御江戸大名小路絵図を徹底解説|江戸城・丸の内・大名屋敷を古地図で読む

嘉永2年(1849)、江戸城のすぐ東側には大名屋敷がびっしりと並んでいました。現在の大手町・丸の内・皇居外苑・有楽町にあたる一帯です。「御江戸大名小路絵図」は、幕府政治の中枢と大名屋敷街を一枚に収めた尾張屋版江戸切絵図の代表的な一枚です。東京駅や丸の内のオフィス街を知る人ほど、地図に描かれた江戸との落差が鮮明に感じられます。

御江戸大名小路絵図の基本情報

国立国会図書館所蔵の「御江戸大名小路絵図」は、尾張屋清七が刊行した江戸切絵図の一枚です。国立国会図書館の書誌では嘉永2年から文久2年(1849~1862)刊のシリーズに収められ、この図の出版年は1849年とされています。東京都立図書館所蔵の同系統図では、景山致恭の識があり、嘉永2年刊として確認されています。

描かれる範囲は現在の皇居東側、大手町、丸の内、皇居外苑、有楽町付近です。江戸城の正門である大手門に近く、老中・若年寄など幕閣を担う譜代大名の屋敷、親藩や有力外様大名の上屋敷、幕府関係施設が集中していました。東京都立図書館は、この地域を「大名・旗本の役宅が集中している地域」と説明しています。

尾張屋版江戸切絵図「御江戸大名小路絵図」
『御江戸大名小路絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

最初に知っておきたい切絵図の読み方

江戸切絵図は、現代の道路地図と同じ感覚で北を上に固定して読む地図ではありません。地域ごとに見やすい向きが選ばれ、縮尺も一枚の中で完全には一定ではありません。目的地や通り道を探しやすくする実用性が優先されています。

尾張屋版では色と記号が重要です。東京都立図書館の解説では、白地は武家地、灰色は町人地、赤地は神社仏閣を表します。武家地に家紋が入る場所は大名の上屋敷、記号によって中屋敷・下屋敷なども区別されます。「誰の屋敷か」という文字だけでなく、色、家紋、門、堀、橋を追うと、江戸の都市構造が立体的になります。

大名小路絵図では白い武家地が圧倒的です。町人の商業地を中心に描く日本橋の切絵図とは見た目から違います。この差が、江戸城のすぐ外側が政治と軍事の空間だったことを伝えています。

現在のどこが描かれているのか

地図の中心となる大名小路だいみょうこうじは、現在の丸の内一帯です。東京都立図書館は、図中の松平丹波守役宅付近を現在の東京駅周辺と説明しています。現在の丸の内側から皇居へ向かうと、ビル街の先に和田倉濠、馬場先濠、日比谷濠が続きます。切絵図でも、この堀と門が地域の骨格です。

現在の東京駅は1914年開業なので、1849年の地図には存在しません。丸の内駅舎も行幸通りもオフィスビル群もなく、その場所を大名屋敷が占めています。一方で、和田倉門、馬場先門、桜田門、日比谷門などの位置関係を追うと、現在の皇居外苑と接続しやすくなります。

江戸城を囲む「門」と「堀」を読む

この地図で最初に輪郭をつかみやすいのが、青く描かれた堀です。城を囲む水面と城門が連続し、その外側に屋敷地が配置されています。CODH「江戸マップ」の翻刻では、桜田御門、日比谷御門、馬場先御門、和田倉御門、数寄屋橋御門などが確認できます。

和田倉門わだくらもんは大手門に近い重要な門でした。現在も和田倉濠と和田倉噴水公園に名が残ります。馬場先門は現在の馬場先通り、数寄屋橋門は数寄屋橋という地名につながりました。門そのものが失われても、道路名や橋名に江戸城の骨格が残っています。約200年前の江戸城と西の丸下を比較する場合は、正保年中江戸絵図で見る江戸城で家光時代の屋敷配置を確認できます。

なぜ大名屋敷がこれほど集まっているのか

江戸城周辺の屋敷配置には、幕府政治と城郭防衛が重なっています。千代田区の都市計画資料によれば、大手門前や大名小路には老中・若年寄など幕閣を担う譜代大名の屋敷や幕府諸機関が置かれ、丸の内・日比谷・霞が関には有力外様大名の上屋敷も分布していました。

