新宿の高層ビル群から、それほど遠くない場所に小さな山があります。
戸山公園の箱根山です。標高は44.6メートル。山手線内で最も高い山として知られています。しかし、山頂へ続く坂道も、その周囲に広がる緑も、単なる都心の自然ではありません。
山の下には、三十数棟の高層住宅が並ぶ戸山ハイツがあります。その足元には商店、集会所、介護施設、相談拠点があり、長く暮らしてきた高齢者と、近年入居した外国籍の家族が同じ道を行き交います。
この場所は、江戸時代には尾張徳川家の巨大庭園でした。明治になると陸軍の学校となり、敗戦後には住む場所を失った人々のための復興住宅へ変わりました。さらに高度成長期には木造住宅が高層団地へ建て替えられ、現在は高齢化と多文化化の両方に向き合っています。
一つの土地が、庭園、軍用地、復興住宅、福祉と共生の町へ変わる――。
戸山ハイツを歩くと、東京が約350年の間に何を必要とし、何を造り替えてきたのかが見えてきます。
30秒で分かる戸山ハイツ
戸山ハイツは、東京都新宿区戸山二丁目に広がる大規模な都営住宅です。
現在の高層住棟だけを見ると、昭和の高度成長期に造られた一般的な団地に見えるかもしれません。しかし、この土地の履歴は団地建設よりはるかに古く、江戸時代の大名庭園までさかのぼります。
歴史の流れを簡単に整理すると、次のようになります。
- 江戸時代:尾張徳川家の下屋敷と巨大庭園「戸山荘」
- 明治から1945年:陸軍戸山学校などの軍用地
- 1948~1949年:戦災復興住宅として木造戸山ハイツを建設
- 1949年:鉄筋の戸山アパートも完成
- 1968~1975年:木造住宅を鉄筋高層住宅へ建替え
- 1975年:3,051戸の高層化が完成
- その後:住民と建物の高齢化、商店減少、住戸改修の課題
- 2011年:暮らしの保健室が開所
- 近年:外国籍の家族が増え、多世代・多文化共生が新しい課題になる
重要なのは、戸山ハイツを「古い団地」とだけ見ないことです。
この町は、江戸の大名文化、近代日本の軍事化、敗戦直後の住宅不足、高度成長期の住宅政策、現在の高齢化と地域医療を、同じ土地の上に重ねています。
山手線内の「山」と巨大団地
戸山ハイツへ入る前に、まず箱根山へ登ってみましょう。
標高44.6メートルなので、登山というほどの距離ではありません。それでも木々の間の坂を上がると、周囲が都心であることを一瞬忘れます。山頂周辺からは、戸山ハイツの高層住棟や新宿の街を望めます。
不思議なのは、この山が自然に残った丘ではないことです。
江戸時代、ここにあった大名庭園の中で人工的に築かれた山が、形を変えながら現在まで残ったものです。つまり、箱根山へ登ることは、庭園の一部を実際に歩くことでもあります。
山の周囲には、陸軍戸山学校跡記念碑や軍楽隊の野外演奏場跡が残り、その先には戦後に造られた団地があります。
わずかな距離の中に、江戸、明治、戦争、戦後復興、高度成長の痕跡が並んでいるのです。
江戸随一の大名庭園・戸山荘
現在の戸山公園と戸山ハイツ周辺には、かつて尾張徳川家の下屋敷がありました。その庭園が戸山荘です。
東京都公園協会の説明では、戸山荘は約45万平方メートルに及びました。現在の東京ドーム約9個分に近い広さです。単なる別邸の庭ではなく、池、山、道、建物、町並みまでを組み込んだ巨大な人工景観でした。
詳しい公式解説では、庭園の約8割が池だったとされます。起伏のある土地を利用しながら、水辺を巡って景色が変わるよう設計されていました。
さらに、庭園内には東海道の小田原宿を模した町並みが設けられていたといいます。大名が江戸の屋敷内に、街道を旅するような景観を造ったのです。
箱根山の起源となった築山も、この庭園の一部でした。公園の公式説明では「玉円峰」と呼ばれた人工の山が、現在の箱根山になったとされています。
