以下の内容は公式サイトからの引用です。
寛永寺について
寛永寺は、天台宗の別格大本山として江戸時代に建立された寺院である。1625年、慈眼大師天海により徳川幕府の安泰と民衆の平安を祈る目的で、江戸城の鬼門に位置する上野台地に創建された。徳川家の菩提寺としても機能し、格式と規模を誇ったが、幕末の上野戦争や関東大震災、太平洋戦争により敷地の多くを失った。その後、霊園を整備し一般檀家を受け入れるなど、開かれた寺院としての再建を進めている。2025年に迎える創建400周年に向け、上野の歴史的役割を伝え続けている。
天台宗について
天台宗は、伝教大師最澄によって806年に開宗された日本仏教の一派である。比叡山延暦寺を拠点に「法華経」の教えを基盤とし、すべての人が仏となる可能性を説く一乗仏教を重視する。その思想は多様な修行や教理を通じて深化し、日本文化に大きな影響を与えた。鎌倉仏教の祖師たちを輩出し、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれる。修行は戒律を守り心を観察する実践を含み、日常生活の中で悟りを得ることを目指す。これにより仏性を育み、心安らかな人生と永遠の命を得るとされる。
天海について
天海(1536~1643年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の大僧正(僧侶の最高位を表す称号)。尊号(僧侶や高徳の人物に贈られる称号)は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
天海大僧正は寛永寺の開山者であり、108歳という長寿の僧侶である。彼の命日である10月2日には、寛永寺で「開山会」が営まれ、その遺徳が偲ばれる。一時期、明智光秀が天海に成り代わったとの俗説が広まったが、この説は既に否定されている。天海は徳川家康の精神的支柱として仕え、秀忠・家光の三代に渡って重用された。特に家光は、家康が信頼した天海を崇拝し、天海が進めた延暦寺の再建事業を支援した。その結果、延暦寺の根本中堂が現在の姿に再建されたのは家光の治世の功績である。
- 尊号:僧侶や高徳の人物に贈られる称号※院号:戒名や法名の前に「○○院」のように付けられる号で、位(ランク)を表す部分。社会的な貢献度や寺院への貢献度合い、生前の信仰度合いに基づく。「院」とは「垣根をめぐらせた大きな建物」を指す言葉で、もともとは天皇の退位後の住まいの呼び名。
- 戒名(かいみょう):仏教における故人の敬称。
- 法名(ほうみょう):仏法に帰依(きえ)し、お釈迦さまの弟子となった者の名前。亡くなった者の名前ではなく、念仏者として信に生きる者の名前。
- 諡号(しごう):神道における故人の敬称で生前の功績や人格を反映した名前。天海の場合、諡号は「慈眼大師」で、慈悲深い眼を持つ大師(偉大な師)を意味する。
山内について
- 諸堂と伽藍
- 根本中堂
- 開山堂(両大師)
- 清水観音堂
- 不忍池辯天堂
- 上野大仏(パゴダ)
- 時鐘堂
- 寛永寺別院浅間山観音堂
- 光明閣
- 寛永寺輪王殿
史跡
- 德川歴代将軍御霊廟
- 旧本坊表門
- 天海僧正毛髮塔
- 旧寛永寺五重塔