鶯谷はなぜラブホテル街になったのか|根岸の文人文化と戦後旅館街の歴史

JR鶯谷駅の線路越しに見える2006年のホテル街 東京・街歩き・都市史
JR鶯谷駅付近のホテル街、2006年。Marcus Tièschky/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0

山手線で上野駅を出ると、列車はすぐに鶯谷うぐいすだに駅へ近づきます。

窓の西側には、上野公園、東京国立博物館、寛永寺の木々と高台があります。反対側へ目を向けると、線路沿いに宿泊施設の看板が並びます。

駅を降りても、印象は二つに分かれます。

南口の階段を上れば、寛永寺、上野桜木、東京藝術大学や博物館のある文化の丘へ向かいます。北口を出れば、飲食店とホテルが密集する低地の街路へ入ります。そこから数分歩けば、正岡子規が暮らした子規庵と、中村不折の旧居に建つ書道博物館があります。

文人の家とホテル街は、離れた「表の街」と「裏の街」ではありません。同じ根岸一・二丁目の中で、数分の距離に重なっています。

なぜ、文人が愛した根岸の里に、東京有数のラブホテル街が生まれたのでしょうか。

「明治時代に妾宅が多く、それが連れ込み旅館になった」
「吉原が近いので、その客が流れてきた」
「上野へ来た旅人向けの旅館が、東京オリンピック後に転業した」

こうした説明は、読み物や街紹介で繰り返されています。しかし、どれも地区全体の形成過程を証明する十分な一次資料が示されているとは限りません。

台東区立中央図書館は、2024年のレファレンスで、鶯谷駅北口の江戸・明治期の地誌は案内できる一方、近年の商業地域としての歴史が分かる資料を見つけられなかったと回答しています。

分からないことを、分かったように書かない。それが、この街を正確に理解する出発点です。

現在確認できる研究では、1950年代に根岸一・二丁目へ形成された連れ込み旅館群と、1970年代以降のラブホテル街との連続性が強いと考えられています。

この記事では、根岸の文人文化をホテル街の「起源」にせず、駅、旅館、街区、戦後の需要がどのように重なったかをたどります。

この記事で分かること

  • 鶯谷という正式な町名が存在しない理由
  • ホテル街が主に根岸一・二丁目にあること
  • 根岸の里に文人や芸術家が集まった背景
  • 1912年の鶯谷駅開業が地域をどう変えたか
  • 連れ込み旅館とラブホテルの違い
  • 妾宅起源説、吉原流入説を断定できない理由
  • 1950年代の旅館群と1970年代のホテル街の連続性
  • 渋谷・新宿のホテル街と形成過程が違う理由
  • 街歩きで見るべき場所と守るべきマナー

まず結論―文人の里がそのままホテル街になったのではない

鶯谷うぐいすだにのホテル街は、根岸の文人文化や妾宅が、そのまま姿を変えたものではありません。

現在までに比較的根拠を持って説明できる流れは、次のとおりです。

  1. 江戸から明治にかけて、根岸は上野の山麓にある田園・別邸・隠棲の地として知られた
  2. 文人、商人、芸術家が住み、正岡子規の周囲には文学・美術の交流が生まれた
  3. 1912年に鶯谷駅が開業し、上野の山、根岸、入谷を結ぶ駅前市街地が発展した
  4. 戦後、根岸一・二丁目に旅館・連れ込み旅館の集積が形成された
  5. 1950年代の旅館群が廃業・建て替え・ホテル化を経ながら、1970年代以降のラブホテル街へ比較的連続して発展した
  6. 駅への近さ、小規模施設の集積、線路と崖線に囲まれた街区、上野・浅草方面の夜間需要が、集積の維持に有利だったと考えられる