残されている「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全圖」を見ると、現在の高層住宅からは想像しにくいほど、複雑な水辺と庭園空間が広がっていたことが分かります。

この図を現在の地図と一対一で正確に重ねるには慎重な検証が必要です。ただし、戸山荘が小さな庭ではなく、地域全体の地形と土地利用を作り替えるほどの規模だったことは読み取れます。
現在も残る箱根山は、失われた庭園を想像するための最も分かりやすい手がかりです。
古地図と現在の街を見比べる基本は、古地図まるわかりガイドで詳しく解説しています。
庭園は陸軍の学校へ変わった
江戸幕府が終わると、戸山荘の土地は新しい役割を与えられます。
明治政府は近代的な軍隊を整備するため、東京各地に兵営、学校、射撃場、病院、工場を置きました。広い敷地と起伏を持つ戸山一帯も、陸軍の教育・訓練用地へ転換されます。
アジア歴史資料センターによると、1873年に兵学寮戸山出張所が開校し、1874年に陸軍戸山学校へ改称されました。
戸山学校は、現在の一般的な学校とは異なります。軍隊の射撃、体操、戦法、操練、勤務、ラッパ等を教育・研究する施設でした。制度は時代に応じて変わり、1912年に射撃・戦術・通信等の部門が陸軍歩兵学校へ分離された後は、体操、剣術、ラッパ、軍楽等が中心となりました。
軍楽隊の教育と演奏の場でもあったため、戸山公園には現在も野外演奏場跡が残っています。

掲載する写真は、戸山公園に建つ陸軍戸山学校跡記念碑です。学校の校舎そのものではありませんが、この場所が終戦まで軍事教育施設だった記憶を伝えています。
江戸の庭園は、景色を楽しむ場所から、兵士の身体と技術を訓練する場所へ変わりました。
土地の起伏や広さは同じでも、社会がその土地に求める役割が変われば、空間の意味も大きく変わるのです。
陸軍戸山学校跡、射撃場、陸軍病院跡などを実際に歩く場合は、戸山~高田馬場の旧軍施設を巡る街歩き記事も参考になります。
終戦と住宅不足――軍用地が住まいになる
1945年、日本の敗戦によって陸軍戸山学校の歴史は終わります。
しかし、軍が去った後の東京には、別の深刻な問題がありました。
空襲で多くの住宅が焼け、復員者や引揚者も都市へ戻ってきました。家族が一部屋に同居し、仮小屋や焼け残った建物で生活する人も少なくありませんでした。東京にとって、広大な旧軍用地は、すぐに住宅を供給できる貴重な土地でした。
東京都議会の記録では、1948年、約24ヘクタールの旧軍用地に、木造平屋約360棟、約1,060戸の戦災復興住宅が建設されたと説明されています。
これは、後に戸山ハイツと呼ばれる住宅群です。

1945~1950年の航空写真は、軍用地が戦後の住宅地へ変わり始めた時期を示しています。個々の建物の完成年や用途を写真だけで断定することはできませんが、現在の高層団地とは全く異なる低層中心の土地利用が見えます。
かつて兵士を訓練した場所が、今度は家を失った市民の生活を支える場所になりました。
戸山の土地は、敗戦を境に二度目の大転換を迎えたのです。
1949年、二つの戦後住宅が完成した
新宿区の区史年表には、1949年に戸山地区で二つの大規模住宅が完成したことが記録されています。
3月1日に「戸山ハイツ」1,052戸が竣工しました。
さらに11月1日には、鉄筋住宅団地「戸山アパート」1,016戸が竣工しています。
同じ年、同じ戸山地区に、木造平屋の緊急住宅と鉄筋住宅団地が並行して現れたのです。これは、戦後日本の住宅政策が一つの完成形を持っていたわけではなく、目の前の住宅不足へ複数の方法で対応していたことを示します。
木造戸山ハイツは、短期間で多くの住まいを供給するための復興住宅でした。一方、鉄筋の戸山アパートは、不燃化と集合住宅化を進める別の方向を示していました。
東京都議会の記録によると、木造戸山ハイツにはGHQから払い下げられた資材も使われ、入居当初は畳も間仕切りも十分ではなかったとされます。
住民は畳、ふすま、生活設備を自費で整え、「与えられた箱」を家族が暮らせる住まいへ変えていきました。
