀家の養子となり、幕末には江戸湾警備にも関わりました。 |
| 松平土佐守 | 土佐藩中屋敷(■) | 山内豊信。号は容堂。土佐藩15代藩主で、のち「幕末四賢侯」の一人として大政奉還の建白に深く関わります。 |
| 牧野越中守 | 笠間藩上屋敷(家紋) | 牧野貞久。常陸笠間藩7代藩主。幼くして家督を継ぎ、嘉永3年(1850)に16歳で没しました。 |
| 松平主殿頭 | 島原藩上屋敷(家紋) | 松平忠精。肥前島原藩主。外国船の接近が増える時期に長崎周辺の警備強化にあたりました。 |
| 本多中務大輔 | 岡崎藩上屋敷(家紋) | 本多忠民。三河岡崎藩主。京都所司代を経て老中を二度務めた幕末の幕閣です。 |
| 土井大炊頭 | 古河藩上屋敷(家紋) | 土井利則。下総古河藩主。藩校の整備や西洋式砲術の導入など、幕末期の軍備改革を進めました。 |
| 永井遠江守 | 高槻藩上屋敷(家紋) | 詳細不明。CODHは高槻藩上屋敷に対応させていますが、原図の官途名と当主を安全に一致させられる史料が確認できないため、個人名は保留します。 |
| 松平右京亮 | 高崎藩上屋敷(家紋) | 松平輝聴。上野高崎藩主。奏者番を経て寺社奉行を務めました。 |
| 松平相模守 | 鳥取藩上屋敷(家紋) | 池田慶徳。水戸藩主徳川斉昭の五男で、15代将軍徳川慶喜の兄。嘉永3年(1850)に鳥取藩主となったため、この名は1849年刊行後の改訂を示す有力な手掛かりです。 |
| 松平阿波守 | 徳島藩上屋敷(家紋) | 蜂須賀斉裕。中屋敷とともに上屋敷もこの図に記されています。 |
| 松平土佐守 | 土佐藩上屋敷(家紋) | 山内豊信(容堂)。のちの大政奉還論につながる幕末政治の重要人物です。 |
| 増山河内守 | 長島藩上屋敷(家紋) | 増山正修。伊勢長島藩主。庄内藩主酒井忠器の子として生まれ増山家を継ぎ、のち若年寄を務めました。 |
| 遠藤但馬守 | 三上藩上屋敷(家紋) | 遠藤胤統。近江三上藩主。大垣藩主戸田氏教の子で、遠藤家を継いで若年寄を務めました。 |
| 小笠原左衛門佐 | 越前勝山藩上屋敷(家紋) | 小笠原長守。越前勝山藩主。幼少で家督を継ぎ、藩校成器堂を開いて藩政改革を進めました。 |
| 織田兵部少輔 | 天童藩上屋敷(家紋) | 織田信学。出羽天童藩主。織田信長の次男・信雄につながる大名家で、1849年時点の領地は高畠ではなく天童です。 |
| 堀田摂津守 | 佐野藩上屋敷(家紋) | 堀田正衡。下野佐野藩主。父は長年若年寄を務め、鳥類図譜『堀田禽譜』でも知られる堀田正敦です。 |
| 松平能登守 | 岩村藩上屋敷(家紋) | 松平乗喬。美濃岩村藩主。のち奏者番を務めました。 |
| 松平和泉守 | 西尾藩上屋敷(家紋) | 松平乗全。三河西尾藩主。嘉永元年(1848)に老中となり、幕末初期の幕政に加わりました。 |
| 松平越後守 | 津山藩上屋敷(家紋) | 松平斉民。美作津山藩主。11代将軍徳川家斉の十四男で、津山松平家へ養子に入りました。 |
| 松平内蔵頭 | 岡山藩上屋敷(家紋) | 池田慶政。岡山藩主。島原藩主松平昌高の子から岡山池田家へ養子入りし、幕末の政局に直面しました。 |
| 阿部伊勢守 | 福山藩上屋敷(家紋) | 阿部正弘。備後福山藩主で老中首座。ペリー来航後に諸大名へ意見を求め、日米和親条約締結へ進んだ開国期の中心人物です。 |
| 松平内蔵頭 | 岡山藩中屋敷(■) | 池田慶政。岡山藩は上屋敷と中屋敷の双方がこの図に記されています。 |
| 久世大和守 | 関宿藩上屋敷(家紋) | 久世広周。下総関宿藩主。のち老中となり、安藤信正とともに公武合体と和宮降嫁を進めました。 |
