2024年1月7日、11人で二子玉川駅を出発し、瀬田・岡本の歴史スポットを歩きました。瀬田アートトンネル、カトリック瀬田教会、慈眼寺、旧小坂家住宅、岡本公園民家園を巡り、国分寺崖線の高低差と、多摩川沿いの地域が農村から別邸地、住宅地へ変わってきた歴史をたどる散歩です。

二子玉川から瀬田・岡本へ歩くと、多摩川の低地と国分寺崖線の高台が近い距離で切り替わります。別邸建築の旧小坂家住宅、江戸後期の農家を伝える岡本公園民家園、フランシスコ会と歩んできたカトリック瀬田教会、古くから瀬田の地に続く慈眼寺。現在の住宅地の中に、農村・寺院・別邸地・近代都市化の歴史が重なっています。
開催概要
- イベント名:旧小坂家住宅、岡本公園民家園、カトリック教会、多摩川二子橋公園など散策しよう
- 開催日時:2024年1月7日 13:30
- 参加人数:11人
- 出発:二子玉川駅
- 主な訪問先:瀬田アートトンネル、カトリック瀬田教会、慈眼寺、旧小坂家住宅、岡本公園民家園
今回の散策コース概要
二子玉川駅から瀬田の高台へ向かい、瀬田アートトンネルを抜けてカトリック瀬田教会と慈眼寺へ。さらに国分寺崖線沿いの旧小坂家住宅を見学し、岡本公園民家園へ進みました。瀬田と岡本は坂が多く、短い距離でも高低差があります。この起伏そのものが、多摩川低地と武蔵野台地の境にあたる国分寺崖線を体感できる見どころです。
瀬田・岡本を形づくる国分寺崖線
国分寺崖線は、武蔵野台地の縁をたどる崖地です。世田谷区内では緑地や湧水、急な坂が連なり、瀬田・岡本の景観にも大きく関わっています。旧小坂家住宅は台地上に建ち、各棟から崖線の緑を望めるよう配置されました。岡本公園民家園も崖線近くにあり、住宅街の中で斜面の緑と古い農家の景観が接しています。
上野毛から瀬田を経て二子玉川へ続く崖線、大山道、二子の渡し、玉電の歴史は、上野毛・瀬田から二子玉川へ歩く歴史散歩でも詳しく紹介しています。
瀬田アートトンネル|国道246号の下を抜けて瀬田の丘へ

最初の見どころは瀬田アートトンネルです。国道246号の下を横断する瀬田ずい道を利用した歩行空間で、壁面には大きなモザイク画が続きます。駅前の商業地から瀬田の住宅地へ景色が切り替わる地点でもあり、参加者は壁画を眺めながら高台へ進みました。
カトリック瀬田教会|1951年に始まった「瀬田の丘」の教会

カトリック瀬田教会は1951年、フランシスコ会の神学院建築のために瀬田の丘の土地が購入され、聖アントニオ修道院の付属教会として始まりました。現在も樹木の多い敷地に聖堂と修道院があります。
当日は聖堂内部を見学しました。白い壁と青い天井、縦長の窓から差し込む光、木の長椅子が並ぶ空間は、外の住宅街とは大きく印象が変わります。戦後の瀬田に宗教施設と修道の場が築かれてきた歴史を、建物の中で確かめることができました。
慈眼寺|鎌倉時代末期に始まる瀬田の古刹

慈眼寺は真言宗智山派の寺院で、喜楽山教令院と号します。寺に伝わる由緒では、徳治元年(1306)に法印定音が小堂を建てたのが始まりとされ、天文2年(1533)に現在地へ移されたと伝わります。東京都の宗教法人名簿でも、瀬田4丁目に所在する真言宗智山派の慈眼寺として確認できます。
慈眼寺は世田谷区の「大山道マップ」にも沿道史跡として掲載されています。現在の静かな住宅地を歩きながら、中世以来の寺院が残る瀬田の古い土地利用を知ることができます。
旧小坂家住宅|1937年築、崖線の緑を取り込んだ別邸

旧小坂家住宅は1937年、衆議院議員などを歴任した小坂順造の別邸として建てられました。世田谷区指定有形文化財で、洋風の寝室棟、和風の主屋棟、山小屋風の書斎棟を組み合わせた構成が特徴です。

建物は国分寺崖線の台地上に置かれ、各棟から緑を望める配置になっています。縁側に座ると、室内と庭が一続きになるようなつくりがよく分かります。周囲の瀬田四丁目旧小坂緑地には斜面林が残り、建物と地形を同時に見ることで、この場所が別邸地として選ばれた背景を実感できます。