重要なのは、三つの歴史を混ぜないことです。

  • 根岸の里と文人文化
  • 戦後の旅館・連れ込み旅館
  • 1970年代以後のラブホテル街

同じ場所に重なっていますが、同じ制度、同じ客、同じ建物が連続したとは限りません。

鶯谷という町名は存在しない

鶯谷うぐいすだにという正式な町名は、現在の台東区にはありません。

JR鶯谷駅は台東区根岸一丁目にあります。ホテルが多く集まる北口側も、主に根岸一丁目と二丁目です。南口の西側には上野桜木、上野公園、寛永寺の高台が広がります。

鶯谷は、駅名を中心に使われる地域名です。

この違いは、歴史を調べるときに重要です。古い町名、住宅地図、区史、営業名簿を探しても、「鶯谷町」という項目は見つかりません。調べるべき地名は、上根岸、中根岸、下根岸、現在の根岸一・二丁目などです。

台東区立中央図書館のレファレンスも、北口ホテル街の範囲を「現在の根岸一丁目、旧町名では上根岸」と整理しています。

「鶯谷の歴史」を調べるときは、駅名の歴史と根岸の地域史を分け、最後に重ねる必要があります。

上野の山の麓にあった根岸の里

根岸ねぎしは、上野台地の根元に広がる低地です。

台東区の地域説明では、上野の「根」にあり、水際の「岸」だったことが地名の由来とされています。江戸時代の市街地が広がる中でも、根岸には田園、水路、梅、蛍、鶯などを楽しめる環境が残りました。

上野の山には寛永寺かんえいじがあり、その山麓にあたる根岸には、寺院関係者の施設、武家や商人の別邸、隠棲の住まいが置かれます。

根岸は、都心から遠く離れた農村ではありません。上野、下谷、浅草へ近い一方、台地の下へ入ると静かな環境が得られる場所でした。この「近いが、落ち着いている」という立地が、文人や富裕層を引きつけました。

「鶯谷」という呼び名には、寛永寺の住職が京都から鶯を取り寄せたという伝承があります。しかし、地名由来には複数の説明があるため、一つの説を確定した起源として書かないでください。

上野の山を形づくった寛永寺の歴史も、根岸との位置関係を理解する手がかりになります。

根岸の里―文人が集まった静かな郊外

明治期の根岸ねぎしには、俳人、歌人、画家、書家、新聞人が集まりました。

江戸後期には、画家で俳人でもあった酒井抱一さかい ほういつが根岸に住み、根岸にちなむ俳号を用いました。明治になると、正岡子規、中村不折、饗庭篁村、岡倉天心、幸田露伴など、この地域にゆかりを持つ文化人が知られるようになります。

子規は、1893年に次の句を詠んでいます。

雀より 鶯多き 根岸哉

この句は、根岸が鶯の里として認識されていたことを伝えます。

一方、子規には「妻よりは妾の多し門涼み」という句もあります。この一句をもって、「根岸は妾宅の街であり、それがホテル街になった」と結論づけてはいけません。

俳句は、作者の観察、誇張、諧謔、季語の働きを含む文学作品です。ある時期の社会風景を考える手がかりにはなりますが、建物の所有、旅館業への転用、地区全体の営業変化を証明する統計や土地台帳ではありません。

1890年頃に撮影された俳人・歌人の正岡子規の肖像
正岡子規の肖像、1890年頃。撮影者不詳/国立国会図書館/Wikimedia Commons/Public Domain。

写真の正岡子規まさおか しきは、1894年から1902年に亡くなるまで根岸の家で暮らしました。現在の子規庵しきあんは、1945年の空襲で焼失した後、1950年に当時の間取りを基に再建されたものです。

向かいには、子規と交流した中村不折なかむら ふせつの旧居に、台東区立書道博物館があります。

現地を歩く際は、入谷・根岸の文人と史跡を歩く記事と、中村不折と書道博物館を訪ねる記事も参考になります。

正岡子規の家は文化サロンになった

正岡子規まさおか しきは、根岸の家で病と闘いながら、俳句、短歌、随筆、批評を書き続けました。

新聞『日本』を活動の足場とし、雑誌『ホトトギス』につながる俳句運動、根岸短歌会ねぎしたんかかいでの歌論と作品批評を通じて、近代の俳句・短歌を大きく変えます。

子規の病床には、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節、夏目漱石、中村不折らが訪れました。

子規の死後は、妹の律、門弟の寒川鼠骨さむかわ そこつらが庵と資料を守ります。戦災後に子規庵が再建されたのは、個人の住居が、文学運動の記憶を共有する場所になっていたからです。

