富士見~飯田橋~神保町の歴史散歩|江戸の武家地から学校・鉄道・本の街へ

千代田区富士見にある東京大神宮の境内と社殿

富士見の高台から飯田橋を抜け、神保町へ。2025年3月15日のナイトウォークで歩いたこの道には、江戸の武家地、明治の学校、鉄道の発展、昭和初期の建築、そして本の街へ続く東京の変化が重なっています。

現在の街並みを追いながら、なぜここに大学の発祥地が集まり、飯田町が交通の拠点となり、その先の神保町に古書店街が育ったのかをたどります。

富士見から飯田橋へ――江戸の武家地を歩く

千代田区富士見は、江戸時代には旗本を中心とする武家地でした。高台から富士山を望めたことが「富士見」の名につながり、1872年に富士見町という町名が生まれています。現在は学校や住宅、商業施設が並びますが、外濠や見附、大名屋敷の痕跡を追うと江戸の地形が残っています。

江戸城三十六見附と現在の主要路線を示した図
【紫色:主な見附 白色:主なスポット 青色:現在の主要線路】見附は、城門と見張りの機能を備えた江戸城防衛の要所でした。外濠沿いには現在も石垣などの痕跡が残ります。

牛込見附――外濠に残る江戸城の入口

飯田橋駅西口近くの牛込見附は、江戸城外郭を守った見附の一つです。1639年に築かれ、外濠の見附の中でも石垣の遺構がよく残っています。現在の道路や線路が交わる場所に立つと、江戸城の外郭が現代の街の骨格に重なっていることが分かります。

江戸城の見附全体を詳しく知りたい場合は、江戸城三十六見附の一覧・見どころ・巡り方もあわせて読めます。

区境ホール――飯田橋駅の中を区境が通る

飯田橋駅に接するRAMLAの区境ホールでは、新宿区と千代田区の境界が建物内を通り、床に区境が表示されています。江戸の外濠沿いに発達した飯田橋が、現在も行政区の境界に位置することを目で確かめられる場所です。

東京農業大学 開校の地――飯田町に生まれた農学教育

1891年、現在の飯田橋付近にあたる麹町区飯田河岸で、東京農業大学の前身「私立育英黌農業科」が開設されました。創設にあたった榎本武揚えのもとたけあきは、幕末から明治を生きた政治家で、北海道開拓にも関わった人物です。東京農業大学は、この学校を日本で最初期の私立農学校として位置づけています。

なぜ飯田町に大学の発祥地が集まったのか

明治の飯田町には近代教育の拠点が集まりました。1882年には國學院大學の母体となった皇典講究所が創設され、1889年創立の日本法律学校、現在の日本大学も当初は飯田町の皇典講究所を校舎として使いました。1900年には麹町区飯田町の東京至誠医院内に東京女医学校が開かれ、現在の東京女子医科大学へつながっています。

東京農業大学、日本大学、國學院大學、東京女子医科大学につながる教育機関が短い距離に集中していたことは、明治期の飯田町が近代教育の一拠点だったことを物語ります。

東京大神宮――日比谷から富士見へ移った「東京のお伊勢さま」

東京大神宮は1880年、東京から伊勢神宮を遥拝するため日比谷に創建されました。関東大震災後の1928年に現在の富士見へ移り、戦後に「東京大神宮」の名となりました。一般の人々に向けた神前結婚式を広めた神社としても知られています。

千代田区富士見にある東京大神宮の境内と社殿
東京大神宮、2006年。撮影:Lombroso/Wikimedia Commons/Public Domain。

東京ルーテルセンタービル――1937年の昭和建築

東京ルーテルセンタービルは1937年、日本神学校の建物として建てられました。白い外壁、塔のように立ち上がる部分、幾何学的な窓まわりに昭和初期の洋風建築の特徴が残り、東京都選定歴史的建造物にも選ばれています。富士見では、江戸の史跡だけでなく近代建築も街の時間の層を伝えています。

飯田町――地名と鉄道がつくった近代の街

飯田町の名は徳川家康の江戸入府にさかのぼる

1590年、徳川家康が江戸へ入った際、周辺を案内した村人が飯田喜兵衛きへえでした。土地の事情を詳しく説明した喜兵衛は名主に任命され、地名も「飯田町」とするよう命じられたと千代田区の町名由来板に記されています。

