今回訪れる予定の場所
靖国神社
いつ:明治2年(1869年)
だれ:明治天皇の勅令
どこ:下図参照
なに:靖国神社(明治天皇が命名。創建当時は招魂社)
なぜ:戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、国家のために殉難した人の神霊(みたま)を祀るため。その後、さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争・シベリア抑留の戦没者も含め現在は246万6千余柱を祀る。
みたままつり
国のために命を捧げられた英霊を慰める目的で、靖国神社にて日本古来のお盆にあたる期間に行われている祭事です。
外苑参道沿い:約1万個の大型提灯
内苑:約2万個の小型提灯
境内が献灯(みあかし)の光に包まれます。神輿振り、青森ねぶた、阿波踊り、江戸芸かっぽれ、吹奏楽団パレードなどの奉納行事や、『能楽堂』にて各種奉納芸能なども執り行われます。
田安門【国指定重要文化財】
大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれています。田安門は、寛永13年(1636)福井藩初代藩主の松平忠昌らによって建てられたと考えられました。門内に田安台、田安大明神があったので門名に称としたといわれています。享保15年(1730)八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興しました。現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家,東側一帯を清水家が所有していました。現存する最古の城門です。高燈篭 常燈明台(じょうとうみょうだい)
靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設されました。靖国神社に祭られた霊のために建てられたといわれています。当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。
当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていましたが、道路の改修に伴い昭和5年(1930)に現在地に移転しました。子爵品川弥二郎像
品川弥二郎は長門の国、松木船津の長州藩足軽、品川弥市右衛門の長男として生まれました。15歳で松下村塾に入門。その後、長州藩士として尊皇攘夷運動で活躍。京都で倒幕運動に奔走しました。
維新後、明治3年(1870)戦争視察の命令で欧州に派遣。ついで留学を希望し、ロンドンに留まりました。その後も軍事を学ぶため兵部省からドイツに派遣され、次第に政治や経済に注目するようになりました。
駐独公使、農商務大輔(次官)などを歴任。明治17年(1884)子爵に。明治24年(1891)年第一次松方内閣の内務大臣となりました。松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされました。晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。元帥大山巌銅像
千代田区観光協会
大山巌の銅像は、大正8年(1919)11月3日の建設。原型作者は北の丸公園の北白川宮能久親王騎馬銅像を制作した新海竹太郎。この銅像は、現在の国会前庭北地区洋式庭園(尾崎記念公園)にあったといわれていますが移設の年月は不明です。大山巌は天保13年(1842)の生まれで薩摩藩出身。元帥陸軍大将日露戦争では陸軍司令官、初代の陸軍大臣となりました。その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となりました。
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