水道橋駅の近くで神田川から分かれた日本橋川は、神田・大手町・日本橋を抜けて隅田川へ注ぐ全長4.84kmの川です。現在はビル街と首都高速の下を流れていますが、その川筋には江戸城の外郭門、大名屋敷、水運を支えた河岸、近代東京の橋が連なっています。
水道橋から日本橋へ歩くと、江戸城の防御線だった水辺が、物流の大動脈となり、近代都市のインフラへ変わっていった過程を一続きにたどれます。川沿いを歩きながら見える史跡と、その背景を順に紹介します。
日本橋川とは|水道橋から隅田川へ続く4.84km
日本橋川は、水道橋駅付近で神田川から分かれ、千代田区の神田・大手町、中央区の日本橋を通って隅田川へ合流します。東京都が管理する一級河川で、延長は4.84kmです。
江戸時代の日本橋川の一部は江戸城外堀として機能しました。城を守る堀である一方、河岸には物資が集まり、魚や青物をはじめとする大量の商品が舟で運ばれました。城と城下町、政治と商業を同じ水路が結んでいたことが、日本橋川の大きな特徴です。

小石川門跡|江戸城外郭の入口から歩き始める
水道橋から日本橋川沿いを歩き始めると、最初に江戸城外郭の痕跡と出会います。小石川門跡です。小石川門は1636年、岡山藩主の池田光政によって築かれました。枡形の石垣は1872年に撤去され、その石材の一部は1877年に架けられた常磐橋の石橋へ転用されました。
上流の門跡で失われた石が、下流の橋へ移された歴史は、この散歩の終盤に再びつながります。日本橋川沿いを歩くと、江戸城の解体と明治東京の建設が同じ川筋で重なっていることが分かります。

東京大学理学部化学科誕生の地
東京大学理学部化学科誕生の地は、幕末から明治へ時代が移る過程を伝える場所です。1861年、幕府の洋学研究教育機関である蕃書調所に化学部門の「精錬方」が設けられました。その流れは1877年に発足した東京大学理学部化学科へつながります。
讃岐高松藩上屋敷の庭園跡
讃岐高松藩上屋敷の庭園跡では、1999~2000年の飯田町遺跡の発掘調査で庭園の池跡が確認されました。池には神田上水の水が引かれ、護岸や竹の土留め、景石が設けられていました。漆塗りの浮きも出土しており、大名屋敷の庭で釣りが楽しまれていた様子まで伝わります。
堀留橋から俎橋へ|埋め立てと再開削を繰り返した川
現在の日本橋川は一本につながっていますが、川筋は江戸時代から何度も姿を変えてきました。万治年間には三崎橋から俎橋付近までが埋め立てられ、1664年には俎橋から堀留橋付近までが舟運のため再び掘られました。明治になると堀留橋側から神田川までの区間も再開削され、現在につながる流路が形成されました。
南堀留橋を経て、俎橋児童遊園へ向かいます。「堀留」という名は、川が途中で止まっていた時代を今に残します。俎橋の名は江戸初期から伝わり、現在の橋は九段下と神保町を結ぶ重要な橋となっています。
雉子橋|日本橋川が江戸城の防御線だった場所
雉子橋の周辺には、かつて江戸城外郭の雉子橋門がありました。門は1629年に築かれ、橋と枡形門が一体となって城内への出入りを守りました。橋名は、朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの付近で飼ったことに由来すると伝わります。
日本橋川沿いに小石川門、雉子橋門、一橋門、神田橋門、常盤橋門が並んでいたことを意識すると、川の見え方が変わります。現在の護岸の向こうには、かつて江戸城を囲む堀と門の連続した防御線がありました。
大手町へ|水運が支えた江戸の市場と河岸
雉子橋から大手町方面へ進むと、日本橋川は城の堀としての性格に加え、物流路としての表情を強めます。江戸では川沿いの河岸に舟が着き、各地から運ばれた商品が荷揚げされました。

