松戸駅を出て数分歩くと、旧水戸街道の町並みのそばを坂川が流れ、その先に江戸川の土手が続きます。水戸道中の宿場町、江戸川の河岸、徳川家の邸宅、明治の煉瓦土木、旧陸軍の施設が歩ける距離に重なるのが松戸です。2023年12月30日に歩いたコースをもとに、松戸宿が栄えた理由と現在たどれる史跡を歴史の流れに沿って紹介します。

松戸宿はどんな宿場だったのか
松戸宿は、日本橋から水戸城下へ向かう水戸道中の2番目の宿です。水戸道中は千住宿で日光道中から分かれ、新宿を経て江戸川を渡り、松戸、小金へと北上しました。松戸市デジタルミュージアムによると、街道沿いには317棟の建物が連なり、旅籠28軒、食物屋33軒がありました。
宿場は下横町・宮前町・一丁目・二丁目・三丁目・納屋河岸・平潟の7地区からなり、中心は本陣、脇本陣、問屋場が置かれた宮前町でした。1851年には468戸、人口2,224人に達し、毎月4と9のつく日には市が立ちました。問屋場には公用輸送のため人足25人と馬25匹が用意され、旅人や荷物を次の宿へ継ぎ送りました。
松戸宿の特色は、街道だけでなく川の交通が重なっていたことです。幕府は1616年、松戸を定船場の一つとし、江戸川対岸の金町側に金町松戸関所を置きました。旅人は渡船で江戸川を越え、松戸宿へ入りました。宿場の背後には河岸があり、人と荷物が街道から船へ、船から街道へ移っていきました。
相模台|競馬場から陸軍工兵学校へ
松戸駅東口から高台へ上がると、現在の松戸中央公園一帯に相模台の近代史が残ります。1905年に松戸競馬場が開かれましたが、狭い敷地に規定の距離を取ったため急カーブが多く、1918年に船橋へ移転しました。その系譜が現在の中山競馬場につながります。
競馬場跡には1919年、陸軍工兵学校が開校しました。工兵は架橋や鉄道敷設などの技術を担う兵科で、学校は1945年8月まで置かれました。1920年に造られた煉瓦造の正門門柱と、警備に使われた歩哨哨舎が現存し、松戸市指定有形文化財となっています。

近くの松戸市民会館には、松戸市出身の宇宙飛行士・山崎直子さんが2010年にスペースシャトル「ディスカバリー号」へ搭乗したことを記念する碑があります。宿場町、軍事教育、宇宙開発まで、松戸駅周辺には時代ごとの都市機能が重なっています。
相模台から国府台までの地形、国府台合戦、旧陸軍施設を続けて歩くなら、市川・国府台〜松戸の歴史散歩で詳しく紹介しています。
戸定邸|徳川昭武が松戸に残した明治の住まい
相模台から南へ進むと、江戸川を望む高台に戸定が丘歴史公園があります。ここに私邸を構えた徳川昭武は、水戸徳川家第11代当主で、水戸藩最後の藩主です。1867年には将軍名代としてパリ万国博覧会へ派遣され、幕末外交の最前線を経験しました。

戸定邸は1884年に座敷開きが行われ、増築を経て現在は9棟・23室が廊下で結ばれています。明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物で、国の重要文化財に指定されています。庭園は芝生を中心に、かつて江戸川や田園、遠く富士山を借景に取り込んだ構成を持ち、国の名勝です。

敷地内の戸定歴史館では、昭武と兄・徳川慶喜の資料、1867年パリ万国博覧会関係資料、松戸徳川家に伝わった品々が展示されます。宿場町の松戸に明治の徳川家の生活空間が残ったことで、幕末から明治への転換を建物と史料の両方からたどれます。
小山樋門|江戸川と坂川を結ぶ明治の煉瓦土木
戸定邸から低地へ下り、坂川沿いを進むと1898年完成の小山樋門があります。江戸川の水位が上がった際に坂川へ水が逆流するのを防ぐために造られた施設で、千葉県内に現存する煉瓦造樋門の中でも最古とされています。