| 水野壱岐守 | 鶴牧藩上屋敷(家紋) | 水野忠順。上総鶴牧藩主。嘉永元年(1848)に奏者番となりました。CODHの「安房北条藩」は水野家の旧領に由来する対応です。 |
| 松平丹波守 | 松本藩上屋敷(家紋) | 戸田光則。信濃松本藩主。当時は松平姓を称し、明治維新期に戸田姓へ復しました。戊辰戦争では新政府側に立ちました。 |
| 細川越中守 | 熊本藩上屋敷(家紋) | 細川斉護。熊本藩10代藩主。藩内ではのち横井小楠ら実学党が台頭し、幕末改革の土台が形成されました。 |
| 松平伊豆守 | 三河吉田藩上屋敷(家紋) | 松平信璋。三河吉田藩主。財政再建を進めましたが、嘉永2年(1849)に23歳で没しました。 |
| 秋元但馬守 | 館林藩上屋敷(家紋) | 秋元志朝。嘉永期には上野館林藩主。徳山藩主毛利広鎮の子で秋元家を継ぎ、幕末には朝幕間の周旋にも関わりました。1845年に山形から館林へ移封されています。 |
| 大岡主膳正 | 岩槻藩上屋敷(家紋) | 大岡忠固。岩槻藩主で若年寄。江戸城本丸の普請奉行も務めました。「大岡越前」大岡忠相と同じ大岡氏ですが、忠相の直系ではなく別系統です。 |
| 酒井雅楽頭 | 姫路藩中屋敷(■) | 酒井忠宝。播磨姫路藩主。ペリー来航時には江戸湾警備を担う立場にありました。 |
| 太田摂津守 | 掛川藩上屋敷(家紋) | 太田資始。遠江掛川藩主。老中を三度務め、水野忠邦や井伊直弼の時代をまたいで幕政に関わった人物です。 |
| 間部下総守 | 鯖江藩上屋敷(家紋) | 間部詮勝。越前鯖江藩主。のち井伊直弼政権下で老中となり、条約勅許や将軍継嗣問題に対応しました。 |
| 酒井雅楽頭 | 姫路藩上屋敷(家紋) | 酒井忠宝。姫路藩は中屋敷と上屋敷の両方が描かれています。 |
| 松平越前守 | 福井藩中屋敷(■) | 松平慶永。号は春嶽。福井藩主で「幕末四賢侯」の一人。のち政事総裁職を務め、幕政改革と公議政体論を進めました。 |
| 小笠原左京大夫 | 小倉藩上屋敷(家紋) | 小笠原忠徴。小倉藩主。海防強化や産業・農政改革に取り組みました。 |
| 酒井左衛門尉 | 庄内藩上屋敷(家紋) | 酒井忠発。出羽庄内藩主。幕末には北方警備の強化に関わり、庄内藩はのち江戸市中取締も担います。 |
| 松平越前守 | 福井藩上屋敷(家紋) | 松平慶永(春嶽)。中屋敷とともに大名小路に拠点を持っていました。 |
| 一橋殿 | 一橋徳川家屋敷(家紋) | 徳川慶喜。弘化4年(1847)に一橋家を継承。のち15代将軍となり、慶応3年(1867)に大政奉還を行いました。 |
この48件を人物名で読むと、大名小路は幕末政治の人名録にも見えてきます。阿部正弘、松平慶永、山内容堂、徳川慶喜へつながる一橋家だけでなく、老中・若年寄・寺社奉行を務めた譜代大名が密集し、その隣に徳島、土佐、熊本、岡山など有力外様大名の江戸拠点が並びました。屋敷の配置は、全国の大名が江戸城を中心とする政治秩序の中へ組み込まれていたことを具体的に伝えます。
南町奉行所には「遠山の金さん」の名がある
数寄屋橋御門の近くには「南町御奉行御役屋敷 遠山左衛門尉」と記されています。遠山景元、通称「遠山の金さん」です。国立公文書館によると、景元は天保11年(1840)に北町奉行となり、弘化2年(1845)に南町奉行へ再任され、嘉永5年(1852)までその職を務めました。1849年の切絵図に名があるのは、まさに南町奉行在任中だからです。
南町奉行所は町人地の行政、警察、裁判などを担った町奉行の役所です。現在のJR有楽町駅銀座口付近にあたり、駅前広場と交通量の多い道路が広がる場所に、江戸の都市行政を担う役所がありました。
