中目黒の目黒川沿いから住宅街へ入ると、水面は見えないのに、道だけが細く曲がりながら西へ続いています。ここはかつての蛇崩川。世田谷区弦巻方面から上馬、三軒茶屋、下馬、上目黒を流れ、中目黒駅付近で目黒川へ注いでいた支流です。
現在は大部分が暗渠となり、川筋の一部は蛇崩川緑道や細い道路、公園として残っています。2024年1月7日、ゆる歴史散歩会では中目黒の合流点からJRA馬事公苑まで、川の痕跡をたどって歩きました。水田を潤した小河川、旧地名「蛇崩」、源頼朝の伝承、近代の治水、馬術の拠点まで、一本の道の上に異なる時代が重なっています。
暗渠そのものの見つけ方や、橋跡・緑道・地形の読み方は、暗渠まるわかりガイド|東京の消えた川と緑道の見つけ方で詳しく紹介しています。
蛇崩川とは|全長約5.2km、目黒川へ注いだ支流
蛇崩川は、目黒区の資料では全長約5.2km。世田谷区弦巻方面を水源とし、上馬、三軒茶屋、下馬を経て上目黒へ入り、中目黒駅付近で目黒川に合流していました。かつて流域には湧水があり、水田が広がっていたとされています。
世田谷区が「蛇崩川緑道」として紹介する区間は、下馬1丁目から駒沢2丁目まで約2,990mです。川全体の長さと緑道の長さが異なるのは、川筋のすべてが同じ形の緑道として残っているわけではないためです。目黒区側では細い道や公園となった区間もあり、地上の景色だけを見ると川の連続性が分かりにくい場所があります。
暗渠化された現在も、曲線を描く道、周囲より低い土地、橋や川に由来する名前を追うと、かつての流路を歩いてたどれます。古地図と現在の街を重ねて見る方法は、古地図まるわかりガイド|東京の街歩きが楽しくなる見方と使い方も参考になります。
「蛇崩」という地名はどこから来たのか
蛇崩は、現在の町名からは消えています。明治22年(1889年)の町村制施行後、目黒村大字上目黒の字名として使われ、大正11年(1922年)の町制後も残りました。昭和7年(1932年)の目黒区成立で行政地名として姿を消し、現在の祐天寺1丁目と上目黒4丁目の一部がおおむね旧字蛇崩にあたります。
地名の由来には複数の説があります。目黒区が紹介する『新編武蔵風土記稿』の説では、大水の際に崩れた崖から大蛇が出たことに由来するとされます。また、「砂崩(さくずれ)」が転じたという説もあります。蛇行する川が赤土の地層を削る地形と結びついて、この印象的な名が残ったと考えられています。
現在は川も町名も地表から消えましたが、「蛇崩」の名は川、橋、交差点などに残りました。地名が消えても地形と道筋が残る、東京の街歩きらしい場所です。
中目黒の合流点から旧字蛇崩へ
蛇崩川散歩の起点は、中目黒駅近くの目黒川との合流点です。目黒川は今も水面が見えますが、蛇崩川側へ入ると流れは地中へ隠れます。現在の合流点遊び場周辺から西へ進むと、目黒銀座児童遊園、上四児童遊園へと川筋を追えます。
上目黒一帯は現在、住宅や商店が密集しています。明治末まで周辺に畑地が残り、関東大震災後に住宅地化が進んだ地域もあります。川沿いの農地だった低地が、鉄道と都市化の波の中で住宅地へ変わっていったことを意識すると、細い流路跡の意味が分かりやすくなります。
駒繋神社|川辺に残る源氏と馬の伝承
下馬に入ると、川筋のすぐ脇に駒繋神社があります。神社の由緒では、天喜4年(1056年)、源頼義・源義家父子が前九年の役へ向かう途中に参拝したと伝えられています。
文治5年(1189年)には、奥州藤原氏を攻めるため北へ向かった源頼朝がこの地で祈願し、愛馬を境内の松につないだという伝承があります。「子の神」と呼ばれていた社が、のちに駒繋神社と呼ばれるようになった由来として伝わる話です。
神社には、頼朝の馬が沢で命を落としたことから「馬引沢」「下馬」の名が生まれたとする地域伝承も残ります。神社の由緒では、この沢を蛇崩川としています。川の歴史と地名、源氏伝承が同じ場所で重なる地点です。
境内入口の赤い神橋は、地上から川が消えた後も、水辺の記憶を伝える景観になっています。川が見えない暗渠では、橋の存在そのものが旧流路を感じさせます。
川を地下へ移した都市化と治水
蛇崩川は、かつて田畑を潤す一方、大雨時には増水する川でもありました。市街化が進むと、流域では排水や治水の重要性が高まり、川は暗渠化され、その上部が道路や緑道として使われるようになりました。
現在も治水は続いています。東京都の下水道事業では、蛇崩川流域の浸水対策として「蛇崩川増強幹線」の整備が進められています。世田谷丸山公園は工事の立坑として使われた場所で、地上の小さな公園と地下の大規模な治水施設が同じ場所に重なっています。
小泉公園の地下にも雨水を一時的にためる施設があります。目の前の緑道は昔の川の記憶であり、そのさらに下では現代の都市が豪雨に備えています。自然河川、水田、暗渠、下水道という変化を一つの散歩コースで追えるのが蛇崩川の大きな特徴です。
弦巻の源流域|田んぼを支えた水の記憶
上流へ進むと弦巻へ入ります。世田谷区の地域資料では、この一帯にあった「ババ池」「ジジ池」などの溜池や湧水が蛇崩川の水源として紹介されています。昭和20年代後半でも、川沿いには田んぼや麦畑が残り、身近な水辺として使われていました。
蛇崩川洗い場跡は、川が生活用水と深く結びついていた記憶を伝える地点です。現在の住宅地からは想像しにくい風景ですが、流域の低地には水田が広がり、川の水が人々の暮らしの近くを流れていました。
弦巻周辺には大山道も通っていました。江戸時代、相模国の大山へ向かう参詣者が行き交った道です。川筋だけを追ってきた散歩の終盤で、農村の水辺と街道が交差していた土地の姿が重なります。
ゴールはJRA馬事公苑|1940年から続く馬術の拠点
蛇崩川の源流域をたどった先に、JRA馬事公苑があります。馬事公苑は昭和15年(1940年)、馬事の普及、馬術の振興、騎手養成を担う施設として開苑しました。騎手養成は昭和57年(1982年)に競馬学校へ移管されています。
昭和39年(1964年)の東京オリンピックでは馬場馬術競技が行われ、東京2020大会でもクロスカントリーを除く馬術競技の会場となりました。再整備を経て、現在も日本の馬術文化を支える場所です。
下馬の駒繋神社には頼朝が馬をつないだという中世の伝承があり、上流側には近代日本の馬術拠点があります。蛇崩川を西へたどるルートは、偶然にも「馬」という言葉を時代の両端で結びます。
2024年1月7日に歩いたルート
ゆる歴史散歩会では、中目黒の目黒川合流点から上流へ向かい、次の順番でJRA馬事公苑まで歩きました。リンク先は各地点のGoogleマップです。
合流点から上流へ向かうと、開渠の目黒川から暗渠へ入り、旧地名、神社、治水施設、生活用水の痕跡、源流域へと景色が変わります。川を下流から上流へ逆にたどることで、都市の地下へ消えた水の道を連続して追えます。
開催レポート|2024年1月7日、8人で蛇崩川を歩く
2024年1月7日10時、「中目黒からJRA馬事公苑まで、蛇崩川をひたすら歩きます」を開催しました。参加者は8人。中目黒の合流点遊び場に集合し、蛇崩川を下流から上流へたどりました。