洋室には暖炉や天井の装飾が残り、和風の主屋とは異なる雰囲気です。玄関や書斎には当時流行した民芸風の意匠も取り入れられています。ひとつの様式で統一せず、用途ごとに表情を変えるところに、この住宅の魅力があります。

大きな窓の向こうには崖線の樹木が広がります。家具や室内意匠だけを見るのではなく、窓から見える緑まで含めて設計された別邸として見ると、旧小坂家住宅の特徴がより鮮明になります。
岡本公園民家園|瀬田にあった旧長崎家住宅を移築復原

岡本公園民家園は1980年12月に開園しました。中心となる旧長崎家住宅主屋は、もともと瀬田にあった農家の建物で、世田谷区指定有形文化財第1号です。創建は18世紀末頃と考えられ、19世紀初期頃に間取りが改修されました。

開催日は1月7日。園内には七草の展示があり、春の七草を入れた粥を食べる年中行事が紹介されていました。民家園では建物を見るだけでなく、季節の行事を通して昔の暮らしを学べる点も大きな魅力です。

座敷には正月の暮らしに関する展示もありました。現代の生活では目にする機会が少なくなった年中行事が、農家の空間と一緒に展示されているため、道具や食文化を具体的に想像できます。

囲炉裏には火が入り、参加者もその周りに集まりました。冬の農家で暖を取る感覚を体験でき、展示ケース越しでは分かりにくい昔の住まいの距離感や暖かさまで感じられる時間になりました。

屋外の畑作展示では、明治時代までの世田谷で里芋、薩摩芋、大根などが市場向けに栽培され、大正期以降は都市化や輸送手段の発達を背景に野菜の種類が増えていったことが解説されていました。昭和期には養蚕の低迷とともに桑畑を野菜畑へ転換する農家も増え、都市近郊農業の姿が変化していきました。
園内には旧長崎家住宅主屋のほか、旧浦野家住宅土蔵や旧横尾家住宅椀木門が移築復原されています。旧浦野家土蔵は嘉永から安政年間頃に建てられたと伝わり、菜種油や木炭を扱う店、小作米を納める穀倉、戦時中の倉庫、戦後の住居へと用途を変えながら使われました。建物の形だけでなく、農村の生業と社会変化まで伝える文化財です。
玉電と二子玉川|砂利輸送から行楽地、郊外の街へ
玉川電気鉄道は1907年に三軒茶屋から玉川まで開通し、同年中に渋谷までつながりました。多摩川の砂利輸送を目的の一つとしていたため「ジャリ電」とも呼ばれましたが、旅客を呼び込むため遊園地やプール、住宅地の開発にも力を入れ、玉川地域の都市化を進めました。
1924年には玉川から砧方面へ砧線が開業し、現在も一部の線路跡が歩道として残っています。二子玉川の鉄道と街づくりを広くたどるなら、五島慶太と東急の沿線開発の歴史もあわせて読むと、玉電から東急へ続く沿線開発の流れがつながります。
二子橋と多摩川|渡しから橋へ変わった交通
江戸時代から多摩川には二子の渡しがあり、大山道を行き交う人々を世田谷側と川崎側の二子へ渡していました。1925年に二子橋が完成すると渡船の役割は終わり、1927年には玉電も橋を渡って溝ノ口まで延伸しました。徒歩と渡船の交通から、橋と鉄道の交通へ切り替わった場所です。
大正期の二子玉川駅南側には多摩川沿いに13~14軒ほどの料亭が並び、屋形船や鮎料理でにぎわいました。玉電が人を運び、多摩川そのものが行楽の目的地になった時代です。現在の商業施設が集まる二子玉川とは異なる、川辺の行楽地としての顔がありました。
二子玉川・瀬田を歩いて見えたもの
今回の散歩では、二子玉川駅からわずかに高台へ上がるだけで、教会、中世以来の寺院、昭和初期の別邸、江戸後期の農家建築が次々と現れました。11人で歩きながら建物の内部や季節の展示まで見学したことで、瀬田・岡本の歴史を地形と暮らしの両方からたどる一日になりました。
国分寺崖線の別の場所を知りたい方には、大蔵住宅と国分寺崖線の歴史もおすすめです。地形と住宅地の関係を別の角度からたどれます。
TimeWalkで近くの史跡を探す
TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。今回の散歩では利用していませんが、二子玉川や瀬田を自由に歩くときの史跡探しに使えます。

