近衛師団
大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊(軍隊)として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。帝国陸軍における軍隊符号はGD(一般師団はD)。太平洋戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には近衛第1師団 (1GD)・近衛第2師団 (2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成された。現在、皇居の警備は主に、警察庁の附属機関である皇宮警察本部が担っている。
参考① 皇居北の丸公園の近衛部隊史跡巡り
参考② 皇居の近くにひっそりとある7つのベンチは陣地跡
師団(Division)
軍隊の部隊編制単位の一つ。旅団・団より大きく、軍団・軍より小さい。師団は、主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位とされることが多い。多くの陸軍では、いくつかの旅団・団または連隊を含み、いくつかの師団が集まって軍団・軍等を構成する。
近衛歩兵第一聨隊跡記念碑
近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治七年(1874)一月二十三日、明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和二十年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、七十一年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、大正天皇今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ十年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい熟功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。
昭和四十二年一月二十三日
全国近步一会
近衛歩兵第二聯隊記念碑
明治七年(1874)一月二十三日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和二十年大東亜戦争の終結に至るまで、七十余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護任じ、この間明治十年西南の役、ついで日清日露の各戦役に出戦し更に昭和には、日支事変にて南支、佛印へ出征し、輝かしい勳功を残した。近衛兵は毎年全国から選抜された。優秀な壮丁を以って編成されていた。
平成十年一月二十三日
全国近步二会
怡和園(いわえん)跡
幕末の江戸城北の丸には、田安家(西側)と清水家(東側)の屋敷があった。明治維新になって日本陸軍創設に伴い、田安家の跡に近衛歩兵第一聯隊、清水家の跡に同第二聯隊の兵営が建てられ、終戦までこの地に駐屯して皇居の守護に任じていた。ここは近衛歩兵第一聯隊の地域で、明治中頃までは土を盛り上げただけの土提であったものを、明治四十一年に手を入れて、広場や四阿(あずまや)を設け、花卉(かき)を植えて小庭園を造り、時の聯隊長由比光衛大佐はこれに恰和園と命名し、この石碑を建てた。雨来将兵の散策や憩いの庭として、また体操や訓練の場として長く親しまれていた。戦後北の丸公園造成の際、この庭園は現状の如くその様相を変え、石碑は地中に埋められたが、その僅かに出ていた石碑の頭部を発見し、これを発掘して再建した。ちなみに「怡和(いわ)」とは、「喜び和らぐ」の意である。
平成元年九月吉日
近衛歩兵第一聯隊会誌す
北白川宮能久親王銅像
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847~1895)は伏見宮邦家親王の第九皇子とし御誕生。嘉永元年(1848)青蓮院宮御相続、安政五年(1858)輪王寺宫御相痪、公現法親王(俗名能)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。明治三年(1870)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅命によりブロシヤ国留学を命ぜられ、同園歩・砲兵隊参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同五年北白川官御相続遊ばされた。同十七年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一団長、参謀本部御出社。同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出炎熱の地で使病に罹らせ給い、明治二十八年十月二十八日(1895)台南に於て薨去遊ばされた。御年四十九歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章類飾および助三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御された。
銅像は、明治三十六年一月二十六日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二聯隊正門前(現在地より東方六十メートル)に建立されたが、昭和三十八年の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。製作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた新界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。鋳造は陸軍砲兵工廠である。建立礎八十余年を経て若干個所の損傷を見るに至ったので、昭和六十年有志相諮り修復した。
昭和六十年十月二十八日
親王九十年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す
旧近衛師団司令部庁舎
(千代田区観光協会HPより)
1910(明治43)年に竣工した「旧近衛師団司令部庁舎」は、当時の陸軍技師で、他にも多くの軍事関連施設を手がけていた田村鎭が設計を担当。もとはその名の通り近衛師団司令部として使われ、北の丸地区の中央に建設されました。関東大震災や第二次大戦をくぐりぬけ、現在に至るまで、ほぼ完全な姿をとどめています。
二階建て赤レンガ造りの建物は、正面中央の玄関部分には八角形の塔屋があり、屋根はスレート葺きの、簡素なゴシック様式。丸の内や霞が関のレンガ造りの官庁建築が消滅していくなか、「旧近衛師団司令部庁舎」は当時の形態が残されいる数少ない明治洋風建築です。
戦後になると、皇宮警察が職員宿舎として利用していましたが、1963年以降は空き施設となり、1966(昭和41)年には北の丸地区の整備のため、取り壊しの計画が立てられました。ですが「旧近衛師団司令部庁舎は、明治洋風レンガ建築の一典型である」と、取り壊しを惜しむ声が上がり、建築家の谷口吉郎が率先して保存運動を実施。日本建築学会などの陳情や意見書の提出により、1972(昭和47)年に国指定重要文化財として残されることになりました。
その翌年の1973年、谷口吉郎の設計によって改修工事が開始されます。建物の内側に鉄筋コンクリートの構造体を設け、屋根は震災後に改修された棧瓦葺から建築当初のスレート葺に復原されました。
その後1977(昭和52)年に一部を改装し「東京国立近代美術館工芸館」として利用されていましたが、2020年2月28日に移転のため閉館。現在入館はできませんが外観は柵の外から見ることができます。
近隣には「東京国立近代美術館」「科学技術館」などの文化的施設や、桜の名所である「千鳥ケ淵緑道」「千鳥ケ淵公園」、歴史が感じられる「清水門」「江戸城跡」など、見所が盛りだくさん。北の丸公園を散策しながら、「旧近衛師団司令部庁舎」を含む歴史的建造物を観察するのもおすすめです。
千鳥ヶ淵高射機関砲台座跡
東京都千代田区の千鳥ヶ淵付近に位置する戦争遺跡です。1944年(昭和19年)、皇居を防衛する目的で設置された「九八式高射機関砲」の台座が7基存在します。これらの台座は、中心部に軸を据え、360度の方向に砲撃できる構造となっていました。
当時、近衛機関砲第一大隊がこれらの台座から高射機関砲を用いて、上空を飛来する敵機に対して迎撃を行っていました。しかし、射程距離が限られていたため、高高度を飛行するB-29爆撃機に対しては効果的な迎撃が難しかったとされています。さらに、外れた弾丸が市街地に落下し、民間人に被害を与えることもありました。
現在、これらの台座は「千鳥ヶ淵さんぽみち」沿いに位置し、蓋がされて散策者が休憩できるようになっていますが、周囲に説明板などは設置されていません。そのため、これらの遺構の歴史的背景を知らないと、単なるベンチと見過ごしてしまう可能性があります。
また、近くには旧近衛師団司令部として使用されていた赤レンガ造りの建物があり、現在は東京国立近代美術館工芸館として利用されています。この建物も歴史的価値が高く、併せて訪れることをおすすめします。
千鳥ヶ淵高射機関砲台座跡は、戦争の歴史を今に伝える貴重な遺構として、訪れる人々に平和の大切さを考えさせる場所となっています。