この図の価値は、「南町奉行所がこの辺にあった」と後世の説明を重ねるだけでなく、遠山景元本人の官職名まで1849年の地図上で確認できることにあります。人物史と都市空間が同じ一枚で結びつきます。
北町奉行所には、開国交渉へ進む井戸覚弘がいた
呉服橋御門付近には北町奉行所があり、原図には「北町奉行御役屋敷 井戸対馬守」と記されています。井戸覚弘は嘉永2年(1849)に北町奉行へ就任し、官途名は対馬守でした。
井戸覚弘はその後、嘉永7年(1854)のペリー再来航に際し、林復斎らと交渉にあたり、日米和親条約と下田条約に調印しました。1849年の地図に描かれた北町奉行所から、わずか数年後の開国外交へ人物史がつながります。
北町奉行所は現在の東京駅日本橋口周辺にあたります。東京駅の東西に南北の町奉行所が置かれていたわけではありませんが、現在の有楽町と東京駅周辺という近い範囲に、江戸市中を統治する二つの町奉行所が配置されていました。
辰之口は幕府の司法・儀礼・営繕が集まる官庁街だった
地図の北東側にある辰之口周辺には、「伝奏屋敷」「御評定所」「小普請方」「御作事方」「御普請方」が集中しています。大名屋敷の連続の中に、幕府の中央機関がまとまって置かれた場所です。
評定所は、幕府の重要な司法機関でした。寺社奉行・町奉行・勘定奉行などの管轄が交差する事件や、大名・旗本に関わる訴訟などを扱いました。地図では「御評定所」のすぐ近くに腰掛も記されています。用務を待つ人々のための待機施設まで地図に描かれている点が特徴です。
伝奏屋敷は、朝廷と幕府をつなぐ武家伝奏が江戸へ下向した際に関わる施設です。大名屋敷、司法機関、朝幕間の儀礼施設が近接する配置は、江戸城東側が政治実務の密集地だったことをよく表しています。
作事方・小普請方・普請方――江戸城を造り、直し、維持する役所
辰之口の近くには、作事方、小普請方、普請方が並びます。東京都立図書館によると、作事方と小普請方は建築、普請方は土木を担当しました。
江戸城は火災、地震、老朽化によってたびたび修理・再建を必要としました。作事方の大棟梁を代々務めた甲良家は、江戸城、寛永寺、日光東照宮など幕府直轄の建築工事に携わり、設計、仕様、積算、職人の手配まで担当しました。地図上では役所名が数文字で記されるだけですが、その背後には巨大城郭と幕府建築を維持する専門組織が存在していました。
『御江戸大名小路絵図』が刊行された1849年の直前、江戸城本丸御殿は弘化元年(1844)の火災後に再建されています。城下の中心に営繕機関が置かれていたことは、平時の行政だけでなく、災害復旧と城郭維持の即応体制を考える手掛かりになります。
八代洲河岸の定火消――江戸城を火から守る常備消防
八代洲河岸には「定火消御役屋敷 松平采女」とあります。定火消は幕府直属の常備消防組織です。東京消防庁によると、定火消の火消屋敷には与力、同心、臥煙などが常駐し、八代洲河岸もその配置地の一つでした。
八代洲河岸の位置は馬場先門外北角。大名屋敷が密集し、江戸城が至近にある地域では、大火は政治中枢そのものを脅かします。地図上の定火消屋敷は、大名小路が警備だけでなく防災でも特別な区域だったことを示します。
定火消屋敷には火の見櫓が設けられ、火災を監視しました。火災の多い江戸で、城と武家地を守る消防拠点が大名小路の一角を占めていました。
11の城門を追うと江戸城外郭の形がわかる
この図には、江戸城外郭を構成する門が少なくとも11か所記されています。桜田御門、日比谷御門、馬場先御門、和田倉御門、数寄屋橋御門、鍛冶橋御門、呉服橋御門、常盤橋御門、神田橋御門、一橋御門、雉子橋御門です。
| 地図上の門 | 現在とのつながり |
