練馬駅から豊島園、練馬春日町へ歩くと、中世の城跡、関東大震災後に生まれた寺町、農村だった時代の屋敷林、大正期の遊園地建築、練馬大根の記憶が数キロの街路の中に重なっています。駅前の高層庁舎から現在の街を見渡したあと、地上へ降りて時代をさかのぼると、練馬の景色が少しずつ違って見えてきます。
中心となるのは、14世紀半ばごろから石神井川沿いに勢力を広げた豊島氏の練馬城です。1477年に城が落ちたのち、江戸時代の練馬は大根やゴボウ、イモを江戸へ送る近郊農村として発展しました。20世紀には関東大震災を契機に寺院が移り、1926年には「練馬城址豊島園」が開園します。現在はその跡地で都立練馬城址公園の整備が進んでいます。
練馬駅から豊島園・練馬春日町へ歩く
主な順路は、練馬区役所20階展望ロビー、平成つつじ公園、田島山十一ヶ寺、内田家の屋敷林、練馬城跡・練馬城址公園、古城の塔、春日神社、練馬大根碑です。練馬駅周辺の都市景観から始まり、豊島園駅周辺の寺町と城跡、早宮の農村景観、春日町の農業史へとつながります。
中井・江古田から練馬、光が丘まで一日を通して歩く広域コースは、中井から江古田・練馬・光が丘へ歩く散歩記事にまとめています。
2026年8月時点の見学情報
- 平成つつじ公園は全面改修工事のため、2026年4月1日から2027年8月までの予定で公園・トイレとも利用できません。2026年8月24日からは練馬駅と練馬文化センターを結ぶペデストリアンデッキ経由の通路も通行できなくなっています。
- 練馬城址公園は2023年5月に一部開園し、現在も段階的に整備されています。2026年8月には東京都が石神井川南側の整備内容について新たな意見募集・説明の機会を公表しています。
- 内田家の屋敷林は個人所有で、路上から見る文化財です。
練馬区役所20階展望ロビー|80メートルの高さから街を見る
練馬区役所本庁舎20階の展望ロビーは地上80メートル。入場無料で、富士山、新宿副都心、光が丘方面などを見渡せます。高低差の少ない市街地の中を石神井川が東西に流れ、その北側と南側へ住宅地が広がる現在の練馬を俯瞰できる場所です。

中世の練馬城の立地と江戸時代の農業は、土地の高低差、水、土壌と深く結びついています。展望ロビーから街全体を眺めると、城跡の崖と農村の屋敷林を同じ地形の上で捉えられます。
平成つつじ公園|練馬駅前の名所は全面改修中
練馬駅北口に隣接する平成つつじ公園は、面積8,644平方メートルの区立公園です。駅前で季節のツツジを楽しめる場所として親しまれてきましたが、現在は「ツツジの魅力を伝え広げる公園、人々がにぎわう公園」への全面リニューアル工事が進んでいます。

写真は改修前の2015年の姿です。2026年8月時点では園内に入れません。工事期間は2027年8月までの予定で、リニューアルオープンの時期は練馬区から改めて案内されます。
田島山十一ヶ寺|浅草から移ってきた寺町
豊島園駅の南側、練馬4丁目に寺院がまとまる一画があります。田島山十一ヶ寺は、浄土宗誓願寺の塔頭だった寺院群です。誓願寺は小田原から神田へ移り、1657年の明暦の大火後には浅草田島町へ移転しました。1923年の関東大震災で被害を受けると、本寺の誓願寺は府中へ、十一の塔頭は練馬へ移りました。「田島山」の名には浅草田島町にあった時代の記憶が残っています。
東京の寺院は、火災、震災、都市計画によって何度も場所を変えてきました。十一ヶ寺が一団となっている現在の景観は、1923年の震災後に東京の寺町が郊外へ広がった歴史を伝えています。
小野蘭山の墓
小野蘭山は1729年に京都で生まれた江戸時代の本草学者です。1799年、71歳で江戸へ移り、幕府医学館で本草学を講義しました。1803年に刊行した『本草綱目啓蒙』は日本の本草学に大きな影響を与えています。墓はもと浅草の誓願寺塔頭・迎接院にあり、関東大震災後の移転に伴って練馬へ移されました。
池永道雲の墓
池永道雲は1674年生まれの書家で、篆刻にも優れました。著書は18種50余巻に及び、印影を集めた『一刀萬象』などを残しています。1737年に没し、墓は浅草の誓願寺塔頭・受用院から関東大震災後の1927年ごろに練馬へ移されました。
内田家の屋敷林|農村だった練馬の風景を残す
内田家の屋敷林は、早宮3丁目に残る練馬区指定文化財です。高さ2メートル以上の樹木が約300本生育し、東側には屋敷を囲む樹木、西側には「西山」と呼ばれる雑木林が残ります。
屋敷の周囲の木々は防風や日除けに役立ち、西側の雑木林は農用林として使われました。江戸時代の練馬は、大根、ゴボウ、イモなどを江戸へ供給する近郊農村でした。住宅地の中に残る屋敷林は、農家の暮らしと土地利用を現在の風景からたどれる場所です。個人所有のため、見学は路上からとなります。
練馬城跡|石神井川の地形を生かした豊島氏の城
練馬城は、南武蔵に勢力を持った豊島氏の中世城館です。14世紀半ばごろ、豊島氏は石神井川沿いに勢力を広げ、練馬城と石神井城を築きました。1477年、太田道灌との戦いで石神井城と同じころに落城したと考えられています。
城は石神井川の急崖や侵食谷を防御に利用していました。1988年の発掘調査では空堀が見つかり、台地の突端を堀が巡っていたことが確認されています。1926年には東京都の旧跡に指定されましたが、地表に中世の城郭遺構は残っていません。石神井川に向かって落ちる地形そのものが、城の立地を考える大きな手掛かりです。
練馬城址公園|としまえん跡地から新しい都立公園へ
としまえん跡地の一部では、東京都が練馬城址公園を整備しています。2023年5月1日にエントランス交流ゾーン、川辺の散策ゾーン、花のふれあいゾーンなどが一部開園しました。石神井川を中心に、城跡の地形や遊園地の記憶を受け継ぎながら整備が続いています。