近くの鎌倉河岸は、江戸城築城に使う石材を鎌倉方面から運び入れたことに名の由来があるとされ、のちに材木や酒などを扱う商業地として発展しました。川は城を守る境界であると同時に、城下町を動かす物流網でもありました。
この区間の史跡をさらに歩くなら、神田~大手町~皇居外苑の歴史散歩も関連します。鎌倉河岸跡など、大手町周辺の史跡を別ルートからたどれます。
大手町川端緑道から竜閑さくら橋へ|川辺を歩く都市へ
大手町川端緑道 小紋広場、桟敷広場では、ビル街の中で日本橋川の水辺に近づけます。大手町周辺では川沿いの歩行空間や親水空間の整備が続き、江戸の外堀だった場所が都市の散策路として再び使われています。
竜閑さくら橋は、大手町と日本橋本石町を結ぶ歩行者専用橋です。名称に残る「竜閑」は、かつてこの周辺にあった竜閑橋や竜閑川の記憶を受け継いでいます。江戸以来の水路の記憶と、現代の歩行者ネットワークが重なる場所です。
常盤橋から日本橋へ|江戸城の石垣と近代東京
大手町から日本橋へ進む区間では、常盤橋門跡周辺の石垣が大きな見どころです。江戸時代の日本橋川はこの付近で江戸城の外堀を構成し、常盤橋門は外郭の正門の一つでした。
1877年に架けられた石造アーチの常磐橋には、小石川門など江戸城の門を撤去した際の石材が使われました。水道橋近くで見た小石川門跡の歴史が、数キロ下流の常磐橋でつながります。現在、日本橋川に架かる「常盤橋」と、明治の石橋である「常磐橋」は表記も橋そのものも異なります。
西河岸橋まで来ると、日本橋はすぐ近くです。「西河岸」は日本橋から一石橋にかけての川岸にあった旧地名に由来し、橋名そのものが水運都市だった日本橋の記憶を残しています。

日本橋魚河岸跡|江戸の台所を支えた水辺
日本橋魚河岸跡は、日本橋川が物流の大動脈だったことを最も分かりやすく伝える場所です。徳川家康の江戸入府後、摂津から移った漁民が幕府へ魚を納め、残りを販売したことが魚河岸の起源とされています。
日本橋の北東側には魚市場が広がり、江戸から東京にかけて大量の魚介が集まりました。舟で運んだ品を川岸で荷揚げし、そのまま市場で取引できる立地が繁栄を支えました。1923年の関東大震災で魚市場は大きな被害を受け、その機能はのちに築地へ移ります。

日本橋へ到着|五街道の起点と水運の中心
散歩の終点は日本橋です。1603年に最初の橋が架けられ、江戸幕府が五街道を整備すると、日本橋は道路網の起点となりました。川では舟が物資を運び、陸では街道が全国へ延びます。日本橋は水運と陸運が交差する江戸の中心でした。
現在の石造二連アーチ橋は1911年に完成しました。江戸の木橋から明治の近代橋へ姿を変えても、日本橋という場所が東京の交通と商業の中心であり続けたことは変わりません。
首都高速と現在の日本橋川|水辺の景観が再び変わる
日本橋周辺では、1960年代に整備された首都高速道路が川の上空を通っています。現在は日本橋区間の地下化事業と周辺再開発が進み、川沿いの歩行空間や親水空間を広げる計画も進行しています。
江戸城の外堀、水運の河岸、近代橋、首都高速、そして再び水辺を開く都市整備へ。日本橋川は、東京が必要とした都市インフラを時代ごとに受け止めてきました。現在進む地下化と再開発の詳しい背景は、東京の再開発はなぜ起きる?築地・高輪・渋谷など注目10地区の歴史と未来でも紹介しています。
今回の散歩ルート
歴史を体験できる街歩きアプリ「TimeWalk」では、地図を見ながら日本橋川周辺を歩けます。
あわせて立ち寄りたい日本橋川の史跡
時間に余裕があれば、一橋徳川家屋敷跡、鎌倉河岸跡、常盤橋公園、日本橋を加えると、江戸城外郭と水運のつながりをさらに追えます。