住宅戸数だけを見れば、行政が1,052戸を供給したことになります。しかし、生活の側から見れば、住民が自分の費用と労力を加え、初めて家が完成したともいえます。
この経験が、後の建替え問題へ強く影響します。
公営住宅、公団住宅、2DK、住棟配置などの基礎は、団地まるわかりガイドで整理しています。
高層住宅へ――住民が守ろうとしたもの
木造住宅は、短期間で住まいを確保するには役立ちました。しかし、火災への弱さ、老朽化、設備不足、土地利用の効率等の課題がありました。
東京都は、不燃化と中高層化を進めようとします。
ところが、建替えは単純には進みませんでした。東京都議会の記録では、払下げか建替えかをめぐり、居住者との意見対立から事業が一時中断したと説明されています。
外から見ると、「古い木造住宅を新しい鉄筋住宅へ変える方がよい」と思えるかもしれません。
しかし、住民にとって木造住宅は、行政から一方的に与えられた仮住まいではありませんでした。畳や間仕切りを自費で入れ、家族の生活を積み重ね、近所との関係を築いた場所です。
建替えは、建物だけを交換することではありません。
- 移転中の住まいはどうなるのか
- 新しい家賃を払えるのか
- 元の場所へ戻れるのか
- 商売を続けられるのか
- 近所との関係は残るのか
- 自分で整えた住まいへの投資はどう扱われるのか
という生活全体の問題でした。
最終的に、戸山ハイツの鉄筋高層化は1968年11月に着工し、1975年3月に3,051戸で完成します。

1974~1978年の航空写真には、高層住棟が並ぶ団地の骨格が見えます。終戦直後の写真と見比べると、同じ土地が短期間のうちに全く異なる都市空間へ変わったことが分かります。
高層化によって不燃化と住宅戸数の確保は進みました。一方で、その過程には住民の交渉、移転、営業継続、生活関係の再編がありました。
戸山ハイツは、行政が一方的に完成させた団地ではなく、住民が生活条件を守ろうとした交渉の上に成立した町でもあります。
3,051戸の町に商店と自治会が生まれた
1975年に完成した3,051戸という規模は、単に高層住宅が多数建ったという意味ではありません。
戸山ハイツは、一つの町として機能する必要がありました。
数千世帯が生活すれば、食料品、日用品、理美容、飲食、医療、保育、集会の場所が必要です。東京都議会の記録によると、高層化の際には、以前から敷地内で営業していた商店が新しい住棟へ移転した例と、団地規模に応じて必要な業種として外部から誘致された例がありました。
現在の33号棟前に見える生協マーケットも、住棟と生活サービスが近接する団地の構造を象徴しています。
また、戸山二丁目には東・南・北・西の複数の自治会があります。戸山ハイツ全体を一つの組織が運営しているわけではなく、棟や地区に応じて住民組織が形成されてきました。
団地の自治会は、祭りや清掃だけを担う組織ではありません。
高齢者の見守り、防災、情報伝達、ごみ出し、共同空間の維持、行政との交渉等、住民が多数暮らす高層住宅の生活基盤を支えます。
戸山ハイツの歴史を見ると、団地は「住宅の集合」ではなく、商店、自治会、福祉、緑地を含む生活圏だったことが分かります。
なぜ住民と建物が同時に高齢化したのか
戸山ハイツでは、高齢化が長く課題として語られてきました。
ただし、「若い人が出ていき、高齢者だけが残った」と一言で説明すると、重要な構造を見落とします。
高層化された住宅の多くは、1960年代末から1970年代前半に供給されました。同じ時期に、多くの世帯が入居します。その後、子どもが成長して独立しても、親世代は住み続けます。
公営住宅は、所得や住宅確保の条件に応じて入居する制度です。民間マンションのように自由に売買して、世帯が短期間で入れ替わる仕組みとは異なります。
そのため、長期居住が積み重なると、建物の築年数と住民の年齢が一緒に上がりやすくなります。