集合場所のすぐそばで、蛇崩川が目黒川へ合流します。目黒川には水面がありますが、蛇崩川はここから西へ向かうにつれて地上から姿を消します。最初に合流点を確認してから、暗渠となった流路へ入りました。

暗渠の区間では、川の代わりに細く曲がる道が続きます。住宅の間を抜ける歩行者道や緑道をつなぐと、地図上では途切れて見える旧流路が一本の道としてつながります。


途中、世田谷丸山公園で休憩しました。現在は公園として使われていますが、この周辺の地下では浸水対策のための蛇崩川増強幹線整備が進められてきました。地上の散歩道と地下の治水施設が重なる場所です。

蛇崩川緑道では、水の流れを思わせる舗装や、水道管を模したオブジェなど、川を連想させる意匠も見られます。水面がなくても、道のつくりがかつての川を伝えています。

上流の弦巻では、こいの池にも立ち寄りました。蛇崩川の源流域にはかつて溜池や湧水があり、現在の住宅地の中にも水辺の記憶が点々と残っています。

5km以上歩き、冬の散歩でしたが馬事公苑へ着くころには体も十分に温まりました。ゴールはJRA馬事公苑。東京2020大会の記憶を残すモニュメントなどを見ながら園内を歩きました。

最後は馬事公苑のCAFE STANDへ。中目黒の目黒川から、暗渠、緑道、弦巻の水辺をつないで歩いた一日はここで終了しました。


