門前仲町・清澄白河の歴史散歩|富岡八幡宮・仙台堀川・小名木川を歩く

門前仲町~森下

門前仲町から清澄白河、森下へ向かう道には、江戸の信仰、水運、材木業、埋立地の開発が重なっています。富岡八幡宮と深川不動堂の門前から仙台堀川へ進み、小名木川と川船番所跡をたどると、深川がどのように広がり、江戸の暮らしを支えたのかが見えてきます。

今回の散歩では、辰巳新道深川不動堂富岡八幡宮、仙台堀川、清澄白河、小名木川、川船番所跡深川神明宮まで歩きます。

門前仲町の名は、富岡八幡宮と永代寺の門前から生まれた

門前仲町は、富岡八幡宮の別当寺だった永代寺の門前町として発展した地域です。富岡八幡宮は寛永4年(1627)に永代島へ創建され、周辺の埋立てとともに境内と門前の町が整っていきました。参詣者が集まる門前には茶屋や見世物、相撲興行なども集まり、深川有数のにぎわいを生みました。

1836年の『江戸名所図会』に描かれた富岡八幡宮周辺
『江戸名所図会』に描かれた富岡八幡宮周辺。1836年、長谷川雪旦画。国立国会図書館デジタルコレクション/パブリックドメイン。

現在の「門前仲町」という町名は昭和6年(1931)に成立しましたが、地名の背景には江戸時代以来の門前町の歴史があります。寺社と町場が一体となって発展したため、今も参道、商店街、飲食店が連続する街の骨格にその名残があります。

深川不動堂―1703年の出開帳から始まった信仰

深川不動堂は成田山新勝寺の東京別院です。元禄16年(1703)、成田山の不動明王が永代寺で出開帳され、多くの参詣者を集めました。その後も出開帳が重ねられ、明治14年(1881)に深川不動堂の本堂が建立されました。現在の新本堂は平成24年(2012)の落慶です。

富岡八幡宮と深川不動堂が隣り合う景観は、江戸の門前町が信仰と娯楽、商いを一つの地域に集めていたことをよく伝えています。

富岡八幡宮―江戸最大の八幡宮と勧進相撲

勧進相撲かんじんずもうは、寺社の修復費などを集めるために行われた相撲興行です。富岡八幡宮では貞享元年(1684)、寺社奉行の許可を得て勧進相撲が行われ、江戸勧進相撲の重要な舞台となりました。日本相撲協会も、現在の大相撲につながる発祥の地として富岡八幡宮を紹介しています。

『江戸名所図会』に描かれた富岡八幡宮の社殿と境内
『江戸名所図会』の富岡八幡宮。社殿と広い境内、周囲の町場が描かれています。1836年、長谷川雪旦画。国立国会図書館デジタルコレクション/パブリックドメイン。

境内の横綱力士碑、大関力士碑、巨人力士身長碑などは、富岡八幡宮と相撲の結びつきを今に伝えています。新横綱が誕生すると、横綱力士碑への刻印や奉納土俵入りが行われることもあります。

境内には伊能忠敬像もあります。忠敬は全国測量へ旅立つ際に富岡八幡宮へ参拝したと伝えられ、像は測量開始200年を記念して建立されました。江戸から全国へ向かう測量の出発点を、深川の地で実感できる場所です。

歌川広重が描いた富岡八幡宮境内の二軒茶屋
歌川広重「江戸高名会亭尽 深川八幡境内 二軒茶屋」。参詣と飲食が重なった門前のにぎわいが描かれています。The Metropolitan Museum of Art/CC0。

富岡八幡宮については、富岡八幡宮400年に向けた解説記事、祭礼については深川八幡祭りの記事でも詳しく紹介しています。

木場木遣と材木業―水路が支えた深川の仕事

富岡八幡宮には木場木遣之碑があります。木遣きやりは、木場で働く川並衆が材木を動かす際、作業の呼吸を合わせるために歌った労働歌です。江戸時代から続き、現在は東京都指定・江東区登録の無形民俗文化財として伝承されています。

