大塚三業通りから千石・茗荷谷を歩く|花街・暗渠・近代建築の歴史散歩

大塚駅の南口から住宅街へ入ると、「大塚三業通り」という名が残っています。大正から昭和にかけて、この一帯には料理屋・待合・芸妓置屋が集まり、東京の花街の一つとして栄えました。

今回の散歩は大塚三業通りを起点に、旧河川の低地を千石方面へたどり、猫又橋、氷川下セツルメント、簸川神社を経て、茗荷谷の近代住宅まで歩きます。花街の記憶だけでなく、水路、交通、福祉、寺社、近代建築が近い距離に重なるコースです。

大塚駅と三業地が育った背景

大塚駅は1903年4月1日、日本鉄道豊島線の駅として開業しました。1911年8月20日には王子電気軌道おうじでんききどうが飛鳥山上―大塚間を開業し、大塚は山手線と路面電車が交わる交通の要所になります。現在の「都電荒川線」という名称で一体運行が始まったのは1974年です。

2003年の大塚駅を通る山手線と都電荒川線
大塚駅の山手線と都電荒川線、2003年。撮影:Ippukucho/Wikimedia Commons/CC BY 3.0。

交通が整うと駅前には商店、飲食店、旅館、映画館などが集まりました。大塚三業地おおつかさんぎょうちの成立は一度の出来事ではなく、大塚三業組合が1919年を起源とし、区史系資料では1922年に現在の南大塚一丁目付近が指定を受け、1924年に待合営業が許可されて三業がそろったと整理されています。

三業とは、芸妓が所属する置屋、料理と宴席を提供する料理屋・料亭、料理を取り寄せて芸妓を呼ぶ待合の三つです。1923年の関東大震災後には都心から人口や商業が郊外へ広がり、大塚の花街も成長しました。戦災で多くの建物を失った後に復興し、戦後もしばらく宴席文化を支えました。

大塚駅、三業地、戦後の旅館街までを時代順に詳しくたどる場合は、大塚はなぜ花街とホテル街の記憶が重なるのかで整理しています。

1963年6月26日の大塚駅周辺の白黒空中写真
大塚駅周辺の白黒空中写真、1963年6月26日。国土交通省 国土画像情報を基に作成/国土地理院/Wikimedia Commons。

大塚三業通りを歩く

大塚三業地の中心は、駅南側の現在の南大塚一丁目付近でした。「大塚三業通り」の名は現在も商店街名として使われ、花街が消えた後も街路に歴史を残しています。

通りを歩くと、直線ではなく緩やかに曲がる道が目につきます。この一帯は旧河川と低地の地形を受け継いでおり、水路の暗渠化・道路化が現在の街路にも影響しました。古地図や地形から消えた川を読む方法は、東京の暗渠を古地図から見つける方法でも紹介しています。

大塚三業通り周辺を歩いた際の街並み
大塚三業通り周辺を歩いた際の記録。
大塚三業通り周辺を歩いた際の建物と街並み
花街の記憶が残る大塚三業通り周辺。

千草|「料てい」の記憶を残す建物

千草は、三業通り周辺でかつての花街を想像しやすい場所の一つです。建物に残る「料てい」の文字は、料理屋や待合が並んだ時代を現在の街角へつなぐ具体的な手掛かりです。

鮨勝・松し満・一松・浅元|花街の食文化が残る通り

三業通り周辺には、鮨勝松し満割烹 一松浅元など、和食店や割烹が点在します。松し満は1948年創業で、料亭として始まり、現在は割烹として営業しています。一松は1971年に開店しました。花街そのものは縮小しても、宴席や和食の店が集まった土地の記憶は通りの景観に残っています。

2007年の都電荒川線大塚駅前停留場
都電荒川線大塚駅前停留場、2007年。撮影:東京特許許可局/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

大塚から千石へ|旧河川と低地をたどる

三業通りから南東へ進むと、散歩の主題は花街から地形と地域社会へ移ります。現在の道路や公園の下には、かつて水が流れた低地の記憶が残っています。

丸山ちよ顕彰碑と氷川下町児童遊園

丸山ちよ顕彰碑から文京区立氷川下町児童遊園へ進むと、繁華街とは異なる地域生活の歴史が現れます。大塚と千石の境界付近は、台地の間を旧河川が通る低地で、道路の曲線や高低差から地形を読み取りやすい場所です。

猫又橋|姿を消した千川の橋

猫又橋の親柱と袖石は、かつてこの付近を流れた千川の痕跡です。川が暗渠になった現在も橋の石材が残り、道路となった旧流路に橋があった時代を伝えています。

氷川下の社会史

土方久元邸跡と明治天皇行幸記念碑

明治天皇行幸記念碑・土方久元邸跡は、明治期のこの地域が政治家や華族の邸宅地でもあったことを伝える地点です。土方久元は幕末の土佐藩士で、明治政府では宮内行政に携わりました。

氷川下セツルメント|1953年に始まった地域活動

氷川下セツルメント草創の地では、1953年に学生らによるセツルメント活動の拠点が設けられました。地域に入り、医療、生活、子ども、文化などの活動を行う運動で、戦後東京の地域福祉と学生運動を考える手掛かりです。

簸川神社|御殿造営で移った鎮守

簸川神社は、もとは現在の小石川植物園付近に鎮座していました。1652年、白山御殿の造営に伴って移り、1699年に現在地へ遷座しました。江戸の土地利用が変わるたびに、神社の位置も動いたことが分かります。

茗荷谷の近代建築を歩く

千石から茗荷谷へ入ると、旧河川の低地から台地上の住宅地へ景観が変わります。散歩の終盤では、大正期に建てられた二つの住宅が近代東京の住文化を伝えます。

窪町東公園

窪町東公園には、文京区とドイツ・カイザースラウテルン市との交流を記念した広場があります。花街や旧河川とは時代の異なる、現代の都市交流の記憶が加わる場所です。

旧磯野家住宅(銅御殿)|銅板に包まれた大正建築

旧磯野家住宅は1912年に完成した住宅で、実業家・磯野敬の邸宅でした。外壁や屋根に銅板を多用した姿から「銅御殿」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。細部まで質の高い木工と金属加工が施され、大正期の近代和風住宅を代表する建築です。

山﨑家住宅主屋|1917年の和洋折衷住宅

山﨑家住宅主屋は小石川五丁目に建つ1917年の住宅で、国登録有形文化財です。洋館と和館を組み合わせ、階段のステンドグラスや意匠を凝らした室内を備えます。近くの銅御殿と並べて見ると、大正期の東京で富裕層の住宅に和風と洋風がどのように取り込まれたかを比較できます。

2007年の大塚駅北口と駅前の建物
大塚駅北口、2007年。撮影:Nesnad/Wikimedia Commons/CC BY 3.0。駅の南側にあった三業地とは別に、駅周辺の変化を伝える記録です。

大塚から茗荷谷までの散歩ルート

  1. 大塚駅南口・大塚三業通り
  2. 千草・鮨勝・松し満・割烹 一松・浅元
  3. 丸山ちよ顕彰碑・氷川下町児童遊園
  4. 猫又橋
  5. 土方久元邸跡・氷川下セツルメント
  6. 簸川神社
  7. 窪町東公園
  8. 旧磯野家住宅(銅御殿)
  9. 山﨑家住宅主屋

都電沿線そのものを歩くなら都電荒川線の全停留場と沿線史、東池袋から大塚・千石・巣鴨へつなぐなら東池袋・大塚・千石・巣鴨の歴史散歩も続けて歩けます。ほかの花街と比較する場合は東京の花街46地域を地図で比較した記事が参考になります。

参考文献・資料