後楽園・春日から小石川へ入ると、江戸の寺町を形づくった大寺院、庶民信仰の閻魔堂、明治期に歩みを始めた教会、昭和創建の神社が徒歩圏に重なっています。中心にあるのが、徳川家康の生母・於大の方の菩提寺となった傳通院です。
傳通院を起点に周辺をたどると、小石川が約600年の間にどのような宗教・学問・暮らしの場を重ねてきたのかが見えてきます。
小石川の歴史散歩でたどる600年
小石川では、室町時代に始まる傳通院の歴史に、江戸初期の塔頭寺院や庶民信仰、明治のキリスト教、昭和の神社が重なっています。明暦3年(1657)の大火後には、江戸の外郭にあたる小石川・本郷方面へ寺社や武家屋敷が広がり、現在の文京区に多くの歴史資産が残る背景となりました。明暦の大火と本郷の変化は、本郷エリアの歴史散歩でも紹介しています。
| 年代 | 小石川で起きたこと |
|---|---|
| 1415年 | 傳通院の前身となる無量山寿経寺が開かれる |
| 1602年 | 於大の方が亡くなり、寿経寺が菩提寺となる。月参堂善光寺も於大の方の念持仏を安置するため開創 |
| 1613年 | 傳通院が関東十八檀林の一つとして発展する |
| 1620年 | 慈眼院が傳通院の塔頭として創建され、澤蔵司稲荷の伝承が生まれる |
| 1624年 | 源覚寺が現在地に開創 |
| 18世紀半ば | 源覚寺に「こんにゃく閻魔」の信仰が広がる |
| 1887年 | 上富坂教会が創立 |
| 1966年 | 小石川大神宮が創建 |
傳通院と徳川家――於大の方から始まる小石川の中心寺院
傳通院は応永22年(1415)、浄土宗第七祖・了譽聖冏が小石川極楽水に開いた草庵を起源とします。当初の寺名は無量山寿経寺でした。
慶長7年(1602)、徳川家康の生母・於大の方が伏見城で75歳の生涯を閉じました。法名は「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」。寿経寺がその菩提寺となったことで「傳通院」と呼ばれるようになり、徳川家ゆかりの寺院として発展します。現在地の堂宇は慶長14年(1609)に整えられました。

於大の方、千姫、孝子が眠る
境内には於大の方のほか、2代将軍・徳川秀忠の長女千姫、3代将軍・徳川家光の正室孝子ら、徳川家ゆかりの人物の墓所があります。歴代将軍の主要な墓所である増上寺や寛永寺とは役割が異なり、傳通院では徳川家の女性や子女の歴史が色濃く残ります。

