八広~四ツ木~新小岩

八広の歴史

江戸時代以前
八広の地域は、かつては広大な湿地帯であり、農村地帯として発展していました。江戸時代以前からこの地域には集落があり、荒川や隅田川といった川沿いの地理的特性から、農業や漁業が中心となる生活が営まれていました。

江戸時代
江戸時代に入ると、江戸の拡大に伴い、八広周辺でも徐々に開発が進みました。当時の八広周辺は、江戸市中へ物資を供給するための農村地帯として機能していました。また、近隣の地域には寺社が点在し、宗教的な中心地としての側面も持っていました。

明治・大正時代
明治時代には、日本全体で産業革命が進み、八広も徐々に都市化が進んでいきます。鉄道が敷設され、工場が建設されるなど、工業地域としての発展も見られるようになりました。この時期には、人口も増加し、住宅地としての整備が進みました。

戦後の復興期
第二次世界大戦中には、墨田区全体が空襲の被害を受け、八広もその影響を受けました。しかし、戦後の復興期にはインフラの整備や再開発が進み、住宅地としての基盤が整いました。特に、昭和30年代以降には、公共住宅やマンションが多く建設され、現在のような住宅街へと発展しました。

八広の魅力

1. 下町の情緒とコミュニティ
八広は、東京の下町としての風情が色濃く残るエリアです。古くからの商店街や、地域に密着した小さな商店、飲食店が多くあり、温かみのある雰囲気が特徴です。また、地域住民同士のつながりが強く、地元のお祭りやイベントも盛んに行われています。

2. アクセスの良さ
京成押上線の八広駅があり、都心部へのアクセスが非常に便利です。特に、押上駅(東京スカイツリーの最寄り駅)へのアクセスが良好で、観光や買い物にも便利な立地です。

3. 自然と公園
八広の周辺には、荒川や中川といった川が流れており、川沿いの自然環境が豊かです。河川敷には散歩道や公園が整備されており、地域住民がリラックスできる場所として親しまれています。また、桜の季節には、川沿いの桜並木が美しい景色を作り出します。

4. 歴史的な寺社
八広周辺には、歴史ある寺社が点在しています。これらの寺社は、地域の歴史や文化を感じることができる場所として、地元住民に大切にされています。また、伝統的な行事や祭りも行われており、地域の文化を継承する場となっています。

5. 庶民的な魅力
八広は、観光地として華やかではないものの、庶民的な魅力が詰まったエリアです。地元の商店街や飲食店は、リーズナブルで親しみやすい雰囲気があり、地元の人々に愛されています。

八広にゆかりのある有名人

1. 北島三郎(演歌歌手)

演歌界の大御所、北島三郎さんは墨田区に縁が深い人物です。彼の音楽活動は、下町の情緒や庶民の心情を歌い上げるスタイルで、墨田区の雰囲気と非常にマッチしています。

2. 葛飾北斎(浮世絵師)
墨田区は、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の生誕地としても有名です。北斎の影響は、地域の文化や芸術に深く根付いており、現在も彼の作品や生涯に関する展示が行われています。

3. 春風亭小朝(落語家
人気落語家の春風亭小朝さんも墨田区出身です。彼は、下町情緒あふれる話芸で知られており、墨田区の文化と親和性が高い人物です。

東四つ木の歴史

江戸時代以前
東四つ木の歴史は、古くからこの地域が農村地帯であったことに遡ります。この地域は中川や荒川に近く、湿地帯や低地が多かったため、稲作が中心に行われていました。また、四ツ木という地名自体は古くから存在しており、江戸時代には既に集落が形成されていました。

江戸時代
江戸時代に入ると、東四つ木周辺は江戸市中に近いことから農村地帯でありながら江戸への物資供給地としても重要な役割を果たしました。また、川沿いの交通網が発達し、物資の流通や商業も盛んになりました。特に荒川や中川の治水事業が進むにつれ、農地の生産性が向上し、地域の発展が促進されました。

明治時代以降
明治時代になると、日本全体で産業革命が進む中、東四つ木にも工場が建設され、工業地帯としての側面が強まっていきました。また、交通の発達により東京市内へのアクセスが向上し、人口が増加しました。昭和時代には住宅地としての開発も進み、現在のような住宅街が形成されました。

戦後の復興
第二次世界大戦中には、葛飾区全体が空襲の被害を受け、東四つ木も例外ではありませんでした。しかし、戦後の復興期においては、地域のインフラ整備や再開発が進み、現在の住宅地としての基盤が築かれました。