文人が集まったという点では、子規庵も人と情報のネットワークを持つ場所でした。ただし、この文化サロンと後のホテル街を「人が集まる場所」という共通点だけで直結させないでください。前者は文学・美術の交流、後者は宿泊・短時間利用の営業であり、成立した時代も制度も違います。

正岡子規と近代文学の流れをまとめた大型ガイドでは、子規の活動を作家・流派・雑誌のつながりからたどっています。

1912年、鶯谷駅が開業した

鶯谷うぐいすだに駅は、1912年7月11日に開業しました。

上野と日暮里の間に新しい駅ができたことで、根岸は鉄道から直接出入りできる市街地へ変わりました。

2017年のJR鶯谷駅南口の駅舎とタクシー
JR鶯谷駅南口、2017年。撮影:ITA-ATU/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

写真は2017年の南口です。

鶯谷駅は、上野台地の東端と根岸低地の境にあります。線路は南北に延び、西側の上野公園・寛永寺・上野桜木と、東側の根岸・入谷を分けています。南口は橋上にあり、高台側へ出やすい構造です。北口は根岸一丁目の低地へ近く、後に旅館・ホテルが集中する側です。

駅は、地域を分ける線路であると同時に、異なる地域を結ぶ入口になりました。

  • 上野公園、博物館、寛永寺へ向かう人
  • 墓参や寺院を訪れる人
  • 根岸、入谷に住む人
  • 上野、浅草、日暮里方面へ移動する人
  • 宿泊施設を利用する人

こうした異なる人流が、小さな駅に重なります。

駅開業だけでホテル街が生まれたわけではありません。しかし、駅前に外来者向けの宿泊施設が立地する条件を整えたことは確かです。

戦前から戦後へ―何が残り、何が失われたのか

根岸の市街化は、駅開業、道路整備、音無川おとなしがわの暗渠化などとともに進みました。

田園や別邸の多い地域は、住宅、商店、学校、寺院、旅館が並ぶ市街地へ変わります。

1923年の関東大震災と1945年の空襲は、東京東部へ大きな被害を与えました。根岸一帯の被害を「ほとんど無傷」または「全焼」と一括りにしないでください。場所によって被害は異なり、子規庵は空襲で焼失しました。

戦後、住宅不足、人口移動、駅前商業の再開、上野・浅草の復興にともない、台東区の宿泊需要も変化しました。

ここで注意すべきなのは、「地方から上京した労働者向け旅館が、1964年の東京五輪後に客を失ってラブホテルになった」という物語です。

分かりやすい説明ですが、鶯谷の各旅館について、開業目的、客層、転業時期を追跡した包括的な資料は確認できていません。

上野に近いことが宿泊需要を生んだ可能性は高く、戦後に旅館が増えたことも住宅地図や広告から検証できます。しかし、すべての旅館が同じ目的で開業し、同じ時期に一斉転業したと書くことはできません。

1950年代、連れ込み旅館の集積が形成された

連れ込み旅館つれこみりょかんとは、カップルの短時間利用を受け入れた旅館・貸間を指す戦後の通称です。

現在の「ラブホテル」という呼称や建物形式が定着する前、東京には一般旅館、割烹旅館、連れ込み旅館、待合や貸間に近い施設などがありました。看板に「旅館」と書かれていても、実際の客層や利用方法は同じではありません。

性社会文化史研究者の三橋順子みつはし じゅんこは、1950年代の広告、住宅地図、後年のホテル分布を照合し、鶯谷のラブホテル街は、1950年代に形成された連れ込み旅館群との連続性が強いと結論づけています。

これは重要な指摘です。

渋谷では、1950年代の連れ込み旅館が複数の坂へ分散し、1970~80年代に円山町・道玄坂側へ集中しました。新宿歌舞伎町では、戦後の盛り場の後背地へ割烹旅館や連れ込み旅館が生まれ、後から巨大なホテル街へ発展しました。鶯谷では、1950年代の旅館集積と現在のホテル街の場所が比較的よく重なります。

