水天宮・日本橋箱崎から永代橋・清洲橋へ|2023年ナイトウォークの歴史散歩

水天宮〜永代橋

水天宮から日本橋箱崎を抜け、永代橋を渡り、隅田川沿いから清洲橋へ。2023年のナイトウォークで歩いたルートには、江戸の水運、大名屋敷の信仰、明治の中央銀行、関東大震災後の復興橋梁が数キロの範囲に重なっています。夜景の美しい橋を追いながら、江戸から東京へ変わった水辺の歴史をたどります。

水天宮から永代橋・清洲橋へ|2023年に歩いたコース

水天宮を起点に、日本橋箱崎、旧永代橋の西詰付近、現在の永代橋、永代公園、日本橋中洲、清洲橋へとつながるコースです。箱崎では日本銀行創業の地にも立ち寄ると、江戸の水辺から明治の近代化、震災復興までが一本の道筋になります。

水天宮|久留米藩有馬家から江戸へ

東京の水天宮は、文政元年(1818)、久留米藩9代藩主の有馬頼徳ありまよりのりが、久留米の水天宮から江戸・芝赤羽根橋の上屋敷へ御分霊を勧請かんじょうしたことに始まります。もとは大名屋敷の中に祀られた神社でした。

江戸で信仰が広がると、毎月5日に限って屋敷が開かれ、一般の人々も参拝できるようになりました。有馬家と「情け深い」を掛けた「なさけ有馬の水天宮」という言葉が生まれたほど、多くの参拝者を集めました。

明治4年(1871)に青山へ移り、翌明治5年には現在の日本橋蛎殻町へ遷座しました。安産や子授けで知られる現在の水天宮には、久留米藩邸に祀られていた江戸時代の記憶も重なっています。久留米藩有馬家から石橋正二郎まで、東京と福岡のつながりを広げて見るなら、東京で福岡を探すで水天宮をほかの福岡県ゆかりの地と合わせて紹介しています。

東京都中央区の水天宮本殿と寳生辨財天
水天宮 本殿と寳生辨財天、2016年。撮影:tak1701d/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

日本橋箱崎|川の町から高速道路の町へ

日本橋箱崎町は、現在では首都高速道路や高層建築が目立つ一帯です。中央区は「箱崎」という町名について、筑紫の箱崎に由来する説と、かつて箱池・箱崎池があったとする説を紹介しています。

いまの街路だけでは分かりにくいものの、箱崎町と小網町・蛎殻町の間にはかつて箱崎川が流れていました。箱崎川や浜町川の埋立工事は昭和43年(1968)に始まり、昭和49年(1974)に完成しました。水路の跡は道路へ変わり、江戸以来の水辺の町は大きく姿を変えました。

日本銀行は箱崎で開業した

明治15年(1882)10月10日、日本銀行は現在の日本橋箱崎町で営業を始めました。最初の建物は、旧北海道開拓使物産売捌所を利用した煉瓦造りの建物で、設計はジョサイア・コンドルです。場所は当時の永代橋のたもとに近く、現在の永代橋より上流側にありました。

日本銀行は明治29年(1896)に現在の日本橋本石町へ移転し、箱崎の旧建物は大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。創業100周年にあたる昭和57年(1982)、創業地を伝える記念碑が建てられています。

永代橋|江戸の木橋から震災復興の大橋へ

幕府編纂の御実紀ごじっきには、元禄11年(1698)に深川の渡しに代わる新しい橋として永代橋が架けられたことが記されています。江戸時代の橋は、現在の永代橋よりおよそ100メートル上流にありました。

文化4年(1807)、富岡八幡宮の祭礼へ向かう群衆が橋に集中し、永代橋が落橋する大事故が起きました。江戸の人口と祭礼の熱気、隅田川を渡る交通の重さを物語る出来事です。

明治30年(1897)には鉄橋として現在地に架け替えられましたが、関東大震災で大きな被害を受けました。現在の永代橋は震災復興事業によって大正15年(1926)に完成したタイドアーチ橋です。隅田川の震災復興橋梁の中でも早く完成した橋で、平成19年(2007)には国の重要文化財に指定されました。

青くライトアップされた永代橋と隅田川の夜景
ライトアップされた永代橋、2008年。撮影:た!/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

永代公園と隅田川|橋の姿を横から見る

永代橋を渡って江東区側へ進むと、永代公園と隅田川テラスから大きなアーチを横から眺められます。夜は橋の照明が水面に映り、震災復興でつくられた橋の輪郭がよく分かります。

江戸時代、隅田川は人や物資を運ぶ水上交通の大動脈でした。箱崎の川や渡し場が姿を消した現在も、永代橋と清洲橋を結んで歩くと、水辺を軸に発展した町の形が残っています。

日本橋中洲と中洲の渡し|川の中に生まれ、消えた土地

清洲橋周辺は江戸時代、三股みつまたなどと呼ばれ、月見や納涼の名所として知られました。『江戸名所図会えどめいしょずえ』にもこの一帯の景観が描かれ、水面と広い空を楽しむ場所として親しまれていました。

日本橋中洲は隅田川河口部の土砂が堆積した場所で、明和8年(1771)に埋め立てられました。しかし洪水への影響から寛政元年(1789)に掘り戻され、再び川へ戻されています。現在の陸地からは想像しにくいほど、水と陸の境界が動いてきた土地です。

この付近には江戸時代から中洲の渡しがあり、対岸との往来を担っていました。関東大震災後に清洲橋が架けられると、渡し船が担っていた役割は橋へ移っていきます。

歌川広重が描いた名所江戸百景「みつまたわかれの淵」
歌川広重『みつまたわかれの淵』、1857年。Brooklyn Museum/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

清洲橋|渡し船から震災復興の吊橋へ

清洲橋は関東大震災後の帝都復興事業で建設され、昭和3年(1928)3月に完成しました。橋名は、当時の深川区清住町の「清」と日本橋区中洲町の「洲」を組み合わせたものです。

構造は三径間自碇式補剛吊橋で、ドイツ・ケルンのライン川に架かっていたヒンデンブルグ橋をモデルにしました。力強いアーチを描く永代橋に対し、清洲橋は吊橋の曲線が際立ちます。永代橋とともに平成19年(2007)、国の重要文化財に指定されました。

橋のたもとで見られる照明灯具

散歩では、清洲橋のたもとに残る照明灯具も見どころです。橋の大きな構造だけでなく、灯具の意匠まで見ると、復興橋梁が都市景観を意識して設計されたことが伝わります。

夜の隅田川で、江戸と東京が重なる

水天宮の信仰は久留米藩邸から始まり、箱崎の水辺には明治の日本銀行が生まれました。江戸の永代橋と渡し船は、震災復興によって現在の永代橋・清洲橋へ姿を変えています。数キロの夜道に、江戸・明治・大正・昭和の都市史が連続して残るルートです。

隅田川沿いの橋をさらに歩くなら、隅田川ナイトウォーク完全ガイド|萬年橋・清洲橋・両国橋を歩くで、清洲橋から上流側の橋と町の歴史も紹介しています。

あわせて読みたい

同じ水天宮・日本橋箱崎・永代橋・清洲橋周辺を別の行程で歩いた水天宮ナイトウォーク|日本橋箱崎・永代橋・清洲橋・隅田川を巡るコースも公開しています。訪問地点を比較すると、この一帯の史跡をより広くたどれます。

参考資料