東京・杉並の高井戸は、江戸時代の甲州街道と、神田川・神田上水、玉川上水が交わる歴史の厚い地域です。高井戸宿は日本橋から約4里、現在の距離で約16キロメートル。内藤新宿ができる前は、甲州道中で江戸を出て最初の宿場を担っていました。
さらに神田川沿いには、約3万2千年前の高井戸東遺跡、縄文時代中期の下高井戸塚山遺跡が残ります。宿場町の成立よりはるか以前から人が暮らし、江戸の交通と上水、近現代の都市問題と治水へ続く高井戸の歴史を、現地の史跡とともにたどります。
高井戸宿は甲州街道最初の宿場だった
江戸時代の公称は甲州道中で、現在は甲州街道の名が広く使われています。杉並区の資料では、慶長7年(1602年)頃に高井戸宿が設けられ、慶長9年(1604年)頃に下高井戸宿と上高井戸宿に分かれました。
高井戸宿は日本橋から約4里離れており、当初は甲州道中の第一宿でした。元禄11年(1698年)頃に日本橋と高井戸の間へ内藤新宿が設けられると、高井戸はその次の宿場となります。現在の甲州街道沿いは国道20号や首都高速道路として大きく姿を変え、宿場の記憶は一里塚跡の案内標示、寺社、地名などに点在しています。
甲州道中は日本橋から内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府、上諏訪を経て、下諏訪で中山道へ合流しました。高井戸は江戸近郊の農村でありながら、公用の人馬や荷物を次の宿へ継ぐ交通拠点でもありました。
上高井戸宿と下高井戸宿が一つの宿場を担った
高井戸宿の大きな特徴が、上高井戸宿と下高井戸宿による合宿です。月の1日から15日までは下高井戸宿、16日から月末までは上高井戸宿が、人馬と荷物の継ぎ立てを担当しました。周辺では農業に従事する人が多く、一つの宿だけで負担するのが難しかったためです。
天保14年(1843年)の宿村大概帳によると、上高井戸宿は家数168軒・人口787人、本陣1軒・旅籠2軒、下高井戸宿は家数183軒・人口890人、本陣1軒・旅籠3軒でした。上下それぞれに25人・25匹の人馬が定められ、問屋場が継ぎ立ての実務を担いました。
人馬が足りないときには、周辺の村々が助郷として人足や馬を出しました。宿場は旅人が泊まる場所に加え、幕府の交通を支える業務と負担が集中する場所でもありました。
日本橋から四里目の一里塚
下高井戸1丁目には、甲州道中一里塚跡の案内標示があります。ここは日本橋から四里目を示した場所で、かつて街道の両側に土を盛った一里塚が築かれ、旅人が距離や駄賃を確かめる目印になっていました。現在は高速道路下に位置し、街道が近代の幹線道路へ変わった姿も同時に見られます。
高井戸の歴史は約3万2千年前までさかのぼる
高井戸地域の歴史は、宿場町より3万年以上前へさかのぼります。高井戸東遺跡では旧石器時代の石器が多数出土し、なかでも局部磨製石斧は、出土層から約3万2千年前頃のものと推定されています。刃の部分を磨いた石斧で、杉並区指定有形文化財になっています。
遺跡は現在の高井戸地域区民センターや杉並清掃工場周辺に広がり、神田川のような小河川流域にある旧石器時代遺跡として都内最大級です。水を得やすく、台地と川沿いの低地が接する地形が、人の活動の舞台になりました。
同じ高井戸では、1966年に杉並清掃工場の建設計画が発表され、約9年にわたる住民運動を経て1974年に和解が成立しました。工場は1983年に本格操業を開始し、この一連の経緯は「東京ごみ戦争」の重要な舞台として記録されています。旧石器時代の遺跡と20世紀の都市問題が、同じ場所に重なっています。

神田川沿いの縄文集落・下高井戸塚山遺跡
神田川沿いを下流へ進むと、下高井戸塚山遺跡があります。杉並区内でも最大規模の縄文遺跡で、縄文時代中期、約5,500~4,400年前の住居跡を中心とする集落です。
発掘調査では、中央に広場を設け、その周囲を住居が囲む環状集落の姿が明らかになりました。良好な形で集落構造が確認されたため遺跡を保存する公園として整備され、1999年に公園敷地全体が杉並区指定史跡となっています。復元された竪穴住居から、神田川沿いで営まれた縄文の暮らしを具体的に想像できます。