上屋敷は、藩主や家族が江戸で暮らし、幕府との政治的な往来を行う拠点です。参勤交代で江戸に滞在する大名にとって、江戸城への距離は政治的な意味を持ちました。大名小路の白い区画を一つずつ追うと、全国の藩が江戸城の周囲に集約された幕藩体制の姿が見えてきます。

CODHの翻刻には、会津藩の松平肥後守、桑名藩の松平下総守、長岡藩の牧野備前守など、多数の大名屋敷が記録されています。屋敷名は藩名ではなく当主の官途名で書かれることが多いため、人物名と藩名を対応させながら読むと理解しやすくなります。

奉行所と役宅――行政都市としての江戸

大名屋敷だけを見ると、この地域が大名の住宅街だったように見えます。しかし、東京都立図書館の資料解説が指摘する通り、北町奉行所と南町奉行所も描かれています。町奉行は町人地の行政、警察、裁判などを担い、江戸の都市統治を支えました。

切絵図に「御厩」や「辻番」などの施設名が現れるのも重要です。大名屋敷、役宅、城門、番所が近接する景観は、現在の丸の内から想像しにくい一方、江戸城直近の地区が行政・警備・政治機能を集中させた場所だったことを示します。

桜田門外の変へつながる隣接地域

地図の南西側にある桜田門さくらだもんは、幕末史を代表する事件の舞台です。安政7年3月3日(1860年3月24日)、大老井伊直弼いいなおすけは登城途中、桜田門外で水戸浪士らに襲撃されて死亡しました。東京都立図書館は、この事件が幕府衰亡の一因となったと解説しています。

井伊家上屋敷そのものは隣接する外桜田・永田町側の切絵図でより明瞭に確認できます。大名小路絵図と外桜田永田町絵図を続けて見ると、江戸城へ向かう登城路と屋敷街の距離感がつながります。切絵図シリーズを複数枚並べることで、一枚では途切れる事件の地理を復元できます。

切絵図は更新され続けた

大名小路は人事異動の影響を強く受ける地域でした。東京都立図書館によると、嘉永2年の刊記を持つ同系統図でも改訂を施した複数種が確認され、役宅が変わるたびに情報が更新されたと考えられています。元治元年(1864)までに複数版が刊行されました。

慶応元年(1865)の改正再版では、江戸城を示していた葵紋が鶴と亀に替わった版も残ります。幕府による葵紋使用禁止への対応とされ、同じ題名の地図でも版によって細部が異なります。切絵図は固定された江戸の記録ではなく、都市の変化に合わせて改訂された商品でもありました。

明治維新で大名小路は消えた

明治維新は、この一帯の景観を根本から変えました。大名屋敷が取り払われ、丸の内・日比谷周辺には軍用地が置かれました。千代田区の資料では、丸の内は一時、陸軍の練兵場などが広がる場所となり、1880年代には荒涼とした景観だったことが伝えられています。

転機は軍用地の民間払い下げです。1894年に三菱一号館が竣工し、煉瓦造のオフィス街が形成されました。「一丁倫敦」と呼ばれた街並みは、大名屋敷街だった丸の内を近代的な業務地区へ変えていきます。1914年には東京駅が開業し、江戸時代の大名小路は日本を代表する玄関口とビジネス街へ姿を変えました。

現在に残る江戸の輪郭

建物の多くは失われましたが、江戸の地形と都市骨格は現在にも残っています。皇居の堀、大手門、桜田門、和田倉濠、馬場先通りなどです。丸の内の街区を歩きながら切絵図を見ると、現代の道路やビルの奥に、城門と堀を基準に組み立てられた江戸の空間が重なります。

特に東京駅丸の内口から皇居へ向かう移動は、時代の変化を比較しやすい区間です。東京駅付近の大名屋敷跡、丸の内の近代建築、行幸通り、和田倉門跡、皇居外苑へ進むと、江戸・明治・大正・現在の都市史を短い距離でたどれます。

関連する古地図:外桜田永田町絵図では井伊家上屋敷と桜田門外を、御江戸番町絵図では江戸城西側の旗本屋敷街を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料