夜の西麻布交差点に立つと、六本木通りも外苑西通りも、周囲の高台へ向かって坂になっています。現在は飲食店や住宅が並ぶ街ですが、この高低差は、西麻布の地形と歴史を読み解く手がかりです。交差点付近の谷にはかつて笄川が流れ、その両側には武家屋敷や町場が広がっていました。
現在の「西麻布」という町名が生まれたのは1967年です。それ以前には麻布笄町、麻布霞町、麻布桜田町、麻布三軒家町などの町名がありました。夜散歩のルートをたどりながら、旧町名、笄川、武家地、坂道、近代の交通がつくった西麻布の姿を見ていきます。
西麻布は1967年に生まれた町名
江戸時代の現在の西麻布一帯には、陸奥白河藩阿部家の下屋敷をはじめとする武家地、寺地と門前、青山原宿村、麻布村の飛地、麻布三軒家町、麻布桜田町などが混在していました。明治になると霞町、笄町、桜田町、三軒家町などが成立し、1878年の郡区町村編制法施行後は麻布区に属しました。
1967年の住居表示で、麻布笄町と麻布霞町の大部分に、麻布材木町、麻布桜田町、麻布三軒家町、赤坂青山南町、赤坂青山高樹町などの一部を合わせて西麻布一〜四丁目が成立しました。現在の町名だけを見ていると消えてしまった境界が、坂や学校名、町会名には今も残っています。
江戸時代の西麻布は武家地と町場が入り組んでいた
西麻布の高台には大名の下屋敷が置かれました。坂名にもその記憶が残り、堀田坂は大名堀田家の下屋敷、北条坂は大名北条家の下屋敷に由来します。鉄砲坂の崖下には幕府の鉄砲練習場がありました。
一方、低地には川と道が通り、人の往来がありました。高台の屋敷地と谷の交通路が隣り合う地形が、西麻布に短い距離で多くの坂を生みました。現在の住宅街を歩いても、江戸の土地利用を坂の方向から読み取れます。
西麻布の地形をつくった笄川と笄橋
西麻布を理解する鍵が、現在は暗渠となった笄川です。笄川は麻布・広尾の谷を南北に流れ、天現寺橋付近で古川へ合流していました。笄公園周辺から牛坂へ向かう古い道には笄橋が架かり、川沿いの低地には水田が広がっていました。明治末頃まで「笄田んぼ」と呼ばれた地域もあります。
現在の外苑西通りは、この谷筋をたどるように延びています。西麻布交差点から周囲を見上げると、霞坂や笄坂をはじめ複数の坂が高台へ伸びています。川そのものは道路の下へ消えましたが、谷の形は街路と坂に残っています。
「笄」という地名はどこから来たのか
笄は、髪を整えたり髷に挿したりする細長い道具の名です。麻布笄町の町名は、近くにあった笄橋に由来します。1869年に周辺の町や門前を合わせて麻布笄町となり、1872年には近隣の武家地も加わりました。
笄橋の名には、平安時代の武将・源経基が関所を通る際、刀に付けていた笄を証拠として渡したという伝説があります。地名の由来には甲賀・伊賀に結びつける説も伝わっています。
旧町名は住所から消えましたが、西麻布三丁目の港区立笄小学校がその名を残しています。笄小学校は1907年開校です。地名、橋、川、学校が同じ「笄」という言葉でつながっていることが、西麻布の歴史の面白さです。
霞町の名は桜田神社につながる
西麻布のもう一つの重要な旧町名が霞町です。明治初年、霞山稲荷と呼ばれていた現在の桜田神社にちなみ「霞町」の町名が生まれました。明治20年代には町を貫く道が開かれ、霞坂と呼ばれるようになります。
その後、谷沿いの道路整備と交通の発達が進みました。1906年には路面電車が開通し、霞町の停留所周辺は人の集まる場所へ変わっていきます。現在の西麻布交差点周辺に「霞町」という旧名の記憶が重なるのは、この近代の街の成長と深く結びついています。

西麻布の坂を歴史で歩く
西麻布の坂は、単なる起伏ではなく、旧町名、武家屋敷、交通路、川の位置を伝える史料でもあります。夜散歩のルートに沿って見ると、谷と高台の関係がよく分かります。
大横丁坂
大横丁坂は西麻布三丁目にある坂です。江戸時代、この付近が俗に「大横丁」と呼ばれたことから名が付きました。富士見坂とも呼ばれていました。坂名そのものが、現在の住居表示以前の地域呼称を保存しています。

