東京・北区の滝野川から王子へ歩くと、住宅地の道路や公園の下に、幕末の大砲製造計画を支えた水路の記憶が重なっています。江戸幕府が滝野川村に計画した反射炉と錐台、その動力を得るために千川上水から引いた王子分水です。
現在、反射炉の炉体や王子分水の開渠は残っていません。それでも千川上水分配堰碑、西巣鴨へ延びる旧水路の方向、石神井川の谷、旧醸造試験所第一工場などをつなぐと、幕末の軍事技術から明治の紡績・製紙・醸造へ続く王子・滝野川の近代化を現地でたどれます。

滝野川反射炉とは|江戸の北に計画された大砲製造所
幕末、日本近海に外国船が相次いで現れると、江戸幕府は海防のため洋式大砲の製造体制を整えました。元治元年(1864)、勘定奉行を務めた小栗忠順らは、江戸北郊の滝野川村に反射炉と錐台を備えた大砲製造所を設ける計画を進めます。
反射炉は、燃料の炎を直接金属に当てるのではなく、炉内で熱を反射させて高温を得る炉です。幕府が滝野川で目指したのは、炉だけを置く施設ではなく、鋳造した砲身を加工する錐台まで含む製造拠点でした。1864年の上申と、その後に水路や施設の工事が進められたことが史料・研究で確認されています。
小栗は1860年、万延元年遣米使節の一員としてアメリカへ渡り、帰国後は幕府の財政・軍制・産業の近代化に関わりました。人物像や横須賀製鉄所との関係は、「小栗忠順とは何者か|幕末幕府の近代化を支えた男を初心者向けに解説」で詳しく紹介しています。

反射炉と錐台|水が必要だった本当の理由
反射炉と錐台は役割が違います。反射炉で金属を溶かし、鋳型に流して砲身の素材をつくります。鋳造しただけでは大砲として完成しません。砲身の内部を正確に削り、弾道を通す穴を仕上げる加工が必要でした。
その加工を担う大型機械が錐台です。滝野川の計画で大量の水が必要とされた主な理由は、反射炉そのものを動かすためではなく、錐台を動かす水車の動力を確保するためでした。水を高い場所から落として水車を回し、その回転力を機械加工に使う構想です。
幕府の計画を「反射炉」だけで捉えると、水路をわざわざ引いた理由が見えにくくなります。炉で鋳造し、水力機械で砲身を仕上げる。その一体的な工場計画を支えたインフラが王子分水でした。
千川上水から王子分水へ|幕府がつくった動力の水路
千川上水は元禄9年(1696)に開かれた上水で、玉川上水から分水し、江戸北部の飲料水や農業用水を支えました。幕末の大砲製造所計画では、この既存の水利が工業動力として利用されます。
北区の千川上水分配堰碑の解説によると、幕府は現在の北区滝野川6丁目にある分配堰付近から、西巣鴨方面へ分水路を設けました。1864年の調査では、既存の千川上水を広げて深くする工事と、新たな分水路の開削が検討・実施されています。六義園付近を起点とする水路ではなく、滝野川の分配地点から大砲製造所側へ水を導く計画でした。
王子分水の旧流路は現在、地上に水面が連続して残る水路ではありません。一方、千川上水の本流には練馬区などで開渠が残ります。現在見える千川上水の水面と、滝野川へ向かった幕末の分水跡は区別して考えると位置関係が整理できます。
北区公式「千川上水分配堰碑」では、分水の経緯と明治以降の工業用水への利用を確認できます。
幕末の王子・滝野川|水と谷がつくった工業立地
幕府が滝野川を選んだ背景には、江戸に近いこと、機械を動かせる水を得られること、石神井川が刻んだ高低差を利用できる地形がありました。大砲の製造は重量物を扱うため、工場の配置と水の落差をまとめて考える必要がありました。

広重が安政3年(1856)に描いた「王子滝の川」には、起伏のある谷と石神井川沿いの景観が表現されています。その数年後、この地域で幕府の大砲製造所が計画されました。観光地として親しまれた王子・滝野川の水辺に、軍事と機械工業の新しい機能が重なっていきます。
王子分水の水は明治の工業へ引き継がれた
幕府が倒れた後も、千川上水と石神井川の水は王子・滝野川の産業を支えました。明治5年(1872)には鹿島万平が水力を利用する紡績工場を設け、翌1873年には渋沢栄一らが設立に関わった抄紙会社が王子で操業へ向かいます。後の王子製紙につながる事業です。
北区では石神井川・千川用水の水と隅田川の舟運を利用できたことから、製紙、印刷、化学、金属、機械などの工場が集まりました。幕末に軍事工場のため整えられた水利用の発想は、明治には民間産業を含む近代工業の基盤へ姿を変えていきます。
| 年代 | 水と産業の動き |
|---|---|
| 1696年 | 千川上水が開削され、飲料水・農業用水を供給 |
| 1864年 | 滝野川の大砲製造所計画に伴い、錐台の水力確保を目的に分水・水路整備が進む |
| 1872年 | 鹿島万平が水力を利用する紡績工場を設置 |
| 1873年 | 抄紙会社が王子で近代的な製紙事業を展開 |
| 1904年 | 大蔵省醸造試験所が滝野川に開設 |

