今回訪れる予定の場所
チーム1️⃣
専堂坊屋敷跡之碑
本地には、浅草発展の基を拓いた土師中知の旧居宅地(通称専堂坊屋敷)が存在した。浅草の総鎮守浅草神社は、江戸時代には三社権現と称し、主祭神は一之宮の土師真中知命(土師中知)、二之宮の檜前浜成命、三之宮の檜前竹成命で、この三神は郷土浅草の開拓者であり、推古天皇三十六年(六二八年)三月十八日浅草寺の本尊たる観世音菩薩の尊像を感得し、護持供養に生涯を捧げた篤信者第一号にあたる人々である。この三氏の子孫は主祭神の末孫として公認され、世襲の特権を有し、それぞれ中知の子孫は専堂坊、浜成の子孫は齊頭坊、竹成の子孫は常音坊の三譜代と称し、千三百六十有余年連綿と相続されてきた。(平成元年専堂坊職を返上することで譜代職は消滅した)本碑は土師中知の篤信を末代まで顕彰するため、土師中知の旧居宅地花克(専堂坊屋敷)である本地に建立するものである。
久保田万太郎句碑
久保田万太郎(1889-1963)は、日本の小説家、劇作家、俳人。浅草生まれ。耽美派(三田派)の新進作家として登場。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。
チーム2️⃣
藏前神社
当社は、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6年(1693)、山城國男山(京都)の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤く尊崇せられ、御朱印社領200石を寄進せられました。境内は、明治維新当時約1,800坪ありましたが、現在では、賃貸地を含めても、社有地は僅か612坪程となってしまいました。この奉納力持が開催された御藏前八幡宮(現・藏前神社、旧・石清水八幡宮)は、勧進大相撲発祥の地であり、天保4年(1833)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に勧進大相撲興行が打たれた3大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられ、なかでも、天明2年(1782)2月場所では、63連勝の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れた一番は江戸中が大騒ぎとなりました。
御祭神
- 應神天皇 (おうじんてんのう)
- 神功皇后 (じんぐうこうごう)
- 姫大神(ひめのおおかみ)
- 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
- 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
- 塩土翁命(しおつちのおきなのみこと)
チーム3️⃣
チーム4️⃣
浅草天文台跡
江戸時代の天文台の歴史
1690年 本所二つ目
1703年 駿河台
1747年 神田佐久間町
1765年 牛込
1782年 浅草片町裏
葛飾北斎の富嶽百景に描かれている。
江戸幕府崩壊後、機器類は開成学校 (東京大学の前身) に引き継がれた。
確認テスト
今回はありません