①駒込駅
②鹿碑・瘞賜猪碑(ろくひ・えいしちょひ)
瘞(エイ)の意味は「うめる」、「うずめる」、「埋葬する」、「墓」。鹿碑(ろくひ)は、寛政7年(1795)3月5日、11代将軍徳川家斉が下総国小金原で鹿狩を行なった際、同行した旗本本郷泰行が当日の様子を後世に伝えるために、本郷家の下屋敷であるこの地に造立した石碑。瘞賜猪碑(えいしちょひ)は、嘉永2年(1849)3月18日、12代将軍家慶が同じく小金原で鹿狩を行なった際、同行した本郷泰行の孫・泰固(やすかた)が、将軍から猪・兎を下賜された出来事を後世に伝えていくために造立した石碑。本郷泰固は安政4年(1857)に側衆から若年寄に進み、1万石に加増されて駿河国川成島藩を立藩し大名となるが、翌5年の安政の大獄により減封、廃藩となっている。大名・旗本が自らの事跡を書き残した石碑は数が少なく、区内に居住した武家の足跡や地域の歴史を知るうえで貴重な歴史資料といえる。豊島区の有形文化財。
この本郷家の下屋敷は明治2年(1869年)に木戸孝允の別邸となった。木戸の別邸を明治天皇が訪問したことがあることから、「明治天皇行幸所木戸旧邸」の石碑も立つ。
③木戸坂 ※紹介のみ
案内板などはおそらくなし。木戸孝允の別邸があったことからこの名前がついた。
慶長年間(1596~1615年)以前に現在の赤坂山王日枝神社を勧請し創建されたと伝えられている。旧駒込村字新屋敷の鎮守で、台地の突端が鎮座地であるため東側が開け、美しい朝日が臨めたことから、古くは朝日山王宮と称された。崖際の境内は眺望が良く、その美しく風情ある景観を楽しむ歌人や俳人などが集ったという。1945年4月13日の空襲により、社殿・神楽殿・社務所は烏有(うゆう)に帰した。戦後に現社殿が再建された。
⑦大龍寺(正岡子規墓) ※紹介のみ
隣に次の⑧と⑨がある。上田端八幡神社の別当寺だった。
江戸時代の田端は田端村と呼ばれ、上田端と下田端にわかれていました。この八幡神社は上田端の村人の鎮守で、祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)です。文治(1185~1190)五年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定(奥州征伐)し、その帰路に駐留した証として、鎌倉八幡宮を勧請し、郷土の鎮守としました。境内には白髭神社、稲荷神社、大山祇(ずみ)神社が祭られています。
※奥州征伐又は奥州合戦は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。
大山祇神社は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本総鎮守とも称される。全国にある大山積神を祭る神社の総本社。主祭神の大山積神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。
※式内社とは、延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に記載されている神社。一種の社格となっている。式内社は全国で2861社。延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。これに対して、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。延喜式神名帳は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名式上・下のこと。
⑩赤紙仁王通り(東覚寺) ※紹介のみ
真言宗豊山派の寺院で、⑪田端八幡神社の別当寺だった。延徳3年(1491年)源雅により神田に創建。その後根岸(現在の台東区)そして、慶安年間(1600年頃)に田端の地に移転されたと言われている。7石の朱印地を受けていた。当寺院の特徴として山門に体中に赤紙が貼られた金剛力士像がある。これは、通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人がその部分に相応する箇所に赤紙を仁王像に貼ると治癒されると言われており、現在においても赤紙を貼る人が絶たない。 その後病が治癒すると、草履を供えるものとされており、その風習も現在残っている。
1189年(文治5年)に創建された。奥州征討の帰りに、源頼朝が当地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請したのが起源である。なおこの由緒は、上田端八幡神社のものと同じであり、両神社は元は単一の神社であったと推測されている。境内には、地元の富士講「田端冨士三峰講」が祀る富士塚がある。社殿は1945年(昭和20年)の空襲で焼失したが、戦後に再建された。しかし1990年(平成2年)、「反皇室」を掲げる極左暴力集団(新左翼過激派)の放火テロにより再度焼失、1993年(平成5年)に再建された。
⑫童橋
田端の切り通しが見渡せる歩道橋
芥川龍之介が大正3年から昭和2年に亡くなるまで居住した田端の旧居跡地の一部を区が購入し、芥川龍之介の名を冠し業績を顕彰する施設として、日本で初となる「(仮称)芥川龍之介記念館(以下「記念館」という。)」を開設し、田端文士村記念館を拠点とする田端地区及び滝野川エリアにおける文化のまちづくりを進めるうえでの大きな契機とします。
2018年 用地取得
2024年 クラウドファンディング(2024年10月1日~2025年1月7日)
2026年 開館予定
田端駅東口から南西へ登る坂です。 坂名はかつて田端駅東口付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによります。 この不動明王像は、明治45年(1912)5月に始まった田端駅拡張工事により現在地付近へ移され、さらに谷田川改修工事にともない, 昭和10年(1935)11月に現在地(田端3-14-1隣接地)へ移され、田端不動尊となっています。