下高井戸村の鎮守・下高井戸八幡神社
下高井戸八幡神社は、旧下高井戸村の鎮守です。社伝では、長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築いた際、工事の安全を願って鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を祀ったことを創建の由来としています。
現在につながる確かな建築史として、本殿は棟札から弘化4年(1847年)の再建と分かっています。江戸時代の下高井戸は宿場の機能と農村の暮らしが並存しており、八幡神社は村の信仰を担った場所でした。

神田川と神田上水
高井戸を流れる神田川は、江戸の神田上水につながる水の流れです。神田上水は井の頭池、善福寺池、妙正寺池などの水を集め、現在の神田川を流れた水を関口の大洗堰で取り入れ、小石川から水道橋方面へ導きました。
水道橋付近では、川を越える懸樋によって水を渡し、その先は木樋や石樋で神田・日本橋方面へ配りました。高井戸では上水路そのものよりも、その水源側をなす神田川の流れを現地で見られます。

神田上水と玉川上水を含む江戸・東京の水道全体は、東京水道の歴史で体系的に解説しています。関口大洗堰から水道橋まで実際の水路跡を歩く場合は、神田上水跡を歩く|高田馬場・関口大洗堰・水道橋の歴史散歩がつながります。
永昌寺に残る玉川上水工事の記憶
永昌寺は曹洞宗の寺院です。杉並区の文化財解説によると、『御府内備考続編』と寺伝では寛永元年(1624年)に江戸四ツ谷塩町で開創したとされ、開山は明岩舜洞です。1910年に下高井戸にあった永泉寺を合併し、現在地へ移りました。
合併した永泉寺から伝わったのが「玉石薬師」と呼ばれる玉石です。寺伝では、玉川上水工事の際に永泉寺付近で光沢のある玉石が掘り出され、その表面に薬師像が浮かんだとされます。永泉寺は工事の無事竣工を願って玉石を供養し、近隣の信仰を集めました。1945年5月の空襲で玉石は光沢を失いましたが、現在も寺に安置されています。

神田上水と玉川上水が近接する高井戸・永福
高井戸から永福にかけて歩くと、江戸を支えた二つの上水の歴史が近い範囲に重なります。神田上水は井の頭池などの湧水と河川の流れを利用し、神田川から関口で水を取り入れました。玉川上水は多摩川の水を羽村から四谷大木戸へ運ぶ人工水路で、1654年に江戸への給水が始まりました。
玉川上水永泉寺緑地は、暗渠となった旧水路上の緑地です。周辺では玉川上水公園、永泉寺緑地、第三公園、第二公園が東西に続き、水路の線形を現在の街の中で追えます。

玉川上水が近代水道へ組み込まれ、淀橋浄水場へ原水を送った時代は、幡ヶ谷~新宿|玉川上水新水路・水道道路・和泉川暗渠を歩くで現地の痕跡を紹介しています。
現在の神田川と下高井戸調節池
神田川は江戸の上水を支えた川であると同時に、現在の東京で治水対策が続く都市河川です。東京都は下高井戸おおぞら公園の地下に、貯留量約3万立方メートルの下高井戸調節池を整備しています。地下箱式の施設で、2026年8月時点では整備中です。
大雨の際に神田川の水を一時的に貯め、下流へ流れる水量を抑える計画です。高井戸周辺を歩くと、旧石器時代から生活を支えた川が、江戸では上水の水源となり、現代では洪水対策の対象にもなっていることを同じ流域で確認できます。
高井戸から下高井戸・永福を歩く
高井戸駅から神田川沿いを進み、旧石器・縄文の遺跡、下高井戸村の鎮守、江戸の二つの上水へ時代を重ねながら歩けるコースです。高井戸宿そのものの位置と甲州道中の距離感を確かめるなら、下高井戸1丁目の甲州道中一里塚跡も合わせると、街道史がより具体的につながります。
- 高井戸東遺跡 — 約3万2千年前頃の局部磨製石斧が出土した旧石器時代遺跡。
- 歴史と文化の散歩道[神田川川辺の路散歩] — 神田川沿いの地形と水辺をたどる区間。
- 三泉淵緑地 — 神田川南側の斜面地につくられた緑地。
- 下高井戸塚山遺跡 — 縄文時代中期の環状集落を保存する塚山公園。
- 下高井戸八幡神社 — 旧下高井戸村の鎮守。
- 万葉植物園 — 杉並区立向陽中学校に整備された、万葉集に詠まれた植物を集める園。
- 下高井戸調節池 — 神田川の洪水対策として整備が進む地下調節池。
- 「時の恐竜」岡崎乾二郎 — 地域の現代美術に触れられる作品。
- 永昌寺 — 玉川上水工事の伝承を伝える玉石薬師を祀る寺。
- 玉川上水永泉寺緑地 — 暗渠化された玉川上水の旧水路をたどれる緑地。