三つのアーチを持つ姿から「レンガ橋」「眼鏡橋」と呼ばれ、明治期の煉瓦技術を現在へ伝えています。2016年度には土木学会選奨土木遺産に認定されました。宿場の物流を支えた川は、近代になると治水と都市整備の対象となり、その変化を小山樋門が形として残しています。
松龍寺|水戸徳川家と御鹿狩の記憶
松龍寺は、高木正次が父・広正を弔うため1613年に創建し、1650年に現在地へ移ったと伝わる浄土宗寺院です。かつては戸定が丘一帯に及ぶ広い境内を持ち、将軍が小金牧で行った御鹿狩では休息所となりました。水戸徳川家の庇護を受けたと伝わり、寺紋には三つ葉葵が使われています。
山門は細部の様式から18世紀後半の建築と推定される一間薬医門で、松戸市指定有形文化財です。松戸宿周辺で江戸時代の建築そのものを見られる貴重な地点で、街道を通った大名家と寺院の関係も伝えています。
松戸宿本陣跡|宮前町に集まった宿場の機能
旧水戸街道へ戻ると、松戸宿の中心だった宮前町に入ります。本陣は大名など身分の高い旅行者が宿泊・休息した施設です。松戸宿の本陣は幕末の火災で焼失した後に再建されましたが、間もなく明治維新を迎え、本陣としての役割を終えました。再建された建物は個人宅として残っていましたが、老朽化のため2004年に取り壊され、現在は跡地を示す碑が立っています。
本陣の近くには脇本陣と問屋場もありました。問屋場は現在の松戸郵便局付近で、宿役人が人馬の手配や公用輸送を取り仕切った場所です。現在の街路だけを見ると宿場の輪郭は薄くなっていますが、本陣・脇本陣・問屋場の位置を重ねると、宮前町が行政と交通の中心だったことが分かります。
街道の南北には「是より御料松戸宿」と示す御料榜示杭が立ち、松戸宿が幕府直轄地であることを示していました。南側は渡船場へ向かう道にあたり、旅籠、船持、船乗、魚類商が並んでいました。宿場の入口から江戸川の渡しまで、街道交通と舟運が一続きの空間をつくっていました。
松戸神社|江戸時代の社殿が残る宿場の鎮守
坂川沿いの松戸神社では、宿場の中心近くに江戸時代の建築が残ります。本殿は細部の様式から18世紀半ばの手法を示し、1736年の焼失後に再建されたものと考えられています。拝殿は1855年の安政江戸地震で倒壊した後に再建され、1867年の棟札が残っています。手水舎も1867年頃の建築です。

本殿・拝殿・手水舎は2026年3月26日、松戸市指定有形文化財となりました。本殿は松龍寺山門とともに市内最古級の建築遺構に位置づけられています。松戸神社は2026年に社殿創建400年を迎え、社殿改修事業も進められています。宿場町を歩きながら、江戸中期から幕末までの建築を同じ境内で見比べられる場所です。
松先橋から納屋河岸へ|宿場を支えた江戸川舟運
松戸神社から坂川沿いに進み、松先橋跡周辺を抜けると、江戸川に近い納屋河岸へ向かいます。松戸の河岸は街道の脇に付属した小さな船着場ではなく、江戸へ物資を送る流通拠点でした。納屋河岸は良庵河岸とも呼ばれ、穀物、野菜、魚、薪、炭などが集まりました。
代表的な物流が鮮魚街道です。銚子沖でとれた魚は船で利根川をさかのぼり、布佐河岸で陸揚げされました。そこから馬で松戸河岸まで運ばれ、再び船に積み替えて行徳を経て日本橋の魚市場へ向かいました。鉄道が整う前の松戸は、街道と舟運を接続する物流ターミナルとして機能していました。
松戸の河岸には、旅客中心の渡船場、物資を扱う納屋河岸、船宿が集まった平潟河岸という異なる性格の場所がありました。平潟は旧江戸川の蛇行部にできた船溜まりから発展しましたが、1731年の河川改修で河岸機能が移ると、地域の性格も変化しました。川筋の変化が町の仕事と景観まで変えたことが分かります。
千葉周作修行の地|松戸宿で剣術を磨いた青年期
松戸駅へ戻る途中、宝光院と善照寺の間には幕末の剣豪・千葉周作が修行した土地があります。1809年、15歳の周作は一家で松戸宿へ移り、当地の剣術家浅利又七郎の道場で学びました。後に江戸で修行を重ね、北辰一刀流を開き、神田お玉ヶ池に玄武館を構えます。
父は馬医者として宝光院参道付近で開業し、浦山寿貞と称しました。宝光院境内には浅利又七郎の供養碑と浦山寿貞の墓が残ります。大名や旅人、商人だけでなく、江戸へ向かう若い剣士の修行生活まで宿場の歴史に重なっています。
松戸宿の史跡を巡るコース
今回歩いた順路です。相模台の高台から戸定邸へ下り、坂川と旧水戸街道、江戸川の河岸へ進むと、近代史から宿場・舟運へ時代をさかのぼるように歩けます。
- 相模台の変遷
- 陸軍工兵学校歩哨哨舎
- 山崎直子宇宙飛行士スペースシャトル搭乗記念碑
- 戸定が丘歴史公園
- 小山樋門
- 松龍寺山門
- 旧松戸宿本陣跡地
- 松戸神社
- 松先橋跡
- 納屋川岸跡
- 千葉周作修行之地・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
- 松戸駅
旧松戸宿をさらに細かく見るなら、問屋場跡、脇本陣跡、御料榜示杭跡、平潟河岸跡も近い位置にあります。本陣だけでなく、宿場の入口、行政機能、舟運まで位置関係を追うと、松戸宿の町の広がりをつかみやすくなります。
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