皇居東御苑を歩く|江戸城本丸・天守台・大奥跡を巡る歴史散歩

大手町のビル街から大手門をくぐると、道は石垣の内側へ入ります。皇居東御苑は、かつての江戸城本丸・二の丸・三の丸の一部を整備した約21万平方メートルの庭園です。現在の芝生や庭園の下には、将軍の政治と暮らしを支えた巨大な城郭の構造が残っています。

1968年10月1日から一般公開され、大手門、同心番所、百人番所、富士見櫓、天守台などを歩いて見学できます。ゆる歴史散歩会でも、大手門から本丸、二の丸へ入り、江戸城の痕跡をたどりました。

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皇居東御苑は江戸城のどこにあたる?

現在の皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部にあたります。江戸城は長禄元年(1457年)、太田道灌おおたどうかんが築いた城を基礎とし、天正18年(1590年)に江戸へ入った徳川家康とくがわいえやすが大規模な拡張を始めました。

江戸城三十六見附を示す資料
江戸城を囲んだ門と見附を示す資料。巨大な城郭は現在の皇居周辺を大きく超えて広がっていました。

徳川将軍家の城となった江戸城は、全国の大名を動員した天下普請によって拡張されました。本丸には将軍の政務と生活の中心となる御殿、二の丸には御殿と庭園、周囲には門・番所・櫓が配置されました。明治以降は皇居の一部となり、昭和36年(1961年)から昭和43年(1968年)にかけて東御苑として整備されています。

徳川将軍家の系図
徳川将軍家の系図。江戸城は初代家康から十五代慶喜まで、幕府政治の中心でした。

大手門|将軍の城へ入る正門

大手門おおてもんは江戸城の正門で、諸大名や幕府役人が本丸へ登城する主要な入口でした。現在も巨大な石垣と濠に囲まれた枡形の構造が残り、城内へ入る感覚を最も強く味わえる場所です。

皇居東御苑の江戸城大手門
江戸城大手門。Wikimedia Commons / Fg2(Public Domain)

門を通った先には、同心番所、百人番所、大番所と警備施設が続きます。同心番所どうしんばんしょは登城者を監視する詰所、百人番所ひゃくにんばんしょは本丸へ至る重要地点を守る番所でした。百人番所には甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の鉄砲百人組が交代で詰めました。

大番所は本丸に近い最後の警備拠点です。門から本丸へ近づくほど警備の密度が高くなるため、建物を順番に見るだけで江戸城の防御と登城動線が分かります。

富士見櫓|天守焼失後も本丸を見守った三重櫓

富士見櫓ふじみやぐらは本丸南端に立つ三重櫓です。明暦3年(1657年)の大火で焼失し、万治2年(1659年)に再建されました。江戸城に残る三重櫓の一つで、天守が再建されなかった後は本丸を象徴する建物として使われました。

皇居東御苑の江戸城富士見櫓
江戸城富士見櫓。撮影:江戸村のとくぞう / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

将軍はここから富士山、品川の海、両国の花火を眺めたと伝えられています。現在は周囲に高層建築が並びますが、櫓が江戸の地平線を見渡す展望施設でもあったことを想像できます。

富士見多聞|石垣の上に伸びる防御施設

富士見多聞ふじみたもんは、本丸の石垣上に残る長屋状の建物です。「多聞」は石垣に沿って長く延びる櫓で、敵への攻撃拠点や武器・物資の保管場所として使われました。

高くそびえる富士見櫓と、横へ伸びる富士見多聞を続けて見ると、江戸城の防御施設が立体的に配置されていたことが分かります。現在の東御苑で、城としての江戸城を実感しやすい場所です。

本丸大芝生|将軍の御殿と大奥があった場所

本丸中央の広大な芝生は、江戸時代には本丸御殿が建っていた場所です。御殿は大きく「表」「中奥」「大奥」に分かれ、表では幕府の公式政務や儀礼、中奥では将軍の日常政務と生活、大奥では将軍家の生活が営まれました。

