上野公園のゆる歴史散歩と寛永寺・不忍池弁天堂の灯籠流しを鑑賞します!

太宰治が愛した跨線橋 イベント

今回訪れる予定の場所

下谷仏教会主催の「流燈会(りゅうとうえ)」について

「お盆」は『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経に説かれるお話、すなわちお釈迦さまの弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)の母が飢えと渇きの世界で苦しんでいたところ、お釈迦さまの教えにもとづき供養して救われた、という故事が元になっています。一般的には7月13日夕方から16日までとされ、寛永寺ではその前日である7月12日に法要を行い、お盆を迎える準備を行います。

ところが中国古来の考え方では、7月1日は「地獄の釜の蓋が開く日」と考えられ、苦しみの世界で迷う無縁仏がこの世に再来する時期であるとされてきました。すると、法要によって安らかになった私たちのご先祖さまの周辺が、急に騒がしいことになってしまいます。

そこで仏教では、ご先祖さまについてくる無縁仏を無視するのではなく、なんとかお祀りしようと考えました。しかし無縁仏は不安定で荒々しいと考えられたため、安らかに清まっているご先祖さまと単純に一緒に祀るというわけにはいきません。そこでご先祖さまを祀る「精霊棚(しょうりょうだな)」は室内で、無縁仏はあえて屋外の「施餓鬼壇(せがきだん)」に分けて祀ることで、帰る家がない気の毒な霊を私たちの手で供養するという方法を考え出したのです。つまり、お盆に自身の先祖を供養することは、仏教で考えるあらゆる世界の霊(三界万霊 さんがいばんれい))もすべて一緒に供養していることに他ならないのです。

さて、「灯篭流し」もご先祖さまが無事極楽浄土へ帰れるよう、祈りと感謝の気持ちを乗せて流します。本年も7月17日夕刻より、下谷仏教会主催の「流燈会(りゅうとうえ)」が当山不忍池辯天堂にて執り行われます。どなたでもお参りいただけますので、皆さま是非足をおはこびください。

東叡山寛永寺の公式ページ

河鍋暁斎の錦絵
卓越した絵画技術を持ち、激動する時代の中で伝統的な花鳥画・山水画・歴史画から、浮世絵や風刺画、戯画まであらゆる画題を描き尽くし、幕末~明治中期にかけて活躍した天才絵師・河鍋暁斎。ここ数年、毎年のように相次いで開催された大型の回顧展により、河鍋暁斎の知名度は一気に高まりつつあります。

河鍋暁斎
天才画家の意外な一面とは「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」

天海僧正毛髪塔
天海(てんかい、1536-1643)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

Wikipedia

摺鉢山古墳
上野公園内に比較的よく保存されています。現存の全長約70メートル、後円部の直径約40メートルで西に前方部を向けた前方後円墳です。埴輪の破片や須恵器すえきが出土したこともあり、約1500年前に築かれたものと推測されます。古墳時代にはこの古墳を中心に、東京国立博物館構内にかけて古墳群を形成していましたが、現在ではこの古墳が唯一残っているものです。

台東区

清水観音堂
清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。

東叡山寛永寺の公式ページ

駅伝の碑 (駅伝発祥の地記念碑)
駅伝の歴史ここに始まる。我が国最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が
大正6年(1917)4月27〜29日の3日間にわたり開催された。
スタートは京都の三条大橋、ゴールはここ上野不忍池の博覧会正面玄関であった。

不忍池辯天堂
不忍池(しのばずのいけ)辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。
こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。
昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。

東叡山寛永寺の公式ページ

八橋検校顕彰碑

八橋検校は、近代筝曲の開祖と言われています。江戸時代初期、1614年に磐城(福島県いわき市)で生まれたとされる検校は、幼い頃から目が不自由で「当道座」に入りました。当初は大阪にて三味線で名が知られていましたが、江戸に出て箏を習いました。1636年検校は初めて京にのぼりましたが、箏を極めたいとのことから、肥前国の僧、玄恕について習ったといわれています。1663年頃から検校は京都に移り住み、多くの弟子を育てました。特に1650年頃から、それまでの筑紫箏とは違った新しい調弦法を編み出し、「雲井の曲」、「六段の調」、「八段の調」など、数多くの筝曲を作曲しました。

八橋検校
聖護院八ッ橋総本店のページ

確認テスト

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イベントの様子

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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