西武池袋線の椎名町駅から東へ歩き、下落合で妙正寺川に出会い、神田川、小滝橋通り、百人町を経て新宿駅西口へ。数kmの道に、大正期の郊外住宅地、川と染色産業、高度成長期の治水、昭和の青果市場、江戸の鉄砲組、戦後の闇市から続く横丁が重なっています。
2024年3月9日19時、ゆる歴史散歩会の9人で椎名町に集合し、新宿へ向かう夜の歴史散歩を行いました。出発地の椎名町から下落合の台地と坂を抜け、妙正寺川と神田川が落ち合う水辺、小滝橋通り、百人町を経て新宿へ。東京西部が農村や郊外住宅地から巨大都市へ変わっていく過程を、地形・河川・産業・交通の痕跡から読み解くコースです。

2024年3月9日に歩いたルート
出発は西武池袋線・椎名町駅、終点は新宿駅西口です。途中で立ち寄った主な地点は次の6か所です。各リンクはGoogleマップを開きます。
椎名町から下落合へ|駅開業と郊外化の始まり
椎名町駅は1924年6月11日に開業し、2024年に100周年を迎えました。鉄道の開通と関東大震災後の人口移動を背景に、東京の市街地は西へ広がっていきます。駅名に残る「椎名町」は、かつて現在の南長崎一帯などを含んだ町名でもあり、1966年の住居表示変更で住所から姿を消しました。

旧椎名町の文化史を代表する場所が、現在の南長崎にあったトキワ荘です。1953年から1962年にかけて、手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら若いマンガ家が暮らしました。今回のルートはトキワ荘方面へは寄らず、椎名町駅から南東へ進んで下落合へ入ります。
下落合の地形と目白文化村|台地に広がった住宅地
下落合では、神田川と妙正寺川の低地の北側に台地が迫ります。坂や階段が短い距離に続くのは、川が刻んだ谷と台地の境を歩いているためです。明治以降は緑の多い台地上に邸宅が建ち、大正11年(1922年)には箱根土地会社が「目白文化村」の分譲を始めました。
この高低差を体で感じられたのが、薬王院(東長谷寺)の前です。薬王院は下落合の斜面地にある真言宗豊山派の寺院で、牡丹の名所としても知られます。新宿区の景観資料でも、下落合は神田川・妙正寺川の北側に急な斜面地が広がり、坂や階段から地形を感じられる地域とされています。夜の街歩きでは寺の前から階段を下り、台地から川沿いの低地へ移っていく地形そのものを歩いて読み取りました。


落合には画家や作家も集まりました。洋画家の中村彝は1916年に下落合へアトリエを新築し、現在は中村彝アトリエ記念館として保存されています。佐伯祐三のアトリエも中落合に残ります。目白文化村や周辺の近代建築をさらに歩くなら、目白・目白文化村をめぐる散歩記事もつながります。
妙正寺川と「落合」|二つの川が出会う地名
妙正寺川は杉並区の妙正寺池を水源とし、中野区を経て新宿区へ流れる延長約9.7kmの一級河川です。流域が市街地化する以前は田畑を潤し、近代には染色産業を支える水としても利用されました。

落合の地名は、神田川と妙正寺川の二つの川が「落ち合う」場所であることに由来します。現在は河川改修によって流れ方が変わりましたが、川沿いの低地と北側の下落合台地という地形は街路や坂に表れています。昔の水路と現在の道を重ねて見る方法は、古地図まるわかりガイドでも紹介しています。


辰巳橋と高田馬場分水路|地上の川が地下へ入る
辰巳橋を過ぎると、妙正寺川は高田馬場分水路へ入ります。東京都建設局によると、高田馬場分水路は1968~1982年度に新目白通りの地下へ延長1,460mが整備されました。妙正寺川の洪水と神田川の洪水の一部を受け、高戸橋上流で神田川へ戻します。住宅が密集した市街地では川幅を広げることが難しく、道路の地下へ洪水を逃がす構造が採用されました。
流域には調節池も整備され、落合調節池は5万立方メートルを貯留できる地下箱式です。豪雨時に川から水を取り込み、下流へ一度に流れる量を抑えます。地上から見える護岸と、地下に隠れた分水路・調節池が組み合わさって現在の妙正寺川を形づくっています。

