高輪・泉岳寺・三田の歴史散歩|東禅寺・高輪大木戸・伊皿子貝塚・亀塚を歩く

グランドプリンスホテル高輪の日本庭園、青いライトアップと池を彩る竹あかり

高輪・泉岳寺・三田は、東京湾に面していた低地と、その西側に続く高台が近接する地域です。海沿いには東海道が通り、江戸の入口を示す高輪大木戸が置かれました。台地側には寺院や大名屋敷が並び、幕末には外国公使館も集中しました。さらに三田四丁目では、約4,000年前の伊皿子いさらご貝塚をはじめ、縄文・弥生・古墳・奈良平安期の遺構が重なって見つかっています。

この散歩では、洞坂、最初のイギリス公使館が置かれた東禅寺、柴田錬三郎旧居、泉岳寺、国史跡の高輪大木戸跡、亀塚公園、伊皿子貝塚周辺をたどります。古代の海辺、江戸の街道と寺町、幕末外交、近代文学まで、同じ高輪・三田の地形の上に積み重なった歴史を歩いて確かめられるコースです。

今回のコース概要

  1. 洞坂
  2. 東禅寺・最初のイギリス公使館跡
  3. 柴田錬三郎旧居
  4. 泉岳寺
  5. 高輪大木戸跡
  6. 亀塚公園
  7. 伊皿子貝塚周辺

港区が示す三田・高輪地区の散歩道でも、東禅寺、洞坂、泉岳寺、高輪大木戸跡、亀塚公園、三田台公園などが歴史資源として結ばれています。坂道が多いのは、この一帯が台地と旧海岸低地の境目にあるためです。現在の第一京浜から高台へ上がるだけでも、高輪の歴史を形づくった高低差がよく分かります。

高輪は「江戸の南の玄関口」だった

港区によると、「高輪」という地名は戦国時代の記録にも現れます。「高縄手道」の略で、高台に延びるまっすぐな道を意味したとする説があり、江戸時代には現在の表記が定着しました。高輪の東側には海が迫り、その海岸沿いを東海道が南へ延びていました。

泉岳寺駅周辺は、江戸時代には芝車町、俗に「高輪牛町」と呼ばれました。大きな石材や木材を運ぶ牛車を扱う人々が集住し、最盛期には多くの牛が飼われていた地域です。歌川広重が1857年に描いた「高輪うしまち」には、大きな牛車の車輪越しに江戸湾と帆船が見えます。現在の市街地からは想像しにくい、高輪が海辺だった時代の景観が伝わります。

高輪の海岸線、高輪築堤、伊皿子貝塚まで時代順に見たい場合は、高輪ゲートウェイの歴史を歩く|高輪築堤・伊皿子貝塚・高輪大木戸・亀塚を巡るで詳しく紹介しています。

東禅寺|日本最初のイギリス公使館が置かれた寺

安政6年(1859)、イギリス初代駐日総領事ラザフォード・オールコックの宿舎として高輪の東禅寺が使われ、イギリス公使館となりました。開国直後の江戸では外国人の安全を確保できる場所が限られ、寺院が公使館や宿館として利用されています。

高輪に外国公館が集まった背景には地形と交通があります。港区の資料は、高台から江戸湾を見渡せ、海上の艦船と連絡しやすく、江戸と開港場・横浜の間に位置していたことを挙げています。イギリスの東禅寺だけでなく、フランスの済海寺、オランダの長応寺などもこの一帯に置かれました。現在も港区に多くの大使館がある都市史の起点の一つが、幕末の高輪です。

文久元年(1861)には水戸浪士らが東禅寺を襲撃する東禅寺事件が起き、翌年にも警護役の松本藩士による襲撃が発生しました。港区立郷土歴史館には、事件の警護にあたった幕臣へイギリス政府から贈られた銀製メダルなども伝わっています。静かな寺院境内は、開国直後の緊迫した外交の現場でもありました。

江戸末期の高輪を古地図から読み解くなら、芝高輪辺絵図を徹底解説|高輪大木戸・泉岳寺・東海道もあわせて見ると、寺院・大名屋敷・街道の位置関係がつかみやすくなります。

泉岳寺|赤穂義士だけではない、江戸曹洞宗の学問拠点

泉岳寺は慶長17年(1612)に外桜田で創建され、寛永18年(1641)の大火後に高輪へ移転しました。毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が移転再建に尽力し、その後も寺を支えています。

江戸時代の泉岳寺は、青松寺・総泉寺と並ぶ曹洞宗の「江戸三ヶ寺」の一つでした。さらに江戸三学寮の一つとして僧侶教育の中心となり、境内には出身地別の寮舎が並び、常時約200人の学僧が学んだと泉岳寺は伝えています。赤穂義士の墓所として著名ですが、宗派行政と教育を担った大寺院として見ると、境内の規模や山門の意味がより明確になります。