葛飾北斎が描いた本所立川の材木置場と働く人々
葛飾北斎「本所立川」。描画地点は本所ですが、江戸東部で材木が水路と結び付いて扱われた様子がわかります。原作品1830年頃/パブリックドメイン。

深川・木場の材木業は、運河と切り離せません。大量の材木は舟や筏で運ばれ、水上で保管され、職人たちの技術によって江戸の建築需要を支えました。清澄白河に近い成等院には、材木商として幕府御用で財を築いた紀伊国屋文左衛門の墓があります。晩年は門前仲町一丁目付近に住んだと伝えられています。

仙台堀川―仙台藩の蔵屋敷へ米を運んだ水路

仙台堀川せんだいぼりがわの名は、江戸時代に現在の清澄公園西側付近にあった仙台藩の深川蔵屋敷に由来します。仙台から送られた米などがこの堀を利用して蔵屋敷へ運び込まれたため、「仙台堀」と呼ばれました。昭和40年(1965)の河川法改正で砂町運河と合わせ、現在の「仙台堀川」という名称になりました。

江戸の大名屋敷は政治の拠点であると同時に、年貢米や特産物を受け入れる物流施設でもありました。仙台堀川は、江戸と各地の藩を海運で結んだ痕跡を、現在の街路の中に残しています。

清澄白河―二つの地名が重なる街

清澄白河という駅名は、「清澄」と「白河」を組み合わせたものです。白河の町名は、寛政の改革で知られる松平定信の号「白河楽翁」にちなみます。定信の墓は霊巖寺にあり、国指定史跡となっています。

この一帯は、江戸前期から低湿地の埋立てが進み、寺町、武家地、町屋が混在する地域へ変わりました。清澄白河から人形町方面へ歩くルートは、清澄白河〜人形町の歴史散歩記事でも紹介しています。

小名木川―行徳の塩を江戸へ運んだ物流幹線

小名木川は徳川家康の江戸入府後、行徳方面の塩を江戸へ運ぶための水路として開削されました。塩は城下の生活に欠かせない物資で、やがて米、野菜、材木など多様な荷も運ばれるようになります。小名木川は江戸東部の物流を支える幹線水路へ成長しました。

葛飾北斎『深川万年橋下』に描かれた萬年橋と舟
葛飾北斎「深川万年橋下」。萬年橋の下を舟が行き交い、江戸の水辺の交通が描かれています。1823年頃/パブリックドメイン。

隅田川に近い萬年橋周辺は、北斎や広重も描いた名所です。橋の下を通る舟を眺めると、道路交通が中心となる以前の江戸で、川が「道」として機能していたことがよくわかります。

歌川広重『名所江戸百景 深川萬年橋』に描かれた萬年橋と水辺
歌川広重「名所江戸百景 深川萬年橋」。1858年。The Metropolitan Museum of Art/CC0。

川船番所―江戸へ入る人と荷を検査した川の関所

小名木川には、江戸へ出入りする船を監視する番所が置かれました。寛文元年(1661)には小名木川の中川口北岸に中川船番所が設けられ、人と物資を検査しました。水運が盛んだった江戸では、川の出入口を管理することが治安と流通の両面で重要でした。

現在の中川船番所資料館は、発掘調査で番所に関係する柱材や礎石が見つかった跡地の近くに建っています。門前仲町から森下まで歩く今回のルートでは番所跡の石碑を訪ね、さらに東へ続く小名木川の歴史を想像できます。

深川神明宮―深川村の記憶を残す場所

散歩の終盤に訪れる深川神明宮周辺は、かつての深川村と深く結びつく地域です。森下という町名も、江戸時代には深川村の一部だった土地から発展しました。門前仲町の寺社から始まり、運河、材木、町場を経て深川村の記憶へ至ると、現在の街が一度にできたのではなく、埋立てと水運を背景に段階的に広がったことがわかります。

散歩ルート

  1. 門前仲町駅・辰巳新道
  2. 深川不動堂
  3. 富岡八幡宮
  4. 仙台堀川
  5. 紀伊国屋文左衛門の墓・清澄白河周辺
  6. 小名木川・萬年橋
  7. 川船番所跡
  8. 深川神明宮・森下駅

参考資料