さらに、子どもが独立すると、かつて家族で暮らした住戸に一人または二人で住む世帯が増えます。住戸数が同じでも人口は減り、地域の商店利用者や自治会担い手も少なくなります。
2026年6月の現地取材では、戸山ハイツには約3,000世帯が暮らし、高齢化率は5割を超えると報じられました。ただし、これは取材記事上の概数であり、行政統計と同じ精度の最新値として扱ってはいけません。
重要なのは数字そのものより、その背景です。
戸山ハイツの高齢化は、住民が町を選ばなくなったから起きたのではありません。戦後に同時期の大量入居を行い、長く住み続けられる公営住宅を造った結果として生じた、都市住宅政策の時間差なのです。
小さな住戸を暮らしに合わせる知恵
長く住み続けると、家族構成も身体の状態も変わります。
都営戸山ハイツを調査した2013年の研究では、高齢居住者が限られた住戸を自分の生活に合わせて使い替えていることが報告されました。
例えば、二つの部屋の間の扉を外し、一つの広い空間のように使う例がありました。洗面台等の設備を外して作業場所を作る例、一室を収納として使う例も確認されています。
これは、単なる「物が多い」という話ではありません。
入居当初は子どもを含む家族で暮らしていた住戸が、数十年後には一人暮らしの高齢者の住まいになります。生活動線、睡眠、食事、収納、介護の必要性が変わっても、住戸の基本的な広さや間取りは簡単には変わりません。
住民は、扉を外す、家具を動かす、部屋の用途を変える等、小さな工夫を重ねてきました。
一方、身体機能が低下すると、段差、浴室、トイレ、収納、避難経路が大きな負担になります。公的な住宅改修助成があっても、制度を知ること、申請すること、工事業者と調整すること自体が難しい場合があります。
戸山ハイツの住戸は、建築時の間取りを見るだけでは理解できません。
数十年の暮らしの中で、住民がどのように住まいを作り替えてきたかまで見る必要があります。
商店が減ると「近い店」が遠くなる
都心にある団地なら、買物に困らないように思えます。
しかし、戸山ハイツを対象にした2016年の研究では、周辺の買物施設が減少し、特に生鮮食品店の減少が大きかったと報告されています。
コンビニエンスストアが増えても、魚、肉、野菜、日常の食材を選べる店の代わりになるとは限りません。
若い人なら、少し離れたスーパーへ歩く、電車や自転車で移動する、重い荷物を持ち帰ることができます。しかし、歩行が難しくなった高齢者にとって、数百メートルの差、坂道、信号、荷物の重さは大きな問題です。
地図上で店が近くても、身体の状態によっては「利用できない店」になります。
研究では、宅配に頼る人や歩行困難な人が増え、買物支援が必要だと指摘されました。
商店の減少は、単に団地の景観が寂しくなる問題ではありません。
食事の選択肢、栄養、外出機会、店員や近所の人との会話を失うことにつながります。高齢者の孤立を考えるとき、住戸だけでなく、日常的に歩いて行ける店の存在が重要なのです。
空き店舗から生まれた暮らしの保健室
商店が減ることは課題ですが、空いた場所が新しい地域機能へ変わることもあります。
2011年7月、戸山ハイツに「暮らしの保健室」が開所しました。代表は看護師の秋山正子です。
厚生労働省の説明では、暮らしの保健室は、高齢者だけでなく地域で暮らす人を対象に、健康、医療、介護、暮らしの相談を受ける場所でした。
病院ではありません。診察や治療を行う診療所でもありません。
病院で説明を受けたが理解できない。退院後の生活が不安である。介護保険をどこへ相談すればよいか分からない。一人暮らしで病気になったときが心配である。
そのような、医療機関の診察室だけでは解決しにくい不安を持ち込める場所です。
在宅医療を理解する看護師が、病院と地域の医師をつなぎ、介護・福祉の情報を伝え、必要な支援へ橋渡しします。
この拠点が戸山ハイツに必要とされた背景には、高齢化、単身化、慢性疾患、医療と介護の制度の複雑さがあります。