浅野家の菩提寺だったことから、元禄15年(1702)の討入り後、赤穂義士は主君・浅野長矩の墓のそばに葬られました。現存する山門は天保9年(1838)の再建です。境内では、大石内蔵助像、義士墓所、赤穂義士記念館に加え、江戸の学寮寺院としての歴史にも目を向けると、泉岳寺の姿を立体的に追えます。

泉岳寺から高輪・品川方面へさらに歩く散歩は、高輪ゲートウェイ〜品川・五反田の歴史散歩|高輪大木戸・泉岳寺・旧島津家本邸にもつながります。

柴田錬三郎旧居|三田文学から時代小説へ

柴田錬三郎しばたれんざぶろう(1917~1978)は、慶應義塾大学で学び、在学中から『三田文学』に作品を発表しました。1951年に『イエスの裔』で直木賞を受賞し、その後は『眠狂四郎無頼控』などの時代小説で広く知られます。寺院や街道史が中心になりやすい高輪散歩の中で、近代以降の文学史へ時代を切り替える地点です。

高輪大木戸跡|東海道に残る江戸の境界

高輪大木戸跡たかなわおおきどあとは、宝永7年(1710)に東海道口へ設けられた江戸の南側の出入口です。人の出入りを管理する木戸と石垣が築かれ、旅人を送迎する人々や茶屋でにぎわいました。現在は第一京浜沿いに東側の石垣が残り、1928年に国の史跡へ指定されています。

享和年間には伊能忠敬が全国測量の基点とした場所でもあります。現代の高輪ゲートウェイ駅に近い場所で、江戸時代にも「都市の入口」が意識されていたことが分かる史跡です。石垣だけを見るより、すぐ東側にかつて海があり、東海道を人馬が往来していた風景を重ねると位置の意味がつかみやすくなります。

亀塚公園|古代の伝承と江戸の大名屋敷が重なる

三田四丁目の亀塚公園には「亀塚」が保存されています。江戸時代、この一帯は上野国沼田藩土岐家の下屋敷でした。寛延3年(1750)には塚の頂部に亀山碑が建てられ、『更級日記』に記された竹芝寺伝説や、亀にまつわる土地の伝承が刻まれています。

亀塚の周辺は、縄文時代から古代の遺構が集まる三田台の一角です。江戸の大名が古い塚と伝承に関心を持ち、その由来を石碑に残したため、現在の公園では考古学的な時間と江戸時代の記憶を同じ場所で見ることができます。近くには元和キリシタン遺跡や済海寺などもあり、三田四丁目は短い距離に異なる時代の史跡が密集しています。

高輪皇族邸周辺から赤穂義士ゆかりの旧細川家下屋敷跡へ歩いた記録は、高輪皇族邸と裏路地を歩く|白金高輪発・歴史散歩開催レポートで紹介しています。

伊皿子貝塚|三田に残る約4,000年前の海辺の暮らし

伊皿子いさらご貝塚遺跡は三田四丁目にあり、1978年夏から約1年半にわたる発掘調査が行われました。縄文時代後期の敷石住居跡と貝塚、弥生時代中期の方形周溝墓、古墳時代後期の住居跡、奈良・平安時代の住居跡が確認され、出土品は約1万2,000点にのぼります。

約4,000年前、この台地の東側には海が広がっていました。貝殻や魚に関係する遺物は、現在の三田が海辺の生活圏だった時代を伝えます。江戸時代にはその低地側を東海道が通り、さらに明治には海上へ高輪築堤が築かれました。伊皿子貝塚、高輪大木戸、高輪築堤を一本の線で見ると、この地域の歴史が「海岸線の移動」と深く結びついていることが分かります。

高輪・泉岳寺・三田を歩くと見える4つの時代

  • 縄文・古代:伊皿子貝塚、三田台、亀塚
  • 江戸:東海道、高輪大木戸、高輪牛町、泉岳寺、土岐家下屋敷
  • 幕末:東禅寺のイギリス公使館と東禅寺事件
  • 近現代:柴田錬三郎をはじめとする三田・高輪の文学と都市の変化

史跡を個別に見るより、台地と旧海岸線を意識して歩くと、高輪大木戸がなぜここに置かれたのか、外国公館がなぜ高輪に集まったのか、伊皿子貝塚がなぜこの場所に残ったのかが一つの地形の中でつながります。

2024年1月6日開催レポート|夜の高輪から泉岳寺・三田へ

2024年1月6日17時30分から、11人で高輪・泉岳寺・三田エリアを歩きました。今回は夕方から夜にかけての歴史散歩です。高輪の日本庭園を出発し、泉岳寺、高輪大木戸跡を経て、三田台の亀塚公園方面へ。現在の街並みの中に残る江戸の街道、寺院、台地と低地の高低差、さらに古代以前の暮らしまで、時代を大きく行き来するコースになりました。