|---|---|
| 桜田御門 | 皇居桜田門として現存 |
| 日比谷御門 | 日比谷公園周辺の外濠線を考える手掛かり |
| 馬場先御門 | 馬場先通りに名称が残る |
| 和田倉御門 | 和田倉濠・和田倉噴水公園周辺 |
| 数寄屋橋御門 | 数寄屋橋の地名に残る |
| 鍛冶橋御門 | 鍛冶橋通り・旧外濠線周辺 |
| 呉服橋御門 | 東京駅八重洲北側付近 |
| 常盤橋御門 | 常盤橋門跡・常盤橋周辺 |
| 神田橋御門 | 神田橋の地名と橋に残る |
| 一橋御門 | 一ツ橋の地名に残る |
| 雉子橋御門 | 竹橋・一ツ橋周辺の内濠線を知る手掛かり |
門は単なる出入口ではありません。堀と石垣を組み合わせた防御施設であり、城内と城外の交通を制御する関門でした。大名屋敷の配置と門を重ねて見ると、誰がどの門に近い場所を与えられていたかという政治地理も見えてきます。
42か所の辻番が示す「高警備区域」
CODHの抽出項目を数えると、この図には辻番が42か所あります。屋敷名や役所名より目立たない小さな表示ですが、数の多さは大名小路の性格を端的に示します。
辻番は武家地の街路や辻で警戒にあたる番所です。江戸城のすぐ外側に全国の大名屋敷と幕府機関が集中するため、街路単位で監視と警備が必要でした。大名小路は壮麗な屋敷街であると同時に、細かな番所が連続する統制空間でした。
さらに「腰掛」は7か所確認できます。評定所や城門などの近くで用務を待つ人々の動線が、こうした小さな施設から浮かび上がります。
一石橋・銭瓶橋・道三橋・竜閑橋――消えた水路が街の輪郭をつくった
地図に記された6つの地名は「大名小路」「辰之口」「道三橋」「銭瓶橋」「一石橋」「竜閑橋」です。現在は道路になった堀も多いため、橋名を追うと江戸時代の水路がどこを走っていたかを復元しやすくなります。
一石橋は、日本橋川と江戸城外堀が交わる位置に架かる橋です。中央区によると、江戸時代には一石橋上から日本橋、江戸橋、常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、銭瓶橋、道三橋を含む八つの橋を望めたことから、「八見橋」「八ツ見の橋」と呼ばれました。

広重の『名所江戸百景 八ツ見のはし』は1856年の作品で、『御江戸大名小路絵図』刊行から7年後です。切絵図が平面で示した橋と水路を、錦絵では人の目線に近い都市景観として見ることができます。
現在の一石橋周辺には外堀の水面が大きく失われていますが、日本橋川と橋は残ります。橋の南西側には安政4年(1857)建立の「一石橋迷子しらせ石標」も残り、人の往来が激しかった場所の記憶を伝えています。
御厩・御畳蔵・御舂屋――政治都市の日常を支えた施設
大きな役所や屋敷に目が行きますが、地図には「御厩諏訪部八十郎」「御畳蔵」「御舂屋」も記されています。御厩は馬に関わる施設、御畳蔵は畳を保管・管理する施設名として読めます。御舂屋は「舂」の字が穀物を臼でつく意味を持つ名称です。
江戸城と大名屋敷を支えたのは、老中や奉行だけではありません。馬、建具、食料、資材を管理する実務施設が城の周囲に置かれ、巨大な政治都市の日常を支えていました。地図に残るこうした施設名は、江戸城下の「裏方」を知る貴重な手掛かりです。
一橋殿と一橋御門――御三卿の屋敷も城内縁辺にあった
北側には「一橋殿」と「一橋御門」が並びます。御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷です。地名「一ツ橋」は現在にも残り、千代田区一ツ橋周辺へつながります。
