岩淵宿の史跡を巡ります

1)赤羽八幡神社

赤羽八幡として知られ、昔の赤羽村、下村、袋村、岩淵宿、稲付村の惣鎮守でした。伝説では、延暦3年(784)に征夷大将軍の坂上田村麻呂が東夷征伐の折、この地に陣を取り、遙かに八幡三神を勧請して武運長久を祈られ、その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、太田道灌の父・資清が社領として土地を寄進し、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとあります。社の前に「なで牛」が鎮座し、この牛をなでると学業が成就すると言われています。

http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/271-2/

2)宝幢院前の道標

門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文5年(1740)12月に了運という僧侶によって造立されたものです。

宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東川口善光寺道日光岩付道」・「西西国冨士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川ロへと船で渡り、鳩ケ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から冨士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていました。道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。

https://www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/rekishi/fureru/bunkazai/akabane/michishirube.html

3)天王山 淵富院 正光寺

先々代の住職が鏡を集め、溶かして作ったと言われている明治3(1870)年作の観世音菩薩がある。岩淵で一番古い寺として知られ、かつて縁日の植木市が大変な賑わいだったが、昭和53 (1978) 年、ホームレスの不始末により本堂が焼失した。東京都北区都市計画道路図に境内を通り抜ける計画があるためか、30年経った今でも再建されていない。

https://www.jinriki.info/kaidolist/nikkoonarido/hongooiwake_iwabuchi/iwabuchi/

岩淵大観音
昔から岩淵の町は水害に悩まされてきました。明治3年、時の住職は人々をなんとか水害から守ってあげられるようにと願いを込め、銅や浄財を募り三丈三尺の正観音を建立したのでした。以来、岩淵大観音は地域の人々を静かに見守り続けています。

https://www.sk-j.or.jp/temple/ground

4)岩淵八雲神社

八雲神社の創建年代は不明ですが、江戸時代には日光御成道の岩淵宿鎮守として崇敬篤く、 荒川流域のため水神社がまつられています。

また、祭神である須佐之男尊(すさのおのみこと)の伝説(須佐之男尊がキュウリの上に降り立ったことから、 キュウリを尊ぶようになった)により、古くは氏子たちはキュウリを食べなかったようです。

境内に建つ「岩淵町名存続之碑」は、 昭和37年に制定された「住居表示に関する法律」により、 全国的に由緒ある地名が消えていく中、 町民の方々の地道な存続運動を続けてきた結果、 存続することになったことを記念して建設されたものです。

蔵には勝海舟(かつかいしゅう)自筆の大旗が保管されています。これは明治になったある日に勝海舟のもとに岩淵宿から3人の男が訪ねて、神社に奉納する大のぼりに字を書いてほしいと願い出たからとされています。

http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/227-2/

5)岩淵渡船場跡

日光御成道の最初の宿場町・岩淵宿から、川口宿に向かうための渡船場がありました。 渡船場は奥州との交通の拠点として古くから利用され、「義経記」(ぎけいき) によると、義経は川口からこの渡しを渡り、岩淵本宿を通り板橋へ抜けたことが うかがわれます。江戸時代は将軍の日光東照宮参詣のために専用道が整備されました。 また、川口善光寺が名所として賑わうようになると、 開帳の時には船橋が架けられたそうです。

明治時代以降、新荒川大橋が開通するとその役目を終え、撤去されました。

http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/255-2/

6)岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑

岩淵は街道が通っている上に荒川に面した場所。陸運・水運ともに有利で、多くの物資が集積する町でした。よって、いわゆる問屋さんを想像しがちですが、宿場における問屋(といや)はちょっと意味が違うようです。問屋(といや)とは『江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課(すけごうふか)などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった』とのこと。

旅路をサポートする重要な役割を担うわけですね。人足や馬を用意し、次の宿場までの手助けなどの労務を、周辺の地元民に課したりする業務を行っていました。ほぼ役人?のような印象ですが、宿場町とその周辺の村々が、こういった役割を担うのは普通のことだったようです。

宿場町で重要な役割というと、まず『本陣』を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。宿泊施設の提供を中心とする役割ですね。本陣と問屋場、これが江戸時代の宿場の中核機能だったことは間違いありません。どちらも地元の有力者が務めたようですが、両方を兼ねることも結構多かったようです。

かつてここが宿場だったことを感じさせてくれるものは少なくなっています。目立つ石碑ではありませんが、貴重な目印ですね。

https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/590/0
この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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