ライトアップされた高輪の日本庭園からスタート

集合場所はグランドプリンスホテル高輪周辺の日本庭園です。高輪の日本庭園は約2万平方メートルあり、池や樹木に加えて歴史的建造物が点在します。現在の庭園は1971年、旧高輪プリンスホテルの新築に伴って造られ、作庭は皇居新宮殿の庭園にも携わった楠岡悌二くすおかていじによるものです。庭園内の観音堂・鐘楼・山門は2021年に港区指定有形文化財となっています。

グランドプリンスホテル高輪の日本庭園、青いライトアップと池を彩る竹あかり
歴史散歩のスタートは高輪の日本庭園。池の周囲を竹あかりと青いライトアップが彩っていました。
グランドプリンスホテル高輪の日本庭園にある橋と山門の夜景
日本庭園の橋と山門。夜の照明の中で庭園内の歴史的な景観を楽しみました。

青いライトに照らされた木々と池、竹あかりがつくる夜景は、昼間の庭園とは違う表情です。まず庭園内で集合し、この日の散歩を始めました。

グランドプリンスホテル高輪の日本庭園で集合する歴史散歩参加者
2024年1月6日、11人で高輪・泉岳寺・三田の歴史散歩をスタートしました。

泉岳寺で赤穂義士と江戸の学問寺院の歴史を見る

高輪から泉岳寺へ移動しました。泉岳寺は赤穂義士の墓所として広く知られていますが、江戸時代には曹洞宗の学問寺院としても重要な場所でした。前章で紹介したように、僧侶が学ぶ学寮を備え、多くの学僧が集まった寺院です。現地では山門や境内のたたずまいを見ながら、忠臣蔵だけにとどまらない泉岳寺の歴史をたどりました。

泉岳寺山門前を歩く歴史散歩参加者
赤穂義士ゆかりの泉岳寺へ。山門周辺でも寺の歴史をたどりました。

高輪大木戸跡で江戸の「入口」を実感する

泉岳寺から第一京浜側へ下り、国史跡の高輪大木戸跡へ向かいました。現在残るのは石垣の一部ですが、江戸時代にはここが東海道を通って江戸へ出入りする際の重要な境界でした。周囲はビルや道路が続く現代的な景観ですが、石垣の位置と旧海岸線を重ねて考えると、海沿いの街道を人々が往来した時代の地理が見えてきます。

国史跡・高輪大木戸跡の石垣を見学する参加者
第一京浜沿いに残る高輪大木戸跡。江戸の南側の出入口だった場所を現地で見学しました。

階段を上って三田台へ|地形そのものが歴史資料

高輪大木戸跡から三田方面へ進むと、低地から台地へ上がる高低差がはっきりしてきます。亀塚公園へ向かう長い階段は、この地域の地形を体で理解できる場所でした。高輪・三田を歩くときは、史跡の説明板だけでなく、坂や階段にも注目すると、かつて海に近かった低地と、その西側に広がる高台の関係が分かりやすくなります。

港区立亀塚公園へ上る階段の夜景
高輪の低地側から三田台の高台へ。亀塚公園へ続く階段を上ります。
亀塚公園へ続く階段を上る歴史散歩参加者
高低差を体感しながら亀塚公園へ。高輪・三田の地形も散歩の大きな見どころです。

亀塚公園で古代以前の三田へ時間をさかのぼる

亀塚公園では、竪穴式住居を紹介する展示にも立ち寄りました。三田台周辺では縄文時代から古代にかけての遺構が見つかっており、近くの伊皿子貝塚遺跡では縄文時代後期の敷石住居跡や貝塚、さらに弥生・古墳・奈良・平安時代の遺構も発見されています。江戸時代の街道や寺院を見てきた散歩の終盤で、時間軸が一気に数千年前まで広がりました。

亀塚公園の竪穴式住居復元展示を見学する参加者
亀塚公園で竪穴式住居の展示を見学。三田台周辺に残る古代以前の歴史にも目を向けました。
亀塚公園の竪穴式住居展示付近で解説を聞く参加者
亀塚公園の竪穴式住居展示付近。街の現在の姿から、はるか昔の暮らしへ想像を広げます。

今回の散歩は、ライトアップされた日本庭園から始まり、泉岳寺、高輪大木戸、三田台へと進みました。この散歩の範囲には、縄文時代の海辺の暮らし、江戸の東海道と寺町、幕末外交、近代の都市化につながる手がかりが重なっています。夜の街歩きでしたが、11人で各地点を巡りながら、高輪・泉岳寺・三田を「点」ではなく地形と時代のつながりで見る散歩になりました。

TimeWalkで周辺の史跡を地図から探す

ゆる歴史散歩会のTimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。高輪・泉岳寺・三田は寺院、坂、史跡が近い範囲に集まっているため、現在地から歩ける史跡を地図で探す使い方と相性のよい地域です。

参考資料