大名屋敷、幕府役所、御三卿屋敷、城門が同じ図面上に連続することで、江戸城周辺の身分秩序が空間として可視化されています。江戸城に近いこと自体が政治的意味を持つ地域でした。
大名小路の外側では幕末政治が動いていた
この図の西側に隣接する外桜田には彦根藩井伊家上屋敷があり、安政7年(1860)に井伊直弼が桜田門外で襲撃されました。事件そのものの地点は隣接図の範囲ですが、大名小路の政治空間と切り離せません。
外桜田永田町絵図と続けて見ると、桜田門、大名屋敷、永田町、霞が関まで政治中枢が連続していたことがわかります。江戸城東側の大名小路と西南側の外桜田は、幕末政治を空間から理解する二枚一組の地図です。
約200年前の江戸城と比べると都市の変化が見える
嘉永2年の切絵図を、17世紀中頃の正保年中江戸絵図で見る江戸城と比較すると、江戸城外郭と武家地が長期にわたって再編されてきたことがわかります。火災、城郭工事、藩主交代、屋敷替えによって、同じ場所でも屋敷主や用途は変化しました。
尾張屋版切絵図自体も一度刷って終わる地図ではなく、時勢に応じて改訂されました。東京都立図書館には後年の改訂版も残り、江戸城の表示や屋敷名の変化を比較できます。幕末の切絵図を読む際には、刊行年と版を確認することが人物・屋敷の特定に直結します。
明治維新後、大名屋敷街は軍用地を経てビジネス街へ変わった
明治維新で諸藩の江戸屋敷は役割を失い、丸の内一帯は政府・軍の用地へ転換しました。その後、1890年に三菱社の岩崎彌之助が丸の内の陸軍省用地など約35万平方メートルの払い下げを受けます。
軍施設の移転後、建物の少ない一帯は「三菱ヶ原」と呼ばれました。1894年には丸の内最初の本格的な洋風事務所建築となる三菱一号館が完成し、赤煉瓦の建物が並ぶ「一丁倫敦」と呼ばれる街並みへ変わっていきます。1914年には東京駅が開業し、丸の内は日本を代表するオフィス街へ成長しました。
1849年の地図で大名屋敷が並ぶ場所に東京駅、丸ビル、三菱一号館、皇居外苑が重なることになります。土地の用途は劇的に変わりましたが、堀、門跡、橋名、街路の一部は江戸の骨格を引き継いでいます。
現在の丸の内で確認できる江戸の痕跡
- 桜田門:江戸城の門が現存し、地図上の位置を直接確認できます。
- 和田倉濠:和田倉門周辺の堀の形が残ります。
- 馬場先通り:馬場先門の名称を現在へ伝えます。
- 数寄屋橋:門と橋そのものは変化しましたが地名が残ります。
- 一石橋:日本橋川に現存し、江戸の水路網を知る重要地点です。
- 常盤橋・常盤橋門跡:江戸城外郭北東部の交通結節点を伝えます。
- 神田橋:現在の橋名と道路に江戸城外郭の記憶が残ります。
- 一ツ橋:一橋家と一橋御門の名称が現代地名へ続きます。
隣接する旗本屋敷街については御江戸番町絵図、尾張屋版全体を地域別にたどる場合は尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から続けて読めます。古地図の基本的な見方は古地図まるわかりガイドで整理しています。
この一枚から読み取れる幕末江戸の政治中枢
『御江戸大名小路絵図』には、全国の大名屋敷、南北町奉行所、評定所、伝奏屋敷、営繕三役所、定火消、御三卿屋敷、城門、辻番、橋、水路、物資管理施設が同時に描かれています。現在の丸の内を「大名屋敷があった場所」とだけ説明すると、この地図の情報の大半を落としてしまいます。
1849年の丸の内は、江戸城を中心に全国諸藩の政治拠点を集め、司法、警察、消防、建設、儀礼、警備を重ねた幕府中枢の実務空間でした。明治維新後、その巨大区画は軍用地となり、さらに近代のビジネス街へ転換します。現在の東京駅前と皇居外苑の風景は、江戸の政治都市が解体され、近代国家と企業都市へ組み替えられた結果です。