現在は「飯田橋」の名が広く使われていますが、その前提には江戸時代から続く飯田町の地名があります。

飯田町駅と甲武鉄道――鉄道が人の流れを変えた

1889年に開業した甲武鉄道は、1895年に飯田町まで延伸しました。飯田町駅の開業によって、この一帯は鉄道交通の拠点へ変わっていきます。甲武鉄道はのちに国有化され、現在の中央線につながりました。江戸の武家地だった飯田町は、明治には学校と鉄道が集まる近代都市へ姿を変えます。

甲武鉄道や飯田町周辺をさらに詳しく歩く記事として、九段下~飯田町~飯田橋の歴史散歩があります。

讃岐高松藩上屋敷庭園跡――再開発地に残る大名屋敷の庭

現在の飯田橋3丁目周辺には、江戸時代に讃岐高松藩松平家の上屋敷がありました。発掘調査では庭園の泉水を囲んでいた護岸石が確認され、現在の「平川の径」にもその石が生かされています。高層ビルが並ぶ街区で、江戸の大名屋敷の庭が地面の形として受け継がれている場所です。

徳川将軍家の系図

西神田から神保町へ――学校街が本の街になる

東方学会本館――震災後の東京に建ったモダニズム建築

西神田の東方学会本館は1926年築の鉄筋コンクリート造で、もとは学校建築として建てられたとみられています。水平線を強調した窓台や庇、半円アーチの入口が特徴です。1947年設立の東方学会が使用し、千代田区の景観まちづくり重要物件に指定されています。内部は一般公開されていませんが、外観から大正末から昭和初期の都市建築を観察できます。

専修大学 黒門――学校の移転が神保町の学生街を育てた

専修大学の前身・専修学校は1880年に銀座で開校し、1885年に現在の神田神保町へ移転しました。1888年に敷地を拡張した際、黒く塗られた冠木門が正門となり、「黒門」の名が学校の象徴として定着しました。現在の黒門は創立130年を記念して2010年に設置されたものです。

専修大学のほか、明治大学、日本大学、中央大学などの教育機関が神田・神保町周辺に集まったことが、学生街としての地域の性格を強めました。

神保町の地名――旗本の屋敷から生まれた

神保町じんぼうちょうの名は、元禄年間にこの付近に広い屋敷を構えた旗本・神保長治じんぼうながはるに由来します。屋敷の近くを通る道が「神保小路」と呼ばれ、明治に入ると神保町の町名が成立しました。江戸時代のこの一帯は、富士見や飯田町と同じく武家屋敷が並ぶ地域でした。

なぜ神保町は古書店街になったのか

明治以降、神保町と周辺には大学や学校が集まりました。学生や教員が増えると本への需要が生まれ、書店、古書店、出版社、印刷・製本業が集積します。千代田区の資料では、1875年の高山本店、1881年の三省堂書店、1913年の岩波書店など、この地域で本を扱う事業者が次々に創業した経過が紹介されています。

1913年の神田の大火、1923年の関東大震災を経ても書店街は再形成されました。学校街が本の需要を生み、本を扱う店と出版・印刷業がさらに人を集める。その循環が、現在まで続く神保町の「本の街」を形づくりました。

神保町から駿河台までの学校史や史跡をさらに歩くなら、神保町~駿河台の歴史散歩、万世橋・御茶ノ水方面から神保町へ入るルートは秋葉原から神保町を歩く歴史散歩にまとめています。

歩いて確認したい9つの場所

  1. 区境ホール――新宿区と千代田区の境界を見る
  2. 東京農業大学 開校の地――1891年の農学教育の出発点
  3. 東京大神宮――日比谷から移転した「東京のお伊勢さま」
  4. 東京ルーテルセンタービル――1937年築の歴史的建造物
  5. 飯田町駅跡――甲武鉄道と中央線の歴史をたどる
  6. 讃岐高松藩上屋敷庭園跡――大名屋敷の庭園遺構を見る
  7. 東方学会本館――1926年築の近代建築を見る
  8. 専修大学 黒門――神保町の学校史をたどる
  9. 神保町古書店街――学校街から本の街へ変わった現在の姿を見る

主な参考資料