板橋宿を歩く|中山道第一の宿場、本陣跡・縁切榎・加賀藩下屋敷・近藤勇の史跡

旧中山道を歩くと、商店街や住宅地の中に「上宿」「仲宿」「平尾宿」の名残が続きます。板橋宿は江戸・日本橋を出て最初の宿場で、大名の参勤交代、旅人の休泊、物資の往来を支えた江戸北西の玄関口でした。現在も本陣・脇本陣跡、地名の由来になったとも伝わる「板橋」、江戸から続く縁切榎など、宿場の骨格をたどれます。

今回巡るのは、縁切榎えんきりえのきから旧中山道を南へ進み、上宿、石神井川の板橋、仲宿の本陣・脇本陣跡、平尾宿と追分へ。さらに加賀藩前田家の下屋敷跡と陸軍板橋火薬製造所跡、近藤勇と新選組隊士の供養塔まで足を延ばす流れです。宿場町から近代の軍需施設、幕末史まで、板橋周辺に重なった時代を一度に歩けます。

今回のコース概要

  1. 縁切榎
  2. 中山道板橋宿 上宿
  3. 板橋
  4. 板橋宿 仲宿脇本陣跡
  5. 板橋宿本陣 飯田新左衛門家跡
  6. 中山道板橋宿 仲宿跡
  7. 平尾宿脇本陣・豊田家屋敷跡
  8. 平尾追分
  9. 板橋区立加賀公園
  10. 近藤勇と新選組隊士の供養塔

板橋宿とは|江戸を出て最初の中山道の宿場

中山道なかせんどうは江戸・日本橋から京都・三条大橋へ向かう五街道の一つで、板橋宿はその第一の宿場です。板橋区の資料では、宿場は江戸側から平尾宿・仲宿・上宿の三つに分かれ、天保14年(1843)には家数573軒、人口約2,500人、旅籠54軒を数えました。本陣は仲宿に置かれ、各宿の名主が脇本陣を兼ねるなど、宿泊だけでなく人馬の継立や公用旅行を支える機能が集まっていました。

現在の旧中山道沿いには宿場建築そのものは多く残っていませんが、本陣・脇本陣の跡、寺院、橋、追分、商店街の線形が往時の町割りを伝えています。宿場の形を意識して歩くと、点在する石碑が一本の街道史としてつながります。

東京近郊の宿場町を続けて歩くなら、同じく旧街道の町並みをたどる岩淵宿の史跡散歩も比較しやすいコースです。

「板橋」の地名と石神井川に架かる橋

「板橋」という地名は古く、『延慶本平家物語』には治承4年(1180)の源頼朝挙兵に関わる記述として「板橋」の名が現れます。板橋区立郷土資料館は、地名の由来について、石神井川しゃくじいがわに架けられた木の橋を「板の橋」と呼んだという説を紹介しています。

旧中山道が石神井川を渡る現在の「板橋」は、江戸時代には太鼓状の木橋で、長さ9間(約16.2メートル)、幅3間(約5.4メートル)だったと板橋区が伝えています。宿場名、町名、区名へと広がった「板橋」の名を、実際の川と道の交点で確かめられる場所です。

縁切榎|江戸時代から知られた板橋宿の名所

縁切榎えんきりえのきは上宿側の旧中山道沿いに残る史跡で、江戸時代から板橋宿の名所として知られてきました。悪縁を断つ信仰と結びつき、庶民の参詣を集めた場所です。

幕末には、皇女和宮が徳川家茂へ降嫁するため中山道を江戸へ向かった際、縁切りを連想させるこの榎を避けたという伝承も残ります。街道の交通史と庶民信仰、幕末の大行列が一か所で交差する、板橋宿を代表する見どころです。

仲宿の本陣・脇本陣|大名や公家を迎えた宿場の中心

仲宿には、代々新左衛門を名乗った飯田家の本陣が置かれていました。本陣は参勤交代の大名、幕府の公用旅行者、公家などが休泊する格式の高い施設で、一般の旅籠とは役割が異なります。建物は現存しませんが、跡地の案内から宿場の中心位置を確認できます。

近くの仲宿脇本陣は飯田宇兵衛家が務めました。板橋区によると、幕末には14代将軍徳川家茂へ降嫁する和宮が宿泊し、明治初年には明治天皇が大宮氷川神社への行幸途中に休憩しています。旧中山道を通った人々の階層と時代の変化を具体的に感じられる史跡です。

平尾宿と平尾追分|中山道から川越街道が分かれた交通の要所

江戸側の平尾宿には豊田家の脇本陣があり、名主・問屋も兼ねました。さらに平尾追分ひらおおいわけでは中山道から川越街道が分岐しました。追分は街道の分かれ道を意味し、ここから川越方面へ向かう往来が枝分かれしていました。

現在の道路だけを見ると都市の交差点ですが、江戸時代には板橋宿が中山道と川越方面を結ぶ結節点だったことが分かります。東光寺に残る「追分地蔵」は、かつて平尾追分にあったと伝わる石造地蔵で、街道交通の痕跡を補う史料になっています。

加賀公園|加賀藩下屋敷から陸軍火薬製造所へ

板橋宿の西側には、加賀藩前田家の広大な下屋敷がありました。現在の加賀公園は、その庭園に築かれた築山の跡を含む場所です。板橋区によると、下屋敷は21万7千坪余りに及び、宿場町のすぐそばに大名屋敷の大空間が広がっていました。

明治になると一帯の一部は火薬製造の用地となり、明治9年(1876)に板橋火薬製造所が発足しました。官営工場として日本最古級の火薬製造所で、のちに陸軍火薬研究所も置かれました。現存する建物や弾道管、土塁などを含む「陸軍板橋火薬製造所跡」は国史跡に指定されています。江戸の大名屋敷から近代軍需産業へ、土地利用が大きく転換した場所です。

近藤勇と新選組隊士の供養塔|板橋に残る幕末の終章

近藤勇こんどういさみは慶応4年(1868)、流山で新政府軍に捕らえられ、板橋宿周辺へ送られたのち処刑されました。JR板橋駅東口近くの供養塔は、明治9年(1876)に元新選組隊士の永倉新八ながくらしんぱちが発起人となり、近藤勇、土方歳三、亡くなった隊士らを弔うために建立したものです。

板橋宿が江戸への出入口だったことを考えると、この場所は宿場史の終点であると同時に、幕府から明治政府へ政権が移った時代の境目にも重なります。近藤勇や新選組の足跡をさらにたどるなら、日野の新選組史跡とひの新選組まつりを巡った記事もあわせて読むと人物関係を追いやすくなります。

板橋宿を歩くと見える三つの時代

旧中山道沿いでは、江戸時代の宿場町、加賀藩下屋敷、明治以降の火薬製造所、幕末の新選組史が徒歩圏に重なっています。特に、本陣・脇本陣の位置と平尾追分を押さえてから歩くと、現在の商店街や道路が「宿場の中心」「街道の分岐」として立体的に見えてきます。

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参考にした主な公的資料