ただし、三橋の鶯谷論考は研究書の章として整理が進められている段階です。自治体の確定史や査読論文としてではなく、長年の住宅地図・広告調査に基づく研究者の見解として紹介してください。

1970年代、旅館はラブホテルへ変わった

1950年代の連れ込み旅館つれこみりょかんと、1970年代以降のラブホテルは、完全に同じものではありません。

戦後の連れ込み旅館は、木造の和風旅館、畳の部屋、共同または簡素な浴室など、従来の旅館に近い建物が多くありました。

1960年代後半から1970年代にかけて、モータリゼーション、建築設備、広告、性意識、住宅事情の変化に合わせ、施設は変わります。

  • 木造旅館から鉄筋コンクリートの建物へ
  • 和風の屋号から「ホテル」を名乗る施設へ
  • 宿泊中心から休憩料金を明確にした営業へ
  • 個別浴室、空調、テレビなど室内設備の充実へ
  • 外から内部を見せない入口、受付、精算方法へ

ラブホテル史を研究した金益見きむ いっきょんは、連れ込み宿からラブホテルへの変化を、性愛だけでなく、住宅事情、建築、設備、消費文化の変化として整理しています。

鶯谷では、既存の旅館群が廃業、建て替え、名称変更を繰り返しながらホテルへ変わったため、地区の位置は大きく移動しませんでした。

「同じ場所で営業が続いた」ことと、「同じ建物・同じ経営者・同じ客層が続いた」ことは別です。個別施設の営業史を確認しない限り、すべてを直系の継承と書かないでください。

なぜ鶯谷に集中し続けたのか

鶯谷のホテル街が同じ地域に集中し続けた理由は、一つではありません。

以下は、資料から確認できる立地と、そこから考えられる合理的な条件です。「証明済みの唯一の原因」ではなく、複数条件の重なりとして説明してください。

駅から近い

鶯谷駅北口からホテル街までは徒歩数分です。山手線と京浜東北線を利用でき、上野駅から一駅という近さがあります。

上野・浅草・入谷・日暮里に近い

鶯谷は巨大な観光・商業地の中心ではありませんが、上野、浅草、入谷、日暮里の間にあり、複数の人流へ接続します。この「中心地そのものではないが、複数の中心地へ近い」位置が、駅前宿泊地として機能しました。

旅館の集積がすでにあった

1950年代に連れ込み旅館群ができたことで、「鶯谷へ行けば施設がある」という認知が生まれ、後のホテル営業も同じ地域へ残りやすくなったと考えられます。

小規模な街区と建て替え

根岸一・二丁目には細い道路と小規模な敷地が多くあります。巨大な商業ビルではなく、中小規模の旅館・ホテルを建て替えながら営業する土地利用と相性がよかったと考えられます。ただし、具体的な用途地域や敷地調査なしに単純化しないでください。

線路と崖線が街の境界をつくる

鶯谷駅周辺は、上野台地、線路、陸橋、低地によって視界と動線が分かれます。駅には近い一方、大規模繁華街の表通りから少し外れています。利用者心理を一律に決めつけず、地形上の条件として説明してください。

車窓から認識される

鶯谷のホテル群は山手線や京浜東北線の車窓から見えます。この可視性が地区の存在を広く認識させた可能性がありますが、広告効果を検証した資料がない場合は推定と明記してください。

鶯谷は遊郭・赤線だったのか

結論から言えば、鶯谷駅北口のホテル街を、吉原のような公認遊郭や、戦後の赤線と同一視してはいけません。

鶯谷うぐいすだに駅の東側は吉原から遠くありません。入谷、三ノ輪、日本堤方面へ進めば、旧吉原遊郭の地域へつながります。

しかし、「近い」ことは、同じ制度、同じ営業地域、同じ形成史であることを意味しません。

吉原は、幕府公認の遊郭として町割り、出入口、貸座敷営業を統制された地域でした。戦後は旧遊郭を基盤に赤線となり、1958年の売春防止法全面施行で旧来の営業を終えます。

