洲崎の概要
洲崎(すさき)は、江戸前期の元禄年間(1688年~1704年)に埋め立てられて誕生した地で、1700(元禄13)年には、「江戸城」内「紅葉山」の弁財天を洲崎に遷座し「洲崎弁天社」が創建された。図は江戸末期、歌川広重が描いた『東都名所 洲崎弁才天境内全図 同海浜汐干之図』。江戸期の洲崎は海を望む景勝地で、潮干狩りの名所としても知られた。
明治21年(1888)に根津から遊郭が移転し、1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原と並ぶ都内の代表的な遊廓が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であった。「洲崎パラダイス」は赤線地帯洲崎末期を描いた小説および1956年の映画の名前にもなっている。
洲崎遊廓の正面玄関だった「洲崎大門」から、吉原遊郭の「吉原大門」を繋ぐ一本道は大門通り(おおもんどおり)と呼ばれた。錦糸町駅の西側、東京スカイツリーの西側、言問橋などを通り、かつては遊郭へ遊びにやってくる男たちで賑わった。両遊郭の大門を繋ぐ街道として発展し現在もその名が残る。別名、親不孝通りとも呼ばれる。
洲崎の略歴
- 江戸時代、東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地(深川洲崎十万坪)で、潮干狩りと初日の出の名所であった。
- 1887年(明治25)東京帝国大学が本郷に移転するため、隣の根津遊郭が洲崎弁天の東側の広大な湿地に移転することとなった。
- 1888年(明治26)深川洲崎遊郭開業、1893年に大火、1912年に大火に見舞われる。
- 大正時代、300軒前後の規模となり吉原と双璧をなした。
- 1945年(昭和20)東京大空襲で洲崎は完全に灰燼に帰した。
- 終戦半年で大門通りより東半分に「洲崎パラダイス」の愛称で洲崎遊廓が復興し、吉原以上の人気を誇る歓楽街となった。
- 1956年(昭和31)製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」には、ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されている。
- 1958年(昭和33)4月1日に施行された売春防止法により、洲崎遊廓は70年の歴史に幕を下ろし、静かな住宅街となった。
今回いくところ
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②洲崎橋跡