大奥おおおく跡も現在は芝生の一角です。建物は残っていませんが、江戸幕府の政治と将軍家の私生活を支えた巨大な木造建築群がここに密集していました。

江戸城に関する資料画像
江戸城の歴史を伝える資料。現在の本丸大芝生には、かつて本丸御殿が広がっていました。

松の大廊下跡|忠臣蔵の発端となった場所

元禄14年(1701年)、本丸御殿の松の大廊下まつのおおろうかで、赤穂藩主浅野長矩あさのながのりが高家吉良義央きらよしひさに斬りかかりました。浅野は即日切腹、赤穂藩は改易となり、翌年の赤穂浪士討ち入りへつながります。

現在は案内標識が立つのみですが、江戸城本丸の内部で起きた事件の場所を実際に歩けます。芝生の静けさと、かつての御殿内の緊張感との落差が印象に残ります。

江戸城復元模型と天守台|日本最大級の天守はなぜ消えたのか

本丸休憩所に展示される江戸城復元模型は、寛永15年(1638年)に三代将軍徳川家光とくがわいえみつが建てた寛永度天守を再現したものです。五重6階で、天守台を含む高さは約60mに達しました。

この天守は明暦3年(1657年)の大火で焼失しました。翌年、現在残る天守台は築き直されましたが、天守は再建されませんでした。四代将軍家綱を補佐した保科正之ほしなまさゆきが、平和な時代に天守は不要として江戸の復興を優先したためです。

巨大な石垣だけが残る天守台に上ると、城の象徴を再建しなかった幕府の判断を空間の大きさとともに感じられます。模型と天守台は続けて見ると理解しやすい場所です。

展望台と汐見坂|江戸の海岸線を想像する

本丸の展望台付近には、江戸時代に「台所前三重櫓」がありました。現在は二の丸から大手町方面を見渡すことができ、城内の高低差が分かります。

汐見坂しおみざかは、本丸と二の丸を結ぶ坂です。江戸初期には日比谷の入江がこの近くまで入り込み、坂上から東京湾や佃島方面を望めたことが名の由来です。現在の東京駅や丸の内周辺が海に近い低地だった時代を想像できる場所です。

二の丸庭園|江戸の庭を絵図から再現

二の丸庭園にのまるていえんは、江戸時代の庭園がそのまま残ったものではなく、昭和43年(1968年)の東御苑公開に合わせ、18世紀半ば頃の庭園絵図を参考に再整備された回遊式庭園です。

皇居東御苑の二の丸庭園
皇居東御苑の二の丸庭園。撮影:Chris 73 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

池を中心に樹木や石組みを配した庭園には、現在ヒレナガニシキゴイも泳いでいます。城の防御施設が続く本丸側から下りてくると、二の丸が政治施設だけでなく庭園を備えた空間だったことが分かります。

梅林坂|太田道灌の時代まで遡る

梅林坂ばいりんざかは本丸と二の丸の間にある坂です。宮内庁は、太田道灌が文明10年(1478年)に菅原道真を祀る天神社を設け、梅を数百本植えたという伝承を紹介しています。

徳川家康が江戸へ入る100年以上前から、この高台には城がありました。梅林坂は、江戸城の歴史が徳川十五代よりさらに前へ続いていることを思い出させます。

実際に歩いた皇居東御苑ルート

ゆる歴史散歩会では、次の地点を中心に皇居東御苑を巡りました。リンク先は各地点のGoogleマップです。

  1. 大手門
  2. 富士見櫓
  3. 富士見多聞
  4. 江戸城天守復元模型
  5. 展望台(台所櫓跡)
  6. 汐見坂
  7. 二の丸庭園
  8. 梅林坂
  9. 天守台

大手門から番所を抜け、本丸の櫓・御殿跡・天守台を見て、汐見坂から二の丸へ下ると、江戸城の内部構造を歩く順番で理解できます。現在の開園日や入園時間は、宮内庁「皇居東御苑」で最新情報を確認できます。

参考資料