現在残る旧醸造試験所第一工場は明治37年(1904)の建築で、妻木頼黄の設計による煉瓦造です。反射炉とは別時代の施設ですが、同じ滝野川に集積した近代産業の歴史を、現地で目にできる貴重な建築です。王子側の史跡は、「醸造試験所、地層、神社、飛鳥山など王子の歴史をめぐるお散歩」にもまとめています。
現地でたどる|滝野川反射炉と王子分水の痕跡
王子分水を現地で追うとき、出発点として分かりやすいのが北区滝野川6丁目の千川上水分配堰碑です。明治15年(1882)に水利権を明確にするため建てられた石碑で、幕末に分水路が設けられた場所の記憶を伝えています。
1.千川上水分配堰碑
所在地は北区滝野川6-9-1。ここから西巣鴨方面へ、かつての分水路が延びました。水路そのものは連続して残っていません。道路の向きや旧地図、区境などを重ねると、かつての流路を追えます。
2.西巣鴨へ向かう旧水路の方向
分配堰から西巣鴨方面へ進むと、旧中山道の歴史と交差します。西巣鴨から巣鴨までの街道沿いを続けて歩くなら、「板橋から巣鴨へ旧中山道を歩く|亀の子束子・庚申塚・とげぬき地蔵の歴史散歩」が周辺史の補助線になります。
3.旧醸造試験所周辺
王子側へ進むと、滝野川の近代工業史を象徴する旧醸造試験所第一工場があります。幕末の反射炉計画から約40年後に建てられた施設で、赤煉瓦の外観が現在まで残ります。反射炉そのものの遺構ではなく、同じ地域で近代産業が展開した後の時代を伝える史跡です。
4.石神井川と音無親水公園
王子駅近くでは、石神井川の旧流路を生かした音無親水公園へ出ます。滝野川の高低差と水辺を体感しやすく、幕末の工場立地を地形から考える終点に向いています。


石神井川をさらに上流側から歩くコースは、「石神井川を中板橋から王子まで歩く|板橋・加賀・音無川の歴史散歩」で紹介しています。
小栗忠順の計画から王子・滝野川の近代工業へ
小栗忠順らが進めた滝野川の大砲製造所計画は、反射炉、錐台、水路を組み合わせた近代的な工場構想でした。幕府の終焉によって計画の歴史は短く終わりますが、王子・滝野川では明治以降も水を動力・工業用水として生かす産業が広がりました。
現地に巨大な炉は残っていません。代わりに、分配堰碑、旧水路の方向、石神井川の谷、煉瓦造の旧醸造試験所が、土地の使われ方が変わった過程を伝えています。江戸の上水が幕末の軍事技術を支え、その水利用が明治の工業地帯へつながったことが、滝野川から王子まで歩くと一続きの地理として分かります。
よくある質問
滝野川反射炉は現在も残っていますか?
滝野川反射炉の炉体は現存していません。計画地周辺の歴史は、北区の資料や千川上水分配堰碑、旧醸造試験所周辺などからたどれます。
王子分水は今も水が流れていますか?
王子分水の旧流路に、当時の水路が開渠として連続して残っている状態ではありません。千川上水本流の上流部には現在も開渠がありますが、幕末に滝野川へ引かれた分水とは別の区間です。
錐台とは何ですか?
錐台は、鋳造した大砲の砲身内部を削って穴を仕上げる大型の加工装置です。滝野川では水車の回転力で動かす計画だったため、千川上水から分水して水を確保しました。
なぜ滝野川に大砲製造所が計画されたのですか?
滝野川は江戸に近く、千川上水の水を利用でき、石神井川沿いの高低差を機械動力に生かせる場所でした。幕府はこうした条件を組み合わせ、反射炉と錐台を置く工場を計画しました。
参考資料
- 東京都北区「千川上水分配堰碑」
- 東京都建設局「千川上水」
- 東京都北区『北区の産業』
- 文化庁「旧醸造試験所第一工場」
- 北区飛鳥山博物館『近代工業化のルーツ・滝野川反射炉展』
- 『勝海舟全集』第12巻(滝野川村に反射炉・錐台を建設する上申関係資料)