一方、鶯谷で確認すべき中心的な系譜は、駅前の旅館・連れ込み旅館と、そのホテル化です。

鶯谷が赤線として集団指定されたとする公的資料を確認せず、「旧赤線」と書かないでください。吉原の客が鶯谷を利用した可能性を完全に否定する必要はありませんが、それを地区形成の唯一の原因として断定できる資料もありません。

公認遊郭だった吉原の歴史と町割りを確認すると、駅前旅館を中心とする鶯谷との違いが分かります。

妾宅起源説をどう扱うか

根岸には、商人や富裕層の別宅、隠居所、妾宅があったと語られています。

正岡子規の句にも、妾の多さを詠んだ作品があります。これらは、明治期の根岸に、正妻とは別に女性を住まわせる家が存在したことを考える手がかりです。

しかし、次の段階を自動的につないではいけません。

妾宅があった
→ 待合になった
→ 連れ込み旅館になった
→ ラブホテルになった

地区全体について、この連鎖を証明する土地台帳、旅館業許可、住宅地図、営業名簿の総合調査は、公開資料から確認できません。

個別の建物で用途転換があった可能性はあります。しかし、一例と地区全体の起源は別です。

本記事では、妾宅起源説を次のように扱ってください。

  • 根岸の社会史を示す伝承・文学的手がかりとして紹介する
  • 正岡子規の句を引用する
  • ホテル街の直接起源を証明する史料ではないと明記する
  • 確定的な形成史は、1950年代の連れ込み旅館群から説明する
  • 個別建物の転用を確認できない限り、直系の継承と書かない

渋谷・新宿と比べると形成過程が違う

東京のラブホテル街は、同じ原因で形成されたわけではありません。

地域1950年代の状況1970年代以降
鶯谷・根岸連れ込み旅館群が、現在のホテル街と近い位置に形成同じ地区で建て替え・ホテル化が進み、集積が比較的連続
渋谷連れ込み旅館が複数の坂へ分散他地区が衰退し、円山町・道玄坂二丁目へ集中
新宿歌舞伎町盛り場の後背地に割烹旅館・連れ込み旅館が形成歌舞伎町二丁目へホテル街が拡大
新宿二丁目遊郭・赤線の営業地域1958年後の空洞へゲイバーなど別の店舗集積が形成

鶯谷の特徴は、1950年代の連れ込み旅館群と、後のラブホテル街の場所が比較的よく重なることです。

比較によって、「花街があればホテル街になる」「遊郭跡がホテル街になる」という単純な法則が存在しないことを明確にしてください。

地図で確認する―線路・崖線・旧町名

鶯谷うぐいすだにの歴史を地図で見るときは、現在のホテル名を探す前に、次の地形と地名を確認してください。

上野台地

駅の西側には、上野公園、寛永寺、上野桜木の高台があります。崖線を下りると根岸の低地です。

鉄道路線

山手線、京浜東北線などの線路が南北に延び、東西の移動は陸橋、地下道、駅構内に限られます。

根岸一・二丁目

北口ホテル街、元三島神社、子規庵、書道博物館は、行政上は根岸一・二丁目にあります。

旧町名・上根岸

古い区史、住宅地図、営業資料では上根岸の名称が使われます。「鶯谷」で資料が見つからない場合は旧町名を確認してください。

音無川

根岸・入谷周辺には、かつて音無川と呼ばれた流れがありました。道路整備と市街化の中で暗渠化され、現在の道路景観からは見えにくくなっています。

東京の古地図を現在地と重ねて読む方法も、旧町名と現在の街区を照合する際に役立ちます。

地図で歩く鶯谷・根岸

街歩きでは、ホテル街だけを目的地にせず、駅の南北と根岸の時間層を順に見てください。

1.鶯谷駅南口

南口は、上野公園、寛永寺、上野桜木側への入口です。橋上から線路と低地を眺めると、上野台地と根岸の高低差が分かります。南口から西側へ足を延ばすなら、鶯谷駅南口からも近い谷中の歴史散歩ガイドも参考になります。