鉄砲坂
鉄砲坂は、西麻布三丁目から南麻布五丁目へ向かう坂です。江戸時代、坂の崖下に幕府の鉄砲練習場があったことから名が付きました。高低差のある地形と幕府の施設が、現在の坂名に直接残る例です。

北条坂
鉄砲坂の近くには北条坂があります。坂下近くの南側に大名北条家の下屋敷があったことが名称の由来です。鉄砲坂と合わせて歩くと、この一帯の高台に大名屋敷が並んでいた江戸時代の土地利用を立体的に捉えられます。
堀田坂
堀田坂は、西麻布四丁目から渋谷区境へ向かう坂です。江戸時代には大名堀田家の下屋敷に向かって上る道でした。外苑西通りの低地から高台へ上る現在の勾配に、かつての屋敷地との位置関係が残っています。

御太刀坂
御太刀坂は、西麻布四丁目の高台へ上る坂です。港区が2026年に公表した区内の坂一覧にも「御太刀坂(みたちざか)」として掲載されています。牛坂、堀田坂と近接しており、谷から高台へ何本もの坂が並ぶ西麻布らしい地形を体感できます。
牛坂
牛坂は笄橋へ続く古い交通路です。港区は、牛車が往来したことからこの名が付いたとしています。坂を下った先に笄川と笄橋があったため、川を渡って高台へ向かう道の姿を想像しやすい場所です。

笄坂
笄坂は、西麻布二丁目と四丁目の間を通る坂です。坂下を流れていた笄川と、その名を受けた笄町に由来します。現在の西麻布交差点周辺から高台へ上がるこの坂は、消えた川と旧町名を同時に伝えています。

霞坂
霞坂は、西麻布交差点側から六本木方面へ上る坂です。霞山稲荷に由来して霞町が成立した後、明治20年代に町を貫く道が開かれて霞坂と呼ばれました。江戸の旧街道由来ではなく、明治の都市化とともに生まれた坂という点が特徴です。
邸宅地へ変わった笄町
近代以降、高台の旧武家地は邸宅地へ姿を変えていきました。西麻布三丁目には1952年、三井家第11代総領家当主・三井八郎右衛門の邸宅が建てられました。各地の三井家関連施設の部材を集めて構成された建物で、のちに江戸東京たてもの園へ移築・復元されています。
旧笄町には三井家ゆかりの施設も点在しました。1929年には現在まで続く若葉会幼稚園が開園し、周辺には三井家の集会施設なども置かれました。住所から「笄町」が消えた後も、笄小学校や麻布上笄町会、仲笄町会などに旧町名が受け継がれています。
建築家アントニン・レーモンドも戦後、笄町に約600坪の自宅兼事務所を構えました。現在の西麻布には建物そのものは残っていませんが、武家地から近代の邸宅地へ変わった高台の性格を伝える一例です。
明治から昭和へ―外苑西通りと霞町の変化
明治期の霞町では道路や井戸、排水などが整備され、住宅も増えていきました。その後、笄川沿いの低地を通る道が都市計画によって整えられ、現在の外苑西通りへつながる街路が形成されます。
1906年には路面電車が開通し、霞町停留所周辺の交通利便性が高まりました。笄小学校が開校した1907年もこの時期です。江戸の武家地と農地の景観から、道路と交通機関を軸にした近代都市へ、西麻布周辺は大きく姿を変えました。
昭和に入ると「霞町」は交差点や停留所を通じて広く知られる地名になりました。1967年に住所としての霞町と笄町が西麻布へ統合された後も、霞坂、笄坂、笄小学校などが旧町名を受け継いでいます。
西麻布の歴史散歩ルート
このページで以前から紹介していた散歩ルートは、西麻布の谷と高台を往復しながら歴史をたどれる構成です。地図を開きながら歩くと、坂を下るたびに笄川の谷へ近づき、坂を上るたびに旧武家地の高台へ戻ることが分かります。
周辺の歴史もあわせて歩く
六本木側まで歩くなら、六本木の歴史総合ガイドで六本木の旧町名や都市化の流れを確認できます。米軍施設や外国人文化、ディスコなどを背景に夜の街へ変化した過程は、六本木が国際的な夜の街になった歴史にまとめています。
西麻布から広尾へ続けて歩く場合は、渋谷から広尾の歴史散歩、麻布の南側へ広げる場合は、元麻布・南麻布の歴史散歩もつながります。南青山から広尾へ流れていた別の川筋は、いもり川の暗渠散歩で紹介しています。
以前の西麻布〜広尾の散歩ルートは、西麻布(六本木〜広尾)の歴史を巡る夜散歩にも残しています。