東四つ木の魅力

1. 下町の雰囲気
東四つ木は、東京の下町としての情緒が色濃く残る地域です。昔ながらの商店街や、地域に密着した小さな飲食店などが立ち並び、温かみのある雰囲気を楽しむことができます。地元の祭りやイベントも活発で、住民同士のつながりが強いのも特徴です。

2. 交通の利便性
東四つ木は、京成押上線の四ツ木駅があり、都心へのアクセスが良好です。特に浅草や押上(東京スカイツリーの最寄り駅)へのアクセスが便利で、都心部への通勤・通学にも適しています。

3. 自然と公園
近隣には、荒川や中川などの自然が広がり、川沿いの散策路や公園が多くあります。特に「四ツ木橋」からの景色は美しく、川沿いの自然環境を楽しむことができます。また、地域の小さな公園もあり、子どもから大人までリラックスできる場所が豊富です。

4. 地域の歴史と文化
東四つ木には、歴史的な寺社や文化的な施設が点在しています。また、地域に根付いた伝統的な行事やお祭りも数多く行われ、文化を大切にする風土が息づいています。

東四つ木にゆかりのある有名人

1. 植木等(コメディアン・俳優)
植木等は、喜劇俳優として知られるだけでなく、音楽活動でも有名です。彼のユーモラスなキャラクターは、下町の情緒にマッチしており、葛飾区全体でも非常に人気があります。

2. 堀内恒夫(プロ野球選手)
葛飾区出身の堀内恒夫は、読売ジャイアンツのエースピッチャーとして活躍し、後に監督も務めました。東四つ木を含む葛飾区では、彼の名前を知る人が多いです。

3. 中村雅俊(俳優・歌手)
葛飾区内出身の中村雅俊も、広く知られる俳優・歌手です。テレビドラマや映画での活躍を通じて、多くのファンを持っています。

木根川橋(きねがわばし)

場所 木根川橋は、東京都墨田区と葛飾区を結んでおり、荒川をまたいで架かっています。具体的には、墨田区側の東墨田と葛飾区側の四つ木・東四つ木を結ぶ位置にあります。

橋の構造 木根川橋は、道路橋として使用されており、比較的シンプルなデザインの鋼橋です。多くの車両や歩行者、自転車が通行するためのインフラとしての役割を担っています。

長さと幅 荒川を跨ぐ橋のため、橋の長さは約700メートルに及びます。幅は片側2車線で、自転車道や歩道も設けられています。これにより、車両だけでなく、自転車や歩行者も安全に通行することができます。

歴史と背景

建設時期 木根川橋の初代橋は、1954年に建設されました。この時期は、戦後の復興期であり、交通インフラの整備が急速に進められていた時代です。当時は、地域間の交通アクセスを改善するために、多くの橋が荒川に架けられました。

名前の由来 橋の名前である「木根川」は、かつてこの周辺に存在した「木根川村」に由来しています。木根川村は、現在の墨田区と葛飾区の一部にあたる地域で、江戸時代には農村地帯として栄えていました。

現在の橋 1954年に建設された初代の木根川橋は、老朽化が進んだため、その後、再建が行われています。現在の橋は、交通量の増加に対応するために、より堅固な構造となっており、地域の重要な交通手段として機能しています。

役割と魅力

1. 交通の要所 木根川橋は、墨田区と葛飾区を結ぶ主要な交通路の一部であり、日々多くの車両が行き交います。特に通勤・通学時間帯には混雑することが多く、地域住民にとって欠かせない存在です。

2. 自転車や歩行者にも配慮 橋には自転車道と歩道が設けられており、車両だけでなく、自転車や歩行者も安心して利用できます。荒川沿いの自然を楽しみながらの散策やジョギングにも適した場所です。

3. 景観の魅力 木根川橋からは、荒川の広々とした景色を楽しむことができます。特に晴れた日には、遠くの山々や都心のビル群を望むことができ、写真スポットとしても人気です。また、春には川沿いの桜が美しく、橋からの眺めも格別です。

4. 災害時の重要性 荒川周辺は、洪水などの自然災害に備えた堤防や治水施設が整備されています。木根川橋も、災害時の避難路として重要な役割を果たすとともに、地域の安全に貢献しています。

四ツ木橋

場所 四ツ木橋は、東京都墨田区と葛飾区を結んでおり、荒川に架かっています。具体的には、墨田区側の八広と葛飾区側の四つ木・東四つ木を結ぶ位置にあります。

構造 四ツ木橋は、道路橋として使用されており、鋼鉄製のトラス橋です。車両用の道路と、歩行者・自転車用の通路が設けられています。

歴史

建設時期 四ツ木橋は、1932年(昭和7年)に開通しました。当時の東京では、荒川放水路(現在の荒川)が1924年に完成し、それに伴って多くの橋が建設されました。四ツ木橋もその一環として建設され、地域の交通を支える重要なインフラとなりました。