2026年8月時点でも公園全体の整備は進行中です。東京都は石神井川南側について、練馬城があった当時の地形を生かす整備、崖線緑地の保全、歴史情報の展示などを検討しています。現在は、城跡・遊園地跡・防災公園という三つの役割を重ねながら、公園の姿が段階的に整えられています。
としまえん古城の塔|1926年の郊外レジャーを今に伝える
練馬城址公園の未開園地側には、としまえん開園時から残った「古城の塔」があります。練馬区の紹介記事では、1926年の開園時に必要だった給水塔を英国の古城風の外観にまとめた建物とされ、ランドスケープ・アーキテクトの戸野琢磨が設計を担当しました。遊園地の景観をつくる建築と実用設備を一体化した、大正末期の郊外レジャー施設の遺構です。
東京都の調査では耐震性の不足とコンクリート中性化の進行が確認され、2024年の検討結果は建物全体の保存を「課題が多く極めて困難」としています。建物の一部やデジタルデータによる記録保存が推奨され、2025年に公表された整備イメージでは、古城の塔跡に建てる管理所へ設計思想を継承する案が示されました。古城の塔は、練馬城跡を題材に1926年の遊園地開園時につくられた、20世紀の遊園地文化を伝える建物です。
春日神社から練馬大根碑へ|農村の記憶をたどる
練馬城址公園から春日町へ進むと春日神社があります。1957年刊の『練馬区史』には旧上練馬村の神社として記録されており、城跡から農村集落へ歩く区間の歴史的な目印になります。その先、春日町4丁目には練馬大根碑があります。
練馬大根の栽培は江戸時代に始まりました。武蔵野台地を覆う深い火山灰土は根菜の栽培に向き、巨大消費地の江戸へ日帰りで野菜を運べる近さも生産を後押ししました。江戸から持ち帰る下肥を肥料に使い、沢庵漬けの普及とともに需要が伸び、元禄期ごろには練馬を代表する作物になっていました。
5代将軍徳川綱吉が練馬で療養し、大根の種を与えたという話は広く知られています。練馬区はこの話を「練馬大根誕生伝説」の一つとして整理しています。碑文にも綱吉説が刻まれていますが、練馬大根が大産地となった背景には、土壌、江戸への近さ、肥料の循環、沢庵需要という具体的な条件がありました。
明治期にも生産は拡大しましたが、1933年の大干ばつやモザイク病、戦後の都市化と食生活の変化によって、1955年ごろから栽培は急速に減りました。石碑は名物野菜の記念碑であると同時に、練馬が大都市東京を支える農村だった時代の痕跡です。
練馬の歴史を一つの道でたどる
| 時期 | 練馬で起きたこと |
|---|---|
| 14世紀半ばごろ | 豊島氏が石神井川沿いへ勢力を広げ、練馬城・石神井城を築く |
| 1477年 | 太田道灌との戦いで練馬城・石神井城が落城 |
| 江戸時代 | 大根、ゴボウ、イモなどを江戸へ送る近郊農村として発展 |
| 1657年 | 明暦の大火後、誓願寺と塔頭が神田から浅草へ移る |
| 1923年 | 関東大震災で被災した誓願寺塔頭の十一ヶ寺がのちに練馬へ移転 |
| 1926年 | 練馬城跡が旧跡に指定され、「練馬城址豊島園」が開園 |
| 2023年 | 都立練馬城址公園が一部開園 |
| 2026年 | 練馬城の地形ととしまえんの記憶を継ぐ公園整備が継続 |
高層庁舎、駅前公園、寺町、屋敷林、城跡、遊園地建築、大根碑は、一見すると別々の名所です。歩く順に時代を重ねると、中世の城館から江戸近郊農村、震災後の郊外化、大正・昭和のレジャー、現代の公園整備まで、練馬が東京の拡大とともに変わってきた流れが一つの道の上に並びます。