同時に重要なのは、暮らしの保健室が団地の空き店舗から生まれたことです。
かつて商品を売り、住民が会話した場所が、今度は健康と生活の相談を受ける場所になりました。戸山の土地が庭園から軍用地、住宅地へ変わってきたように、団地内部でも空間の役割が変わったのです。
2017年には、戸山ハイツ4号棟に、小規模多機能型居宅介護、デイサービス、地域交流スペースを組み合わせた「戸山いつきの杜」も開設されました。
東京の別地域で医療・福祉・民間支援がどのように組み合わされたかは、山谷の福祉と支援の歴史でたどれます。
高齢団地から多世代・多文化の町へ
戸山ハイツを「高齢者だけの町」と考えると、現在起きている変化を見落とします。
2026年の現地取材では、戸山ハイツで近年、外国籍住民の家族が増えていると報じられました。
以前から中国、韓国、フィリピン等にルーツを持つ住民が暮らしていましたが、近年はネパール、ミャンマー、タイ等、より多様な背景の住民が入居しているといいます。
言葉や生活習慣が違えば、ごみ出し、自治会費、清掃、防災、掲示物の読み方等で戸惑いが生まれます。同じ棟に住んでいても、交流する機会がなければ、互いに顔が分からないまま暮らすことになります。
取材では、多言語の案内表示、外国籍住民による自治会費の集金、団地内の大掃除への参加等が紹介されました。
これは、すべての課題が解決したという話ではありません。
外国籍住民を、高齢化した団地を若返らせるための「人材」として扱うべきでもありません。同じ地域で住まいを必要とし、生活する住民です。
大切なのは、最初から完全な参加を求めるのではなく、あいさつ、清掃、当番、防災等、できることから関係を作ることです。
長年住んできた高齢者が持つ地域の記憶と、新しく入居した家族が持つ生活経験が出会えば、戸山ハイツは「高齢団地」だけでは説明できない町になります。
江戸の大名庭園から始まったこの土地は、今、多様な人が共に暮らす都市住宅として、次の役割を探しているのです。
戸山ハイツを歩くと見えてくる歴史
戸山ハイツの歴史は、現地を歩くと理解しやすくなります。
おすすめの順序は次のとおりです。
1.戸山公園の箱根山
まず箱根山へ登ります。この山が戸山荘の人工の築山に由来すると知ると、現在の公園が江戸時代の地形を受け継いでいることが分かります。
2.陸軍戸山学校跡記念碑
箱根山の麓にある記念碑を確認します。碑は学校建物ではありませんが、庭園が軍事教育施設へ変わった歴史の目印です。周辺の野外演奏場跡も軍楽教育の記憶を伝えます。
3.高層住棟の配置
公園から戸山ハイツへ進み、住棟の間隔、緑地、歩行者動線を見ます。1974~1978年の航空写真と現在地を見比べると、木造住宅を高層化し、住棟と広場を配置した計画が見えてきます。
4.住棟に併設された商店
33号棟周辺等では、住宅と商業機能が近接する団地の構造を確認できます。営業状況や店舗内部を無断で撮影せず、住民の生活空間であることに配慮してください。
5.暮らしの保健室と地域施設の位置
相談、介護、交流の機能が団地の中にどう置かれているかを確認します。住戸、商店、公園、福祉施設が歩ける範囲にあることが継続居住を支える一方、店の減少や身体機能低下によって、その距離の意味が変わることも考えてください。
陸軍戸山学校跡、陸軍射撃場、陸軍病院跡などを巡る詳しいコースは、前掲の街歩き記事で確認できます。
戸山ハイツは観光施設ではなく、現在も多くの人が暮らす住宅です。表札、窓、洗濯物、住戸内、住民の顔を無断で撮影しないでください。通路をふさがず、集会所や店舗へ無断で入らないことも大切です。
まとめ――戸山ハイツは東京の350年を重ねた町
戸山ハイツの高層住宅の下には、約350年にわたる東京の歴史が重なっています。
江戸時代には、尾張徳川家が巨大庭園・戸山荘を築きました。
明治になると、庭園は陸軍戸山学校へ変わり、兵士の射撃、体操、剣術、軍楽等を教育する場所になりました。