名前の由来 橋の名前は、葛飾区側の地名である「四つ木」に由来します。四つ木は、古くから存在する地名で、江戸時代には農村地帯として栄えました。

役割と魅力

1. 交通の重要拠点 四ツ木橋は、京成押上線の四ツ木駅と周辺地域を結ぶ重要な交通ルートです。都心へのアクセスが良好で、特に通勤・通学の時間帯には多くの車両が行き交います。

2. 歴史的価値 四ツ木橋は、昭和初期に建設された歴史ある橋であり、建設当時の技術を今に伝える存在です。地域の発展に貢献してきた歴史的な背景を持つ橋として、地元の人々に親しまれています。

3. 景観 橋からは、荒川の広がりや、遠くに見える東京スカイツリーなどの風景を楽しむことができます。川沿いの自然と都市の風景が織り交ぜられた美しい景観は、写真スポットとしても人気です。

新四ツ木橋

新四ツ木橋は、四ツ木橋の下流側に位置し、同じく東京都墨田区と葛飾区を結んでいます。こちらも荒川を跨ぐ橋で、より近代的なデザインとなっています。主に車両交通を目的とした橋で、広い道路が特徴です。歩道も設置されていますが、主に自動車交通が中心の橋となっています。

歴史

建設時期 新四ツ木橋は、1970年(昭和45年)に開通しました。これは、戦後の高度経済成長期における交通需要の増加に対応するために建設されたものです。四ツ木橋が一つの橋では交通量をさばききれなくなったため、新たな橋として建設されました。

名前の由来 「新四ツ木橋」という名称は、既存の四ツ木橋に対して新たに建設されたことから付けられました。地名である「四つ木」との関連が強調されています。

役割と魅力

1. 交通のスムーズな流れを確保 新四ツ木橋は、四ツ木橋とともに交通渋滞の緩和に大きく貢献しています。特に、都心部と郊外を結ぶ重要なルートとして機能しており、多くの車両が毎日行き交っています。

2. 災害時の重要性 新四ツ木橋は、災害時の避難経路としても重要な役割を果たしています。荒川周辺は治水対策がしっかりとされていますが、万が一の際には避難路としての機能が期待されています。

3. 夜景と景観 新四ツ木橋からも、東京スカイツリーをはじめとする都市の景観が楽しめます。特に夜景が美しく、川面に映る街の灯りがロマンチックな雰囲気を醸し出します。

今回いくところ

朝鮮人追悼碑

西崎雅夫さんは関東大震災の時に民衆などに殺された朝鮮人を追悼する活動をしてきた。多くの死者の名は不明であるのに、その人たちを悼めるのか。葛藤してきた人生を聞く。 東京都墨田区の荒川沿いに、関東大震災(1923年)当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語にあおられた人々に殺された朝鮮人を追悼する碑がある。そこに死者の名は刻まれていない。現在まで十分な調査が行われていないため、多くの死者の名は不明でその人生をたどることもできない。仲間たちと碑を建てた西崎雅夫さん(64歳)は、人生をかけて目撃証言を集めるなどして死者たちの姿を浮かび上がらせようとしてきた。

こころの時代 2024年9月1日放送

葛西三郎清重の遺跡

四ツ木駅

加藤ひな子の碑・山田顕義風折烏帽子の碑・空斎山田伯造墨碑建設者名簿の碑

天台宗青龍山浄光寺、嘉祥2年(849)創建。御本尊:秘仏本尊薬師如来(木下川如来)。江戸時代初期、浄光寺は浅草寺と本末関係をむすび、江戸時代を通じて浅草寺末派筆頭としての寺格を保つことになります。元和2年(1616)4月、家康はこの世を去り、日光東照宮に祀られました。その2年後、二代将軍徳川秀忠は祖霊をいつでも参拝できるようにと江戸城内紅葉山に霊屋を造営し、別当職に浄光寺を任命しました。徳川家と浄光寺の関係はますます親密なものとなり、将軍家の代参(代理人)が毎年のように訪れ、将軍家自らもたびたび参詣に訪れました。詳細は公式ページ参照

モンチッチ公園

上平井天祖神社(天照皇大御神)

巽橋跡

小菅御殿からみた東南(辰巳=巽)方向にあった橋。西井掘に掛かっていたとのこと。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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