将軍墓所としての寛永寺との違いを知ると、傳通院の位置づけがわかりやすくなります。上野の寛永寺については、上野公園と寛永寺の歴史でまとめています。
関東十八檀林と1000人を超える学僧
傳通院は墓所であると同時に、浄土宗の重要な学問所でした。慶長18年(1613)には増上寺から学問僧300人が移り、関東十八檀林の上席となります。のちには学寮に1000人を下らない学僧がいたと寺伝に記され、境内には学寮や塔頭が並びました。
善光寺や慈眼院が傳通院と深く結びついているのは、この大きな寺院空間の中から生まれた塔頭だったためです。現在の街路を歩くと寺院が点在しているように見えますが、江戸期には傳通院を中心に一つの宗教・学問空間が広がっていました。
月参堂 善光寺――於大の方の念持仏を守る
月参堂善光寺は慶長7年(1602)、於大の方が生前に拝んでいた念持仏を安置するため、傳通院の塔頭寺院として開創されました。本尊は阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の一光三尊像です。
於大の方の墓所が傳通院にあり、生前に身近に拝んだ仏像が善光寺に伝わるという関係です。現在の「善光寺」の名は、念持仏が信州善光寺の御分身とされることから、明治期に「月参堂 縁受院 善光寺」と改められたものです。
寺の名にある「月参堂」には、ひと月に一度の寺参りを勧める意味と、仏を月にたとえる意味が重ねられています。傳通院開山の聖冏が「繊月上人」と呼ばれた縁も伝えられています。
慈眼院・澤蔵司稲荷――学僧と稲荷が重なる伝承
慈眼院は元和6年(1620)、傳通院の塔頭寺院として現在地に創建されました。ここに祀られる澤蔵司稲荷には、傳通院が学問寺だった時代を背景にした伝承が残ります。
傳通院の学寮に澤蔵司という修行僧が現れ、わずか3年で浄土宗の教義を修めました。その後、学寮長の夢に現れ、自らは千代田城内の稲荷大明神で、学問を修める願いを果たしたので元の神に帰り、今後は傳通院を守護すると告げたと伝わります。これを受けて境内に稲荷が祀られました。
澤蔵司と蕎麦の伝承
澤蔵司の由緒には、傳通院門前の蕎麦屋へ通ったという話も残ります。店では澤蔵司が帰った後に銭が置かれていたとされ、その縁から蕎麦の奉納が続いてきました。学僧の町と門前の商いが一つの伝承の中で結ばれています。
源覚寺「こんにゃく閻魔」――庶民信仰と太平洋の鐘
源覚寺は寛永元年(1624)に現在地へ開かれた浄土宗寺院です。境内の木造閻魔王坐像は文京区指定文化財で、「こんにゃく閻魔」の名で親しまれています。
宝暦年間(1751~1764)、眼病を患った老婆が閻魔像に21日間祈願したところ、夢に閻魔が現れて自分の片目を与え、老婆の目が治ったと伝わります。老婆は感謝して好物だったこんにゃくを断ち、閻魔に供え続けました。像の右目が濁って見えることも、この伝承と結びついて語られています。

サイパンからアメリカを経て戻った「太平洋の鐘」
源覚寺には、元禄3年(1690)の銘を持つ梵鐘があります。昭和12年(1937)にサイパン島の南洋寺へ寄進され、戦後は所在不明となりましたが、のちにアメリカで発見され、昭和49年(1974)にオークランド市から返還されました。江戸の寺に残る鐘が、20世紀の戦争と戦後交流の記憶も伝えています。
境内には歯痛平癒で知られる塩地蔵、小石川七福神の毘沙門天も祀られています。源覚寺は夏目漱石『こころ』や樋口一葉『にごりえ』にも登場し、信仰と文学の両面から小石川の町に根づいてきました。
小石川大神宮――昭和に生まれた伊勢神宮ゆかりの神社
小石川大神宮は昭和41年(1966)に創建され、天照皇大神を祀ります。伊勢神宮から特別御神璽を受けて創建された神社で、室町・江戸期に成立した周囲の寺院とは時代が大きく異なります。
傳通院や源覚寺が江戸以前から続く小石川を伝えるのに対し、小石川大神宮は戦後の東京に生まれた信仰の場です。同じ徒歩圏に異なる時代の宗教施設が並ぶことが、小石川を歩く魅力の一つです。
上富坂教会――明治から続く小石川のプロテスタント
上富坂教会は現在、日本基督教団に属するプロテスタント教会です。東京教区北支区の教会案内では1887年創立とされ、日本でプロテスタント伝道が広がった明治期に歩みを始めました。
1941年には30余のプロテスタント教派が合同して日本基督教団が成立しました。江戸初期の寺院群から明治の教会、昭和の神社へと歩くと、小石川の宗教景観が長い時間の重なりによって形づくられたことがわかります。
小石川を歩くルート
後楽園駅・春日駅周辺から、次の6か所を徒歩でつなげられます。寺社・教会の行事や拝観可能時間は変わることがあるため、各施設の公式情報が最新です。
傳通院・慈眼院・善光寺は互いに近く、江戸時代には一つの大きな寺院圏として理解すると位置関係がつかみやすくなります。最後に源覚寺へ下ると、学問寺と門前の庶民信仰という小石川の二つの顔がつながります。