2.寛永寺陸橋と線路

陸橋から、線路が地域を分けながら駅へ人を集めている様子を見ます。車窓からホテル群が見える位置関係も、個別ホテルを撮影せずに確認できます。

3.鶯谷駅北口

北口を出ると、飲食店、住宅、ホテルが近接しています。ホテルの入口、利用者、客待ちの車両へカメラを向けず、道路幅、建物の規模、駅からの距離を見てください。

4.元三島神社

神社と飲食店、ホテルが同じ街区に重なる景観は、根岸が単一用途の地区ではないことを示します。神社の由緒と周囲のホテル街形成を直接結び付けないでください。

5.子規庵

北口からホテルの並ぶ街路を抜けると子規庵があります。現在の建物は1950年の再建です。公開日時・料金は変動するため、公開時に公式サイトを確認してください。

6.書道博物館

子規庵の向かいには、中村不折の旧居に建つ台東区立書道博物館があります。

7.入谷・三ノ輪方面

根岸の住宅地、寺社、商店街を進むと、入谷、金杉、三ノ輪方面へつながります。上野公園から根岸・三ノ輪へ歩いた散歩レポートと、東京の歴史散歩コース集も、周辺を歩く計画に役立ちます。

歩くときの注意点

鶯谷駅北口と根岸は、歴史展示のためのテーマパークではありません。

ホテル、飲食店、神社、住宅、学校、文化施設が並び、現在も人が暮らし、働き、利用する場所です。

  • ホテルの入口、窓、駐車場へカメラを向けない
  • ホテル利用者、従業員、通行人を無断撮影しない
  • 個別ホテルの名称、料金、利用方法を詮索しない
  • 営業中の店舗や住宅をのぞき込まない
  • 客引き、酔客、車両、自転車に注意する
  • 夜間に一人で狭い路地へ入り込まない
  • 文人の里とホテル街を「高尚/低俗」と比較しない
  • 現在の住民を過去の妾宅やホテル街のイメージで決めつけない
  • 正岡子規の句を地域住民をからかう材料にしない
  • 寺社や文化施設では静かに見学する

歴史散歩の目的は、ホテルの内部や利用者を見ることではありません。上野台地、線路、駅、旧町名、旅館からホテルへの用途変化を読み、同じ地域に異なる都市機能が積み重なった過程を理解することです。

よくある疑問

鶯谷という住所はありますか?

ありません。鶯谷うぐいすだにはJR駅名と、その周辺を指す地域名です。駅とホテル街の主な所在地は台東区根岸一・二丁目です。

鶯谷は昔、遊郭や赤線だったのですか?

吉原のような公認遊郭や、旧遊郭を基盤とする赤線と同一視することはできません。鶯谷で確認すべき中心的な系譜は、戦後の旅館・連れ込み旅館と、そのラブホテル化です。

根岸の妾宅が、そのままラブホテルになったのですか?

地区全体について、その連続を証明する資料は確認できません。明治期の根岸に妾宅があったことをうかがわせる文学・地域史資料はありますが、各建物が旅館、連れ込み旅館、ホテルへ転用されたことは個別に確認する必要があります。

なぜ吉原ではなく鶯谷にホテルが集まったのですか?

吉原と鶯谷では形成史が異なります。吉原は公認遊郭と戦後赤線の歴史を持ち、鶯谷は駅前旅館・連れ込み旅館の集積がホテル街へ発展したと考えられます。

鶯谷のホテル街はいつできたのですか?

現在の研究では、1950年代に連れ込み旅館群が形成され、1970年代に建て替えやホテル化が進んだ流れが重視されています。ただし、地区全体の最初の一軒や全施設の転業年を示す包括的な公的記録は確認できていません。

現在、何軒のラブホテルがありますか?

営業状況、町域、法的区分、数え方によって変わるため、本記事では2026年現在の正確な軒数を断定しません。過去の住宅地図調査の数字を現在値へ転用しないでください。

鶯谷のラブホテルはすべて風営法上の同じ業種ですか?