敗戦後、旧軍用地は住宅を失った人々のための復興住宅へ変わります。1949年には木造戸山ハイツ1,052戸と、鉄筋戸山アパート1,016戸が完成しました。
住民は不十分な設備を自費で整え、仮設的な住宅を生活の場へ変えました。そのため、高層化は単純な建替えではなく、住民が作った住まいと関係をどう引き継ぐかという交渉になりました。
1968年から1975年に鉄筋高層化が進み、3,051戸の巨大団地が成立します。商店、自治会、緑地、生活施設が組み合わされ、一つの町が造られました。
その後、建物と住民は同時に年齢を重ねます。小さな住戸の使い方、買物、医療、介護、孤立が課題になりました。
しかし、戸山ハイツは止まっていません。
空き店舗から暮らしの保健室が生まれ、介護と交流の施設が整えられました。近年は外国籍の家族も増え、自治会活動や共同清掃を通じて、新しい関係が作られつつあります。
戸山ハイツを「高齢者の多い古い団地」とだけ呼べば、この長い歴史も、現在の変化も見えなくなります。
ここは、東京が必要とするものに応じて、庭園、軍用地、復興住宅、高層団地、地域福祉の拠点へと役割を変えてきた町です。
箱根山へ登り、高層住棟を見下ろしたとき、目の前にあるのは一つの団地だけではありません。
江戸、明治、戦争、敗戦、復興、高度成長、高齢化、多文化共生という、東京の時間そのものです。
東京23区の町丁目別高齢化率と都市型限界集落という言葉の注意点は、東京の都市型限界集落を横断する統計記事で確認できます。郊外団地との違いは、住民組織と見守り活動を重ねてきた常盤平団地の歴史と比べると分かりやすくなります。
ほかの地域史・都市史の記事は、歴史・文化の解説記事一覧から読めます。
事実確認:2026年7月20日
参考文献・参考資料
- 公益財団法人東京都公園協会「戸山公園」(最終確認:2026年7月20日)
- 国立公文書館 アジア歴史資料センター「陸軍戸山学校」(最終確認:2026年7月20日)
- 新宿区「昭和24(1949)年―新宿区史年表」(最終確認:2026年7月20日)
- 新宿区「昭和50(1975)年―新宿区史年表」(最終確認:2026年7月20日)
- 東京都議会「令和三年 都市整備委員会速記録第十二号」(最終確認:2026年7月20日)
- 東京都議会「令和二年 都市整備委員会速記録第三号」(最終確認:2026年7月20日)
- 古賀繭子・定行まり子「都営戸山ハイツにおける高齢者の住まい方からみた継続居住に関する研究」『都市住宅学』2013年83号(最終確認:2026年7月20日)
- 古賀繭子・定行まり子「大都市中心部に位置する公営住宅における高齢者の買物行動の変化に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』2016年81巻721号(最終確認:2026年7月20日)
- 厚生労働省「暮らしの保健室等を視察した秋葉厚生労働副大臣」(最終確認:2026年7月20日)
- 新宿区「戸山いつきの杜 開所式」(最終確認:2026年7月20日)
- 新宿区「町会・自治会(若松地区)」(最終確認:2026年7月20日)
- 聖教電子版「外国籍住民との共生を目指す団地の取り組み」2026年6月23日(最終確認:2026年7月20日)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全圖」(最終確認:2026年7月20日)
- 国土地理院「地理院タイル一覧」(最終確認:2026年7月20日)
- Wikimedia Commons「Toyama Heights Building No 33 2024-04-25」(最終確認:2026年7月20日)
- Wikimedia Commons「Toyama School Memorial」(最終確認:2026年7月20日)

