


志村について
東京都板橋区志村(しむら)は一丁目から三丁目がある。武蔵野台地成増台の高台と、荒川低地の沖積層の境目にあたる。区の中央部を小豆沢から赤塚にかけてほぼ東西に横断する崖線が二丁目・三丁目の町域を通り、およそ20mの急峻な高低差に多くの坂道が作られている。南部の一丁目では谷戸地形も見られ、前野町との境界、首都高速5号線の高架に向けて急な下り勾配が形成されている。
地名の由来
「志村」は古くには「しのむら」と称されたと伝えられる。篠が生い茂っていた土地に開村したことが由来で、鎌倉時代の歴史記録『吾妻鏡』に記されている。
今回いくところ
以下のリンクはGoogleマップのリンクです。マップの保存をしていれば説明がみれます。マップの保存についてはこちら。
- 熊野神社の樹林
- 城山熊野神社境内
長久3年(1042年)に当地の豪族であった志村将監が紀州熊野から勧進したと伝えられている。また、天喜年間に源義家が父頼義と共に奥州へ追討の際に武運長久の祈願をしたとも伝わっている。後の1455年に千葉自胤が志村城に入ると志村城の守護神と定められた。
志村城は大永4年1524年に北条氏綱に攻められ落城し、そのまま廃城になった。 - 旧志村役場跡
- 志村の崖線
- 志村清水坂
日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったといわれています。坂の下には板橋・蕨両宿を繋ぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和三十年頃までは旧街道の面影をのこていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。 - 板橋区立志村清水坂緑地
- 薬師の泉跡
八代将軍徳川吉宗が鷹狩をした際に大善寺で休憩し、境内から湧出する清水を賞して、本尊を「清水薬師」と命名しています。この豊かな湧泉は、中山道を往来する旅人や江戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場として賑わったそうです。 - 富士大山道道標・庚申塔
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
庚申待(庚申講)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。 - 志村延命寺板碑群
板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑色片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。 - 見次公園
- 志村一里塚
道路の両脇にある。1604年(慶長9年)に日本橋起点3里地点を示す志村一里塚が造られた。
全国的にも珍しい、当時から動かず当時のまま残っている一里塚。 - 旧齋藤商店
1889(明治22)年創業で竹材・竹製品を取り扱う「齋藤商店」(板橋区小豆沢2)が2022年12月30日、閉店した。