外観や短時間料金だけで個別施設の法的区分を判断することはできません。旅館業法上の営業許可、風営法上の構造・設備・利用形態、建築・用途規制などを個別に確認する必要があります。

子規庵へ行くためにホテル街を通っても大丈夫ですか?

公道を歩いて子規庵や書道博物館へ行くことはできます。日中に訪れ、ホテルや利用者へカメラを向けず、施設の公開日時を公式サイトで確認してください。

まとめ―根岸の時間は一つではない

鶯谷うぐいすだにのホテル街は、根岸の文人文化がそのまま変化したものではありません。

江戸から明治の根岸は、上野の山麓にある田園、別邸、隠棲の地でした。正岡子規、中村不折らが住み、文学と美術の交流が生まれました。

1912年に鶯谷駅が開業すると、根岸は鉄道から直接出入りできる市街地になります。戦後、駅前に旅館・連れ込み旅館が集まり、1950年代の集積は、1970年代以降のラブホテル街へ比較的連続して発展しました。

ホテル街が残った条件として、次の要素が考えられます。

  • 上野駅から一駅の駅前立地
  • 上野、浅草、入谷、日暮里に近いこと
  • 既存の旅館集積と利用者の認知
  • 中小規模施設を建て替えられる街区
  • 上野台地、線路、低地がつくる境界
  • 車窓からも認識される集積

ただし、「妾宅がホテルになった」「吉原の客が流れた」「東京五輪後に旅館が一斉転業した」といった物語を、確認なしに確定史として書くことはできません。

台東区立中央図書館も、近年の商業地域史を示す資料を確認できていません。分からない部分を残したまま、住宅地図、広告、旅館業資料を積み上げていくことが必要です。

子規庵の門を出て数分歩けば、駅前のホテル街へ戻ります。

そこにあるのは「文化の街が堕落した姿」ではありません。田園、別邸、文人の住居、鉄道駅、旅館、ホテルという、異なる時代の都市機能が同じ土地へ重なった結果です。

根岸の時間は一つではありません。

静かな文学の記憶と、駅前宿泊地の歴史をどちらも正確に見ることで、鶯谷という街の本当の厚みが見えてきます。

参考文献・資料

  1. 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「鶯谷(特に北口の現在ラブホテル街となっているエリア)の歴史を調べたい」
  2. 東京都台東区役所編『台東区史 上』1955年
  3. 東京都台東区編『下谷浅草町名由来考』1967年
  4. 台東区「根岸二丁目町会」
  5. 根岸二丁目町会「根岸二丁目とは」
  6. 台東区文化ガイドブック「台東区ゆかりの巨匠たち 正岡子規」
  7. 台東区公式観光情報サイト「子規庵」
  8. 子規庵保存会 公式サイト
  9. 台東区「俳書『蓮飯は』」
  10. JR東日本「鶯谷駅開業110周年記念イベント」
  11. JR東日本「鶯谷駅」
  12. 国立国会図書館「正岡子規|近代日本人の肖像」
  13. 三橋順子「鶯谷ラブホテル街の形成過程(その1:現状把握)」
  14. 三橋順子「『東京「鶯谷ラブホテル街」の形成過程』脱稿」
  15. 三橋順子「『連れ込み旅館って知ってますか?』執筆状況」
  16. 三橋順子「坂の途中・渋谷の『性なる場』の変遷―『連れ込み旅館』から『ラブホテル街』の形成へ―」
  17. 三橋順子「新宿の『連れ込み旅館』と歌舞伎町『ラブホテル』街の形成」
  18. 金益見『ラブホテル進化論』文春新書、2008年
  19. 金益見『性愛空間の文化史―「連れ込み宿」から「ラブホ」まで』ミネルヴァ書房、2012年
  20. 井上章一『愛の空間』角川選書、1999年
  21. 石澤孝「都市における宿泊施設の立地と推移」『東北地理』43巻1号、1991年
  22. e-Gov法令検索「旅館業法」
  23. e-Gov法令検索「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」
  24. Wikimedia Commons「Shiki Masaoka.jpg」
  25. Wikimedia Commons「Uguisudani Station.jpg」
  26. Wikimedia Commons「LoveHotelsTokyo.jpg」