地下へ移された川や水路の見つけ方は、暗渠まるわかりガイド|東京の消えた川と緑道の見つけ方にもまとめています。
落合・中井の染色|妙正寺川の水が育てた産業
落合・中井では、川の水が産業の立地を決めました。東京の染色業は市街化に伴って、染めた布を洗える水を求めて神田川・妙正寺川の上流側へ移り、早稲田、高田馬場、落合、中井へ工房が集まります。新宿区の資料では、昭和30年代に落合・中井地区で300軒を超える染色業者が営まれていました。

現在も地域には染色工房が残り、「染の小道」では妙正寺川の上に反物を架ける「川のギャラリー」が行われます。治水の対象となった都市河川が、地域産業の記憶を伝える舞台にもなっています。
小滝橋と神田川|川沿いから新宿の市街地へ
小滝橋でルートは神田川沿いへ移ります。神田川は井の頭池を水源とし、善福寺川や妙正寺川などの水を集めて都心へ流れます。橋の周辺では、川沿いの低地、鉄道、高密度の住宅地が近接し、東京西部の都市化を一望できます。


小滝橋から南へ延びる小滝橋通りを進むと、景色は川辺から市場、百人町の街路、新宿駅西口へ切り替わります。ここからは水の歴史に加えて、流通と交通が街をつくった時代へ入ります。
淀橋市場と内田秀五郎|人口急増を支えた青果市場
小滝橋通り沿いの淀橋市場は、関東大震災後に人口が急増した東京市周辺部へ青果物を供給する拠点として、民営13市場を統合し1939年に開場しました。新宿は鉄道の巨大ターミナルであると同時に、西郊の農産物と消費地を結ぶ流通拠点でもありました。

市場に銅像がある内田秀五郎は、淀橋市場の礎を築いた人物です。1876年に上井草村で生まれ、1907年に井荻村長へ就任。区画整理、道路・水道整備、鉄道駅の誘致などを進め、東京西郊の都市化と農業・流通の発展に関わりました。
百人町と鉄砲百人組|江戸の組屋敷が残した町割り
百人町の名は、江戸幕府の鉄砲百人組に由来します。江戸時代初期、大久保一帯には鉄砲同心たちの組屋敷が置かれました。新宿区のまちづくり資料では、同心屋敷に由来する短冊状の町割りが現在の百人町にも残るとされています。
同心たちは生活を補う内職として園芸にも取り組み、江戸後期にはつつじ栽培が広がりました。大久保はつつじの名所として知られるようになり、飯島武右衛門の庭には数千本のつつじが植えられていた記録も残ります。武家の副業が地域の名物へ育ち、その記憶は現在の百人町と大久保の歴史に続いています。
思い出横丁|戦後の闇市から続く新宿西口
終点の新宿西口・思い出横丁は、終戦直後の露店街を起源とします。公式の沿革によると、1946年頃の西口には日用品や食べ物を売る屋台が並び、その後、戸板一枚で店を区切った闇市「ラッキーストリート」が形成されました。現在の細い路地と小規模な飲食店が密集する景観は、再開発を経た新宿に残る戦後商業の一層です。

新宿の闇市が現在の繁華街へ変わる過程は、戦後東京の闇市を写真と資料で歩くで、新宿・上野・池袋・渋谷を比較しています。思い出横丁から西新宿へ歩き続ける場合は、新宿駅の地下ダンジョン完全ガイドも接続しやすいルートです。
自分でも歴史散歩を楽しむならTimeWalk
椎名町から下落合、神田川沿いのように、地形や川、史跡をつなぎながら歩く街では、現在地の近くにある歴史スポットを地図で探せるWebアプリ「TimeWalk」も散歩の予習・復習に使えます。気になった場所から周辺へ寄り道したいときは、現在地から歩ける史跡を地図